14 今、そこにある愛

 廊下を走ってくる足音。ぱたぱたと慌てふためいたようにせわしないが、その音は軽い。小柄な女性かな、と想像しながらジタンは戸口に目をやり、そのドアが開くのを待った。
 案の定、現れたのは先ほどまでこの部屋にいた修道女だった。
「失礼します」
 髪の乱れも気にせずに、肩を泳がせ上気した頬で彼女は言った。ドアを開けてしまってから失礼しますはないだろうと思ったものの、彼女の顔が切羽詰っているので口にするのは差し控える。
「――女王陛下!」
 ノックも忘れて駆け込んできた修道女はジタンの目の前を素通りして、わき目も振らず女王の下に歩み寄った。娘の立てた微かな薫風に、ジタンは苦笑を浮かべつつ妻を見る。
 ガーネットはちらりとジタンに視線を走らせ、それから飛び込んできた修道女に目を戻した。
「血相を変えて…どうしたのです?」
 穏やかに問う女王の前に跪いてエルナは顎を上げた。
「ビビアン様の居場所が分かったのです」
「何!?」
 ガーネットが目を見開くより早く大きな声で反応したのは壁際に立っていたジタンだった。彼は即座にエルナに駆け寄ると、力任せに彼女の肩を掴んだ。
「それはどこだ!?」
 ジタンらしからぬ急いた様子にエルナは驚きを隠せない。だが気丈な性格そのままに、しっかりした口調で答えを返す。
「狭霧峰、パルマコンの邑だと…思われます」
 耳にするや否や、ジタンはさっと身を翻した。
「待ってください!」
「待って!」
 ほぼ同時に二つの声が飛ぶ。
 エルナは全てを語ったわけではないのだ。まだ行動するには早すぎる。夫を押し留めるべくガーネットは口を開いた。
「きちんと話を聞いてから…」
「ルシアス殿下にお力をお借りしたいんです!」
 だが女王は最後まで言葉を終わらせることができなかった。有無を言わさぬ強い声が彼女を押さえつけたからだ。

 ――無礼千万は百も承知だった。だが言わずにはおれなかった。
 女王の言葉を遮った一介の修道女は、頬を強張らせてドレスを握り締めた。
「レオンハルトがすでに救出に向かいました。でも、彼、一人で飛び出していったんです。どうか、ルシアス殿下のお力添えを賜らせてください」
 懇願するように彼女は低頭した。
 修道女が頭を下げる――それが何を意味するかもちろん女王は知っている。だが、そうまでして娘がルシアスにこだわる意味は解しかねた。
 いつになくうろたえて、彼女は助けを求めるように夫を見上げた。その視線を受けてジタンはかすかに頷いてみせる。冷静に戻った彼には判ったらしい。この修道女の思いが。
 つかつかとベッドに歩み寄ると、ばちん!と派手な音をたてて彼は息子の頭を叩いた。
「こら!クソ坊主、起きろ!出発だ。ビビアンを助けに行くぞ」
 かなり激しい衝撃に、ルシアスは深い眠りから引きずりだされる。うん…と彼は小さく呟いて寝返りをうった。
「おら!とっとと起きんか!」
 問答無用でジタンは上掛けをひっぱがす。
「うわっ…ちっ、父上?」
 とたんにぱっちりと眼を覚ましたルシアスは、びっくり眼で飛び起きた。
「ビビアンの居所が分かった。今レオンが救出に向かっている。だが相も変わらず単独行動だとさ。助けに行くぞ」
 言いながら彼は卓上においてあったローブを引っつかんで息子の頭に投げかけた。
「ビビアンの…!?」
 ルシアスの顔つきがたちまちきつく引き締まる。それは自責の念にまみれた顔だった。
「すぐに用意しろ。時間がない」
「は、はい!」
 疑問なんて確認している暇もないのだ。ルシアスは手早くローブを羽織ると、ベッドから降り立った。軽い眩暈に足がとられそうになる。それを横から支えたのは母ガーネットだった。
「母上…」
「いってらっしゃい、ルシアス。気をつけて」
「はい」
「来い」
 返事もそこそこに、頭をぐいっと引っ張られる。前のめりになりながら小走りでルシアスは父親の後に従った。
「私も行きます!」
 エルナが慌てて後を追う。
「エルナさん!」
 が、とっさにガーネットが彼女を呼び止めた。
「はい…?」
 無視するわけにもいかず、エルナは戸口で足を止める。
「ありがとう。あなたも気をつけてね」
 女王の慈しむようなあの微笑を向けられて、エルナは一瞬きょとんとし――それから我知らず赤面した。ぎこちなく頭を下げ、深々とお辞儀をすると、風のように踵を返して駆け出してゆく。

