10、柩を挽く者

 瘴気が漂っていた。

 レオンたちが西の棟に足を踏み入れたとたん、すさまじい轟音が響いた。
 顔を見合わせ、二人は小走りになる。だが二階にさしかかったところで、レオンがよろめいて壁に手をついた。
 どうしたの、と問おうとしてエルナははっとした。彼の手が赤く爛れているのに気がついたのだ。爛れているというより、かさかさに干からびていると言った方が的確だろうか。ぽろぽろと表皮が剥がれ落ちて、赤い肉が見えていた。
 エルナは自分の手を見た。彼ほどではないものの、同じように干からびて皮が剥けかかっている。
 二階の突き当たりにある王女の部屋を中心に、この階一帯に瘴気が広がっているのである。それでも体を起こして奥に進もうとするレオンを、エルナが制した。
「わたしに任せて。こんなときのために白魔法使いがいるのよ?あなたまでは手が回らないけど、自分ひとりなら何とか進めるわ。それにこの瘴気の中じゃ、多分どんなものも平気ではいられないはずだもの…」
 それ以上を口にすることは憚られて、彼女はすぐに口をつぐんだ。
 この空気を浴びて平気でいるどころか、多分生きていられるものもいないだろう。これを発している本人と――そして自分のように白魔法の手練れ以外は。
 レオンはじっとエルナを見つめて、渋々頷いた。空気に触れている部分の肌がちりちりしている。いかな彼でもここから先に進むのは自殺行為だ。
 エルナは青年の肩を二三度軽く叩くと、任せて置けというようににっこりと笑った。それから口の中で小さく何かつぶやく。と、うすいぼんやりした光が彼女の体を覆った。光のベールに身を包んで、彼女は濁った空気の中を二階に向かって歩き始めた。
 奥に進むに連れて澱みの密度はどんどん増してゆく。
 王女の部屋の前の廊下に、二人の女官が倒れていた。身につけた服がぼろぼろになっている。彼女は思わず目をそむけた。ひどい…有様だった。
 その骸の向こうに、王女の部屋がぱっくりと口をあけていた。この王城に備え付けられた立派な分厚い黒檀の扉がものの見事に朽ち落ちている。蝶番の取り付けられた部分は、芯まで腐ってぼろぼろだった。
 王女の私室だが王女の姿はない。部屋の隅にひとつ、そしてルシアスの足元に一つ骸が転がっていた。エルナのドレスの裾が触れただけで風に散って行きそうなほど生気が失われている。まるで木乃伊のように。
 その部屋の中に彼はいた。
 この惨状の中でただ一人立っていられた人物。
 まるで彫像のように、微動だにせず彼は立ち竦んでいた。
 背後からエルナが近づいてきたのさえ分からないようだった。
 彼女は彼の前面に回りこみ、両手で目を覆っている少年の血の気のない頬を叩いた。思いっきり、音高く。
「しっかりしなさい!」
 厳しく叱咤する。
「あなたが悔いて死んだ人間が生き返るなら、いくらでも後悔するといい。でも、そんなことありえないでしょう?悔やんでも逃げられやしないのよ。――とにかく、まずあなたの力を抑えて。心の中にあいた穴を閉じるの」
 この瘴気の正体も、恐らく魔法と似たようなものだろうとエルナは思った。自分の肉体のさらに奥にある、深い空洞から溢れてくる別種の力。それを制御するにはかなりの訓練がいる。今初めてその力を手にして呆然としているこの少年がその口を閉じるためには、とにかく心を落ち着かせるしか手がなかった。

―◇―

 頭の中が真っ白になっていた。
 ビビアンの後を追って彼女の部屋にやってきたものの、扉には鍵がかけられていて、どうやっても開かなかった。それでも、外から何とか慰めようと口を開いた彼の耳に飛び込んできたのは、卓だか何か、重い調度品を倒したような鈍い音と人が取っ組み合っているような音、そして「何者!?」というビビアンの鋭い声だった。
 続いて斬り結ぶ剣の耳障りな金属音が響く。
「ビビアン!」
 驚いてルシアスは扉に体当たりをかましたが、堅い黒檀の扉はびくともしない。
 取っ手を握り、ガチャガチャと揺らす。
「ビビアン!!」
 叫ぶしかないルシアス。その向こうで逃げ惑うような音、苦しい息遣い、そしてビビアンが必死にこちらに来ようとしているらしい声がする。
「兄様――きゃあっ!」
 その声は風を切る剣の唸りと同時に悲鳴に変わった。
「ビビアン!!」
 ルシアスの中の何かが弾けた。
 目もくらむほどの閃光と轟音が発し、堅牢な扉が一瞬にして崩れ落ちる。
 大きく口を開けた入り口から見えたのは、組み伏せられ、今しも喉笛に白刃を突き立てられそうになっているビビアンの姿だった。
 間に合わない!
 咄嗟にルシアスは思った。
 瞬間、再びルシアスの体が強烈な光を放った。
 細い無数の光の帯が、まるで蛇のようにくねりながらビビアンに馬乗りになった男めがけて突進する。その光の矢に打ち抜かれて男は吹っ飛び、石造りの壁にしたたか叩きつけられた。
 べちゃっ、という湿った音がして、壁に血糊の後を描きながら男の体がずるずると床に滑り落ちる。声をたてる間もなく、男は絶命していた。
 信じられない一連の出来事に、ルシアスは言葉を失う。と、その時。
「兄さま!後ろ!」
 身を起こしたビビアンが叫んだ。
 とっさに振り返ったルシアスの額の角に、曲者の長剣が振り下ろされる。切っ先が角に触れるまさに寸前、さらに大きな爆音と光が部屋を突き抜けた。
 それは壁を打ち崩し、二階の一画をすべて巻き込むほどの、凄まじい光の嵐だった。
 どれくらい続いていたのだろう。
 一瞬の出来事のはずなのに、光が退くまでずいぶん長い時間がかかったような気がする。
 穴だらけになって、あちこちが朽ち落ちた部屋。
 ようやく静寂が戻ってきたそこに、ビビアンの姿はなかった。
 ルシアスが振り返ったあの瞬間、狙い済ましたように誰かが彼女を攫っていったのだ。
 助けられなかった。
 そして…。
 自分が引き起こしてしまった惨状に、ルシアスは呆然と立ちすくむばかりだった。
 床に転がった二人の死体。
 首をめぐらして、さらに彼は打ちのめされる。
 廊下に――おそらくは突然の物音に驚いて様子を見に来たのだろう――二人の女官が倒れていたのだ。
 二人とももう息はなかった。胸も腕も、ぴくりとも動かない。
 
