16 朝焼けの火

 森の向こうの空を真っ赤に焦がし、幾千、幾万もの光の矢が降り注ぐ。
 ここまで届く鈍い地響きと轟く爆発音。そして熱風。
 今、村に襲いかかっている地獄絵図を思うだけで、ビビアンはいてもたってもいられなくなる。だが、だからといって彼女には何の為すすべもない。ただうろうろとその辺りを歩き回るしかなかった。
 と、そのとき彼女の背後に再び光と風が巻き起こった。
 焦げ臭い匂いをまとわりつかせながらまろび出たのは三人の人間だ。ぐったりとして地面に横たわっている大きな男と、その側で咳き込みながら片膝をついている少年。男に覆いかぶさるようにして呪文を唱え続けている女性。
 三人とも、あちこち煤けて汚れている。特に横たわった男は、下半身がぐっしょりと朱に染まっていた。
 ビビアンはぎゅっと、破れて穴の開いたドレスを握り締めた。
 心臓に、楔が打ち込まれた気がする。そこから自分の血が噴出す音が聞こえそうだ。
 固く閉じられた瞼。栗色の髪がはりついた、土気色の額。
 少しでも動くと震えが止まらなくなりそうで、彼女は身動きできなかった。

 凍りついているビビアンをよそに、ひとしきり咳き込んだ挙句ルシアスはふうっと大きな息を吐いて草むらに寝転がった。よほど疲れきっているのだろう、泥がつくのも構わず細い手足を無造作に投げ出す。
 その横でずっと詠唱を続けていたエルナも、ようやくほっとため息をついて顔を上げた。黒く煤けた腕で額の汗をぬぐい、安心したように天を仰ぐ。きっとひと段落ついたのだ。
 顔だけ横に向けて彼女と倒れている青年に目をやり、二人の顔色が幾分赤みを取り戻していることを確認してルシアスはまた息を吐いた。今度は明らかにそれと分かる、安堵の吐息だった。
「…た…助かったの…?」
 呪縛が解けたように、恐る恐る近づきながらビビアンが尋ねる。
「ええ…なんとか。殺しても死なない頑健な男なのが幸いでした。大量に出血したおかげで毒も大半が流れ出てましたし」
 後ろに手をついて体を支えたままそう言ってエルナは笑う。しかしまだその顔は苦しそうだ。プロテスをかけて炎から守りつつ、エスナとケアルガをほぼ同時に唱え続けたのだ。体力の消耗は甚だしいはずだった。
 それは連続で『遠駆け』を行ったルシアスにも言える事だった。
 二人のよれよれになった人間を見下ろして、ビビアンは見る間に顔をくしゃくしゃに歪ませた。澄んだ碧い双眸からぼたぼたと涙が溢れ出す。
「うぐっ、よひっ、よかっ、よかったっ。あげっ、ありっ、」
 意味不明の声を上げて、彼女はもっと顔をくしゃくしゃにした。
「ありがっ、ありがとうっ。ひくっ、うぐっ。ありがとうっ」
 もう顔中洪水だ。困ったような、くすぐったいような表情で、ルシアスはエルナと顔を見合わせた。ビビアンを落ち着かせようと、微笑を浮かべてルシアスが口を開く。そのとき。
「なんて顔してんだ。…ったく。鼻水垂れてるぞ」
 不意に地を這うような低い呟きが地面から聞こえてきた。三人はびっくり眼で一斉に横たわった青年を注視する。
 薄く開いたハシバミ色の瞳が、自分の側に突っ立っている少女を捉えた。
「鼻垂れ小娘。…ふんっ。せっかくの美人がだいなしだぞ」
 レオンが鼻先で笑う。いつものように。
 半死半生でも毒舌は健在のようだ。さすがに声には力がないが。
 片頬で笑う、その皮肉な笑みがビビアンの胸に飛び込んでくる。
 青白いその頬が痛々しくて。でも、目を開けてくれたのが嬉しくて。
「なっ!何よっ!死にかけの怪我人のくせにいぃっ。えぐっ、ひぐっ。でもっ、いっ、いいわっ、きっ、今日のところは、我慢してあげっ、あげるわよおっ」
 本当に顔中水浸しで涙も鼻水も一緒くたになったビビアンは、とうとう顔をまっかっかにしてその場にしゃがみこんでしまった。
「ふえ〜ん」
 本格的に大声で泣き始めた王女を横目でちらりと眺め、それからレオンはゆっくりと手をついて半身を起こした。そうして側の木の幹に寄りかかると、手を伸ばしてビビアンの頭をそっと撫でる。安心しろ、俺は大丈夫だ、とでも言うように。
 そのせいでいっそう涙が止まらなくなってしまった少女は、弾かれたようにレオンにかじりついた。
「いっ…」衝撃にレオンはちょっと顔をしかめる。そのくせ、その痛さが彼はやけに嬉しそうなのだ。
「俺の服でハナミズ拭くなよ。いい加減に泣き止んだらどうだ。顔が戻らなくなっちまうぞ」
 力も残っていないくせに、やたら喋り続ける。それが何のためか分かっていないのはビビアンだけだ。でも彼女も今日ばかりはその皮肉な口ぶりが嬉しかった。どうしても涙が止まらないくらい、嬉しかった。
「ありがとうっ。ありっ、ありがとう、レオンっ」
 泣きじゃくりながら繰り返す少女の頭を、幾分辛そうに目を閉じながら、レオンは静かに撫で続けた。