 しばらくその場に佇んで、ガーネットはじっと床に敷いた毛足の長い絨毯の模様を眺めていた。濃紺だったはずの窓から少しずつ明かりが差し始めたのだろう、模様の上には天蓋つきのベッドと椅子の長い影が落ちている。
 ふっと、自嘲気味に笑を洩らすと、彼女は首を振って視線を上げた。
 開け放たれた鎧戸の向こうに、黎明の赤い空が広がっている。
 夫と息子と修道女は、今湖脇の草原をひた走っているころだろうか。
 見えるわけもないのだが――だがじっとしていられなくて、彼女はガラスのはめ込まれた中窓を開けた。途端、冷たい爽風が吹き抜けてゆく。

 叩き起こされた息子の顔を見てようやく彼女にも解せた。
 ルシアスの面に去来した自責の念。エルナがルシアスにこだわった理由はそれだったのだと。
 目の前で妹をさらわれ、挙句むやみに力を放出してしまった自分に対する深い悔悟の情は、ルシアスを追い詰めている。穏やかな彼にあれほど暗く厳しい表情をさせるほど。それを癒すには彼自身が行動するしかない――彼自身の手で決着をつけさせるしかないのだと、あの年若い娘は悟っていたのだろう。
 娘は窮地に陥っている。そのうえ兄のルシアスまでも危険な目に合わせるなんてガーネットには考えもつかなかった。足元ばかりに囚われて、その選択肢など頭に浮かびもしなかった自分の迂闊さを、ガーネットは苦々しく思う。
 再び頭を振って彼女は側の椅子に腰を下ろした。力なく、崩れ落ちるように。
「仕方ないじゃないか。母親なんだから。子供のことになったら、目先しか見えなくなるさ」
 彼女の心を見透かしたように、誰かが戸口から語りかけた。耳に馴染んだ心地よい声だ。
「ジタン――」
 今しがたこの部屋を出て行ったばかりではなかったのか。思わぬ人の出現に、ガーネットは眼を丸くする。
「どうして戻ってきたの?子供たちは…?」
「どうも、俺の出る幕はないらしいんでね」
 ゆったりとした歩調で部屋の中央に進みながら、ジタンは背中にかけた外套を外した。
「ありていに言ってしまえば、置いてけぼりをくったのさ。あいつ――俺の目の前で<遠駆け>しやがった。しかもあの女の子を引きずり込んで、だ」
 どっかりと部屋の中央の椅子に腰を下ろしてその背にもたれかかる。
 遠く狭霧峰の上空に集まる黒雲。
 必死になってチョコボを走らせていた彼らの眼前に現れた光景が脳裏に甦る。
 重く厚い雲の中を無数の稲光が交錯していた。あれは普通の「霧」ではなかった。
 封印されたはずの――。
「遠駆け?ルシアスが?」
 だがジタンは詳細を妻には語らなかった。いつものように。後日全てを知って彼女が「ひどいわ」と口を尖らせるのは分かりきっていたけれど、それでも余計な心労をかけたくはなかった。
「ああ。――ったく…我が息子ながらあいつの力は底知れん」
 言葉を濁しながらうそぶく。そこには幾許かの感嘆と歎息が滲んでいた。 
「あの修道女――エルナとかいったか――あの子の力が干渉しているのかもしれない。ともかくも、今のあいつなら、レオンと力を合わせてビビを連れ帰ってくれるだろうさ」
 目を閉じてため息をつく夫をガーネットは黙ってみつめる。そしてゆっくりと彼に近づくと、その膝の上に座って、細い腕を彼の首に回した。
「そうね。そう思うわ」
 夫の想いが手に取るように分かってしまう細君は、それ以上何も言わなかった。いつものように。後日全てが明らかになったときに、口を尖らせて「ひどいわ」と少しばかり文句を言う羽目になるのは分かりきっていたけれど。
 