 いったい自分は何をしてしまったのか。
 これが――父親の危惧した自分の力、なのか。
 両手で顔を覆い、額をかきむしる。爪で皮膚が裂け、血が流れ出る。だがそんな僅かな血など、何の贖いにもならなかった。
 あまりの酷さに、泣くこともできず――ただ彼は、立ち尽くすばかりだった。

 その真っ白な頭を現実に引き戻したのは、金色の髪と碧の瞳だった。
 はっとした次の瞬間、彼はひどくぶたれていた。
「まだ瘴気が残っているの。あなたが心を静めないと、誰もここに近寄れないわ。二人の女官たちを弔ってあげることすらできないのよ。しっかりなさい。落ち着きなさい」
 それは祈りの言葉に似ていた。紡がれる言葉の意味よりも、連ねられる韻律が鎮静効果をもたらす。だからエルナは、わざと一様な調子で語り続けた。
 
 ゆっくりと、ルシアスの瞳に正常な光が戻ってくる。だが強張った唇は、まだ声を発することはできなかった。
 エルナは手を伸ばし、そっと少年の顔からその両手を外してやる。そうして露わになった赤い血がこびりついたその額を、丁寧に優しくぬぐった。
 彼女の指が触れた箇所の傷が、すっと癒えてゆく。
 彼女は俗に言う「癒しの手」だったのだ。詠唱をせずに白魔法を使える――極めて特殊な術者。
 エルナは自分より少し高い位置にあるルシアスの顔を両手ではさみ、わずかに下に向けさせた。
 怯えた子どもみたいに悲しい色を浮かべた青い瞳を、正面からまっすぐに見上げる。
「怖いのでしょう?哀しいのでしょう?私には少しだけ分かるの。私もあなたと同じように、人とは違う能力を持ってしまったから。だから、私の前では我慢しなくてもいいのよ。吐き出してしまいなさい。そして――心を鎮めて」
 手で挟んだまま、彼女はそっとルシアスの顔を引き寄せた。

 会ったばかりで何も知らない。ただすれ違っただけなのに、なぜ彼女がこうも心に食い込んだのか、この時初めてルシアスは理解した。
 魂の響きが共鳴したのだ。限りなく近い存在だったのだ。
 疑問が氷解してゆくと同時に、心の中の張り詰めた畏怖も痛惜も溶け出してゆく。
 
 小柄なシスターの細い肩に額を押し付けて、ルシアスは泣いた。
 子どものように泣きじゃくった。
 髪を撫でる彼女の手が、やさしかった。

―◇―

 ふん、と鼻を鳴らす。
 瓶に張った水鏡に映る一部始終を見物していた男が一人。
 白い髪に鮮やかな緋色の瞳。
 秀麗な口元を皮肉に曲げて、彼はため息を洩らした。
「思ったより効果はなかったようだね。最愛の妹の危機なんだから、もう少し彼の力を引き出してくれると思ったんだけどな」
 
その傍らで一人の男が恭しく頭を垂れている。黒髪を短く刈り上げた細身の男だ。全身黒尽くめで、顔と言わず剥き出しの肩といわず、全身に刺青を施している。
「あの娘では役に立ちませぬか」
 くぐもった低い声が聖堂に木霊する。
 ――そこはダリの村外れに建てられた、シルヴィウス派の小さな教会だった。
「短絡的だね。そうは言っていない。これはまず手始めさ。彼には邪魔な付属品がいっぱいひっついているからね。まずそれを一つ一つはがしていかないと。期待してるよ、シレンシア。これからもっと働いてもらわなきゃいけない」
「御意。門主様」
 跪く男はさらに深く頭を下げた。
「お前、堅苦しすぎるよ」
 苦笑を浮かべながらシルヴィウスは瓶の水をかき混ぜた。
 そこに映っていた光景が波紋と共に消え失せる。代わって映し出されたのは大地に蠢くゾンビの群れだった。
「ルシアスの波動の余波…か」
「その力で門主様の御左目は戻りましょうか」
 シレンシアと呼ばれた男が意外に素直な目を上げる。シルヴィウスはふっと笑って彼の頭を撫でた。
「やさしいね、シレンシア。ああ。近いうちにきっと――戻ってくる」
 一旦言葉をきって、意味ありげに隻眼を煌かせる。
「私の大切な左目がね」
 そしてシルヴィウスはフードを深くかぶった。
…では私はもう一仕事してくるとしよう。後のことは頼んだよ。それと、ルシアスに殺されたお前の同胞、二人とも手厚く弔ってやるといい。浄化の祈りは私が捧げてあげるよ」
「かたじけのうございます」
 深々と低頭するシレンシアにシルヴィウスが微笑む。
「お前たちは私の大切な弟子だからね」
 邪な蔭りなど微塵も感じさせない、それは清冽な笑顔だった。