13、柩を挽く者(その4)
おかあさん、おかあさん。
幼い子のか細い声がする。
母親は色の薄い息子の髪から目を背けた。
自分を捨てた男の面影を色濃く残しているから、彼女は子どもを疎むのだろうと近所では専らの噂だった。だが少年はそんなことは知らない。ただ、母が自分を見ようとしないことだけは知っていた。
おかあさん、お花、つんできたよ。お母さんの好きなつゆくさだよ。
切り傷をいっぱいこさえた小さな手で、たどたどしく差し出された草の束を、母親は乱暴にはらいのける。
あっちにいって。あんたの顔なんて見たくないの。ああ、どうしてあんたなんか産んだんだろう。
言葉が突き刺さる。もう突き刺さる隙間なんて残ってないくらいなのに、やっぱりそれはひどく少年を痛めつけるのだ。
おかあさん。おかあさん。ぼく、何をすればいい?
どうにかして母の気を引こうとする少年の小さな体を突き飛ばし、半分この世にはいない母の心は喚くのだった。
ならあっちにいって!顔を見せないで!
ひどく寂しそうにに少年は瞬く。
哀しい瞳にフラッシュバックする情景。
走る閃光。轟く雷鳴。中天を真っ二つに割る稲光。
ガイアとテラが融合し、この世界から一つの月が消滅した瞬間。
轟音とともに、漆黒の闇を劈く雷光がエスト・ガザの高台に落ちた。
町外れの高台には小さな家が一つあるきりだ。その家を真っ黒に焦がすほどの大きな光の塊が落下したのだ。
母親は留守で、家には10を越したばかりの息子が一人いるだけだった。一瞬にして形をなくしてしまった瓦礫の下敷きになった少年が、生きているとは誰も思わなかった。
だが、焦げ落ちた梁の下から、少年は自力で這い出てきた。
煤と泥と埃で真っ黒になって頭を出した少年の顔を見て、駆けつけた近所の住人たちはあっと声を上げた。
薄い紫にも見える銀髪だった少年の髪は、真っ白に変わっていたのだ。彼の左目の場所にはぽっかりと――黒々とした穴が開き、そこからおびただしい血に混じって透明な液体が流れ出ていた。中の眼球が破裂し、眼窩が露わになっていたのである。
全身傷と血だらけの少年は、必死に瓦礫をよじ登ると、母の姿を見つけて泣きながら駆け寄った。
おかあさん、痛いよう。怖かったよう。
だが母は、現れた息子の異形を一目見て悲鳴をあげた。
こんなのはあたしの息子じゃない。化け物!近寄るな!
ひどく突き飛ばされた小さな体を、村人が助け起こした。
少年は残った片方の目を大きく見開いて、黙って涙を流し続けた。その涙が恐怖から解放された安堵の涙ではなくなってしまったことに、その場にいた何人が気づいたろう。
それからもう二度と、母親は少年を見なかった。彼女の世界から少年は消えてしまったのだ。
そして少年もまた、自分の中から心を失った。
その日を境に、彼はよく夢を見るようになった。黒い海の夢だ。水が敷き詰められている深い場所。水面からいつもゆらりと陽炎が立ち、その陽炎が少年に語りかけるのだ。
<お前の左目は失われたのではない。内側を向いたのだ。>
<よく目を凝らしてごらん。お前の中にこの海がある。果てしなく続く力の海だ。そしてもっと注意深く見つめれば、その海の向こうにある、お前の左目が見ている世界に気づくはずだ。>
言われたとおりにじっと目を凝らしてみる。
ぼんやりした明かり。
そして、自分を覗き込む女の顔が見える。
黒髪に黒い目の人だ。
優しい目をして自分をのぞき込んでいる。
ルシアス。
と、そのとき女の人は言った。
いい子ね、ルシアス。大好きよ。とうさまもかあさまも、、あなたのことを世界で一番愛してるわ。
優しい手がこっちに向かって近づいてくる。
触れた感覚はなくても、誰かが幸せな気持ちになったのがわかる。
ルシアス…?