 明け方の細い赤い光が窓から差し込んでくる。
 たった今、日が昇ったのだ。
 ガラスの向こうに輝く山の稜線が、黒々としたアレクサンドリアの北山脈を朝焼けの空に刻み込んでいた。

―◇―

 ガキッと鈍い音をたてて、彼女の足にぶら下がっていた金属鎖が断ち切られる。跳ね上げた切っ先に巻き上げられた真鍮の錠は、霧の晴れた広場の空に舞い上がり、きらりと光を弾いた。
 自由になった足を広げ、ビビアンは腰を落とす。斬りかかってくる男のどてっぱらを横になぎ払い、抜く手も見せずに頭上から短剣を振り下ろす。血が吹き上がるが、それは額が割れたからで、多分致命傷には至らないはずだ。頭、もしくは鳩尾を狙うのは相手に気を失わせるためだった。そうしろと、さっきレオンから耳打ちされたのである。
「どう?結構うまいもんでしょ」
 この期に及んで自慢げにつんと鼻を上げるビビアンに半ば呆れつつ、レオンは彼女の横合いから飛び込んでくる男を斬り伏せた。
「ごたくは後から言え!ぼけっとすんな」
 相変わらずの素っ気無さに、ビビアンはイーっと舌を出して見せると、ふりむきざま背後の男の剣を受け力いっぱい撥ね退けた。
「なによ、いっつも」
 剣を振るいながら文句をたれるが、剣戟の響きにまぎれてその声はかき消されてしまう。
 ようやく半数ほどの男たちを倒しただろうか。
 それでもまだ10を越える数の人間が、武器を手に二人を取り囲んでいる。
「埒があかんな」
 吐き捨てるように言うと、レオンはぐいとビビアンの腕を引っ張った。
「何?」
 力任せに引っ張られて、横から彼の腰に抱きつくような形になってしまったビビアンは、いささか間の抜けた顔で彼を見上げた。
「俺にしがみつけ」
 乙女の逡巡をよそに、レオンは非常に事務的にきっぱりと言い下す。
 その口調にかなり納得いかないものを感じつつも、彼女は言われたとおりに彼にしがみついた。
 剣技を放つのだ――と、すぐに察したからだ。
 レオンの体から白い気が立つ。力が彼にみなぎってゆくのがしがみついているビビアンにはまさに手に取るようにわかった。
 が、そのとき。
「待って!」
 突如彼女が声を上げた。視界の隅に、放っておけないものが見えたのだ。
「何だ!?」
 苛ついたレオンの怒声をものともせずに、彼の服の脇を引っ張る。
「子ども!あの小屋から子どもが顔を出したの!ここで剣技を放ったら、あの子どもが巻き込まれちゃう!」
 ちっ、とレオンは舌打ちをした。
 振り上げていた剣を胸元に戻す。立ち上りかけていた気が瞬く間に収束し、彼は通常の様子に戻った。
「仕方ねえ。場所を移動するぞ。森まで走れるか」
「うん!」
 場違いなほど元気に可愛くビビアンが頷く。
 軽い眩暈を感じつつ、レオンは的確に指示を出した。
「そうか。なら、お前がまず走ってこの先の門を抜けろ。俺はこいつらをしばらく足止めして、すぐに後を追う」
「うん、わかった!」
 ビビアンが踵を返し、門に向かって走り出そうとしたときである。
 しゅんっ、と、何かが二人の間を掠めて飛んだ。地面に突き刺さったのは細長い針のようなものだ。
 とっさにレオンはそれが飛んできた屋根を振り仰ぐ。そこに隠れていた男が二人、次の吹き矢を口に含むのが見えた。その矢口は狙いを一点に絞っている。
 レオンの体が動いた。
 いちどきに二人の人間を倒すことなどいかな彼でも不可能だ。だから彼の頭は瞬時に答えをはじき出したのである。彼にとっての、正解を。
 
 突然背後からひどく突き飛ばされて、ビビアンは前のめりに転倒した。
「何よ!」
 膝をついて起き上がろうとした彼女の背中に、何かがどさっと覆いかぶさってくる。…というより、倒れこんできた、といった方がいいかもしれない。
 力の抜けた重い人間の全体重に圧し掛かられて、ビビアンは思わず「むぎゅっ」と小さな呻き声を上げた。
「もう!」
 その重みはすぐになくなったが、倒れた拍子に掌と膝をすりむいてしまった。とんだ災難だ。体をずらして正面を向きなおすと、ビビアンは自分の上に倒れこんできた人間をにらみつけ――そして、絶句した。
「レオン…」
 蒼白な顔で、辛うじて膝をつき起き上がろうとしている男は、甲冑に覆われていない二の腕から血を流していた。突き刺さった二本の細長い針を無造作に引き抜いて、ゆらりと彼は立ち上がる。
『まさか…即効性の毒針だぞ!手足の先はもう痺れているはずだ!』
 碧の聖光を放つ大剣をぶらさげて、ゆっくりと立ち上がった男を眼にして、周囲を取り囲んだ男たちは色を失った。
 言葉は分からないがその動揺は伝わってくる。
「おおかた毒かなんかなんだろう?おかげで熱が冷めてありがてえや」
 血の気が失せ、氷のように冷たくなった手をぎこちなく開閉してみせ、彼はぎゅっとエクスカリバーを握り直した。
「生憎だが、権謀術数渦巻く宮廷育ちなもんでね。毒に体を慣らしてある。どんな毒でも効き目は遅れる。――遅れるだけだけどよ」
 言いながら残りの群れに飛び込んでゆく。
「レオン…!」
 呆然と立ちすくんで青年を凝視する王女に彼は怒鳴った。
「走れ!安心しろ、すぐに俺も後を追う。とにかく走れ。全力疾走だ!」
 肩越しにちらりと振り返った顔を見て、ビビアンは泣きそうになる。青白い顔。眼の縁だけが赤く腫れて、まるで死人のようだ。
「毒って…」
「行けっ!」
 明らかにいつもの剣の冴えがない。圧されて後ずさるレオンの背中がビビアンに当たった。もう、走るしかなかった。こみ上げてくる熱い何かを必死で抑えて、彼女はくるりと踵を返した。そうして言われるがまま、全力で疾走する。
 風が彼女の頬に流れ落ちる何かを吹き飛ばした。

―◇―

 水鏡の縁に手をついて、一部始終を見物していた青年は、つまらなさそうに肩を竦めた。
「結局ものの役には立たなかった、ってことだね――期待はずれだ」
 ふう、と長いため息を吐くと、彼はすっくと立ち上がった。
「自分の手はできるだけ汚したくなかったんだけどな」
 言いながら両手を広げる。そうしてゆっくりと――呪文の詠唱を始めた。

 水瓶の中からごぼごぼという湯の煮立つような音が聞こえる。
 やがてそこから黒々とした水煙が吹き上がった。
 赤い、禍々しい光がその煙の中で乱舞する。
 
「…晦きに座し光を統べたる王の王、遍く天際より降る九十九なる光の刃もて万象を打ち砕かん」
 
 先のガイア戦役より封印されていたはずの黒魔法。
 その中でも最も誡められていた禁呪――メテオの詠唱だった。