いったいそれは誰だろう。
どうして幸せな気持ちがここまで届くのだろう。
陽炎は語る。
<ルシアスはお前の魂の半分。>
<お前はこの力の海の番人だ。そしてルシアスが力の主。彼を探し出してここを教えておあげ。そのためにお前は選ばれたのだよ>
教えてあげたら友達になれる?
ぼくのたましいの半分なんだったら、ぼくのこと好きになってくれるかな。
ちいさな少年は一生懸命に尋ねる。
<ああきっと。>
たとえ機械じみた冷たい声でも、同意してくれるその言葉が嬉しかった。
ルシアス。
ルシアス。
ぼくのたましいのはんぶん。
きっと、ぼくのことを好きになってくれる、たったひとりの――ぼくのともだち。
そのときから。
それだけが、少年の存在をこの世に繋ぎ止めるよすがとなった。
あの頃はそう信じていた。
そして、焦がれていたのだ。ルシアス――君に。
はっしと――よろめいたシルヴィウスは覗き込んでいた水がめの縁に手をついた。
危く向こうの世界に引きずり込まれるところだった。
番人の彼でさえ、しっかりしなければ我を失ってしまう。そこはそんな力の源だった。
ふう、と深い息を吐いて、呼吸を整える。
それから彼はもう一度水がめを覗いた。
ぼんやりと浮かび上がってくるのはある霧に包まれた集落の様子だ。
崩れ落ちた門楼一帯の霧が取り払われている。その後は結界を張った状態にでもなっているのか、霧は浸入してこない。
ただ建物が倒壊した煽りで、埃と木切れが飛び交って視界は悪い。
その中を風のように駆け抜ける男の姿をようやく捉えて、シルヴィウスは口の端を曲げた。
「そうだ、最後に一暴れさせてあげよう。君への手向けの花だよ、レオンハルト=アーシス=スタイナー。少しは盛り上がりがないと、面白みがないからね」
誰もいない最奥の祈祷堂で、一人佇む僧侶は、そう呟いて静かに笑った。
「どこだ!?ビビアン!」
レオンは走る。
爆音と叫び声を聞いて、奥の小屋からばらばらと男たちが飛び出してきた。総勢30名強か。それぞれ剣や短刀を手にしている。無駄な戦闘は避けたかった。これだけの人数を相手にするとしたら、温情をかけてはいられない。おそらく――いや、確実に、死人が出る。
レオンは方向を変えた。右手に大きく迂回しようとしたのだ。だが敵もさるもの、素早く彼の行く手を遮る。一瞬足を止めたレオンを、瞬く間に彼らは取り囲んだ。
「どけ。怪我をするぞ」
す…っと、レオンは目を細め、剣を構えた。
空気が凍りつく。
しかし男たちは表情を変えなかった。言葉が分からないせいもあるのかもしれないが、それ以上に彼らは「覚悟を決めて」いるように見えた。
ぴんと張りつめた糸を断ち切ったのは、若い男だった。
奇声を発して、彼は大上段の構えからレオンに斬りかかる。
キィィンと、耳をつく大きな金属音が響いた。レオンがその剣を叩き落としたのだ。青年の手にした長剣は、あっけなく刀身半ばから折れてしまっていた。並みの得物などエクスカリバーの敵ではない。
それを思い知らされて尚、敵は怯まなかった。その半分になった剣を投げ捨て、腰に差していた短剣を抜く。そして何か叫ぶと再びレオンに飛び掛った。
今度は青年一人ではない。その叫び声を合図に、数人が一斉に襲い掛かったのだ。事態を察したレオンはふいっと身を沈め、エクスカリバーをかざしてクライムハザードを再び放つ。襲い掛かってきた男たちは凄まじい勢いで弾き飛ばされ、その隙にレオンは囲みを駆け抜けた。
「ビビアン!」
声が、聞こえた。
聞き間違いようがない。
胸にずんと響く、よく透る低めの声だ。その声が叫んだのだ。
自分の名を。
杵で壁に大きな穴を開けていたビビアンは、手を止めて顔を上げた。
「レオン」
うわごとのように呟いて、立ち上がる。
「レオン!!ここ!あたし、ここ!」
そして彼女は声を限りに叫び返した。
『黙れ!』
その叫びに応じてやってきたのは先刻の目つきの悪い男だった。
手にはやはり長槍を携えている。
ビビアンはすっと壁際に背を寄せた。金具を剥がすために開けた穴を隠すために。
だが男の目には、彼女が自分を恐れて後退ったように見えたのだろう。嘲笑が満面に浮かぶ。あくまで嫌味な奴だ。
『俺が怖いのか。そうかそうか。そのままおとなしくしていろ。お前を囮にしてやつをここにおびき寄せるんだからな』
ビビアンの正面に立ったまま、男は合図の指笛を吹いた。その隙を彼女は逃さなかった。
「甘いのよねっ!」
叫ぶと同時に男の股間を蹴り上げる。半分はがれかかっていた鎖の留め金の部分は、力任せに蹴り上げた勢いで簡単に壁を離れる。重い鎖をぶら下げた足は見事に男の大事な部分を直撃し、そのまま鎖は弧を描いて男の後頭部を強打した。
くう、という笑えるようなか弱い呻き声を上げたかと思うと、男はあえなくその場に昏倒した。
「ふんっ!ざまあみやがれっ」
吐き捨てるように言うと、鎖をじゃらじゃら鳴らしながらビビアンは小屋の扉を開けた。湿度の高いひんやりした空気と水の粒が一気に流れ込んでくる。その風に乗って男たちの声と足音が入り混じって聞こえてきた。
ビビアンは目を凝らした。
「レオン!ここよっ!」
目の前の広場の向こう側にある径をひた走ってくる青年の姿が見える。飛び跳ねんばかりに大きく手を振って彼女は自分の居場所を知らせた。
レオンは真っ直ぐビビアンに向かって走ってくる。だがその面に浮かぶのは安堵や喜色ではなく、はっきりとした渋い色――だった。
「ばかやろうっ!俺を待ってないで、自由になったんなら、逃げろっ!」
大声で怒鳴りながら彼は彼女の脇をすり抜ける。速度は意地でも落とさない。そのかわり、すごい勢いでビビアンの腕をぐいっと引っ張った。
「走れ!全速力だ!」
駆け抜けながら彼は言った。
ビビアンは頷くのが精一杯だった。身は軽い方だが足の速さがレオンにかなうわけがない。一生懸命足を動かすが、それでも間に合わない。その間に追手はどんどん距離を詰めてくる。このままでは逃げ切れない。そう判断したレオンは、ざっと土を巻き上げながら足を止めた。つられてビビアンも止まろうとする。だがすかさずレオンが怒鳴った。
「お前は走れ!とにかく逃げろ。ここは俺が食い止める」
「いやよ!」
間髪いれず、ビビアンは怒鳴り返した。
「あたしを誰だと思ってるの!?剣の腕はマリーにだって負けないんだから。あたしだって」
手を伸ばし、レオンの腰に残っていた短剣を勝手に拝借する。
「おいっ」
「十分戦力になるんだから!」
短剣といっても結構な大きさがある。小柄なビビアンにはちょうど使い勝手がいいらしい。ひゅんっ、と風を鳴らして重さを確認すると、彼女は胸の前でそれを構えた。なかなか様になっている。
「無駄に闘うな。勝つってことは相手に怪我を負わせるか、もしくは殺すってことなんだぞ。この人数が相手ならな」
レオンは低く呟くと、ビビアンの前に立ちはだかった。そしてくるりと背中を向ける。
「お前は俺の背中を守れ。それ以外に動くんじゃねえ」
どすの利いた命令口調は、厳かと言ってもいいほど重々しくて、さしもあまのじゃくのビビアンも頷くことしか出来なかった。
広い背中――目の前に立たれると、視界が全部彼の背中で埋め尽くされそうになる。こんなときなのに胸が高鳴りそうになって、慌ててビビアンは頭を振った。
「わかった」
短く返答すると、彼女もまたくるりと後ろを向き、レオンと背中合わせになる。
「後ろは、あたしが守る!」
凛と、彼女は言い放った。
レオンの口元にわけもなく笑みが上る。
「頼んだぜ」
背中の王女に聞こえないように、口の中で小さく彼は呟いていた。
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