 二人の様子を寝転がったまま眺めていたルシアスは、ふっと小さく笑って体の向きを変えた。
 そのどこか寂しげな笑みを目ざとく見つけたエルナが、彼の側に座りなおす。
「また、ろくでもないこと考えていたでしょう」
 彼女は青い絹のドレスを身につけたままだ。だがせっかくのそのドレスも、焼け焦げとカギ裂きと煤だらけで見る影もない。彼女は少女のように膝を抱えて、その裾をいじくりながらさりげなく突っ込んだ。
「ろくでもないことって…。うん。まあ、そう言われると、そうかもしれない」
 木々の間から見える水色の薄い空を見上げて、ルシアスが肯く。
 いつの間にか雲も霧も取り払われてしまったらしい。そういえば、先ほどまで響いていた地鳴りも収まっている。焦げ臭い匂いと火災の熱だけが、未だ色濃く辺りに漂ってはいるが。
「さっきの…村を、さ。思い出してた」
 ぽつりとこぼす。
 劫火、だった。凄まじい炎が、あたり一面を嘗め尽くしていた。高い長い音を響かせながら空気を切り裂いて降り注ぐ火の玉。その下を逃げ惑う人々。炎を噴き上げながら狂ったように転げまわる男。小屋から飛び出してきて火に潰される女、子ども。
 まさに阿鼻叫喚の…地獄だった。
「助けてあげられなかった。僕は、みんな見殺しにした」
 年端もいかぬ子どももいたのだ。でも、目の前の瀕死の盟友を助けることで精一杯だった。手を差し伸べてやることができなかった。
 ルシアスの胸中を察しながらも、エルナはちょっと怒ったように眉を上げた。
「当たり前でしょう。あそこで助けに走られたら、今頃あたしもレオンも死んでます。人間にできることには限りがあるんです。できもしないことをできなかったなんて悔やむのは愚の骨頂です」
 憮然として言い放つ。
 その強い語調に、ルシアスは仰向けに寝転がったままの体勢で肩を竦めた。
「そうだよね。僕だって分かってる。でも――僕が怖いのは、助けられなかったことだけじゃないんだ」
「ほかに何があるって言うんです?」
「僕は冷酷な人間なんじゃないか、って」
「は?殿下がですか?」
 どこをどうやったらこの温厚な少年が「冷たい」人間になるというのだ。エルナは半ば呆気に取られてルシアスの顔をみつめた。
「うん。僕は――あの炎の中で逃げ惑う人たちを見たとき、悲しいより…怒りの方が強かったんだ」
 ルシアスは目を細めて薄い空の向こうを睨んだ。ビビアンの涙。ありがとう、と、感謝の言葉を繰り返す彼女の姿がその空にオーバーラップする。
 彼女の感情の爆発は、決して憎悪には向かわない。だが、自分は…。
「許せない、と思った。そして――」
 こんな事をする人間は、殺してしまってもいいと、思ったのだ。とっさに、そう思ってしまったのだ。
 だがその言葉を口に上らせることは、ルシアスにはどうしてもできなかった。そのまま言い淀み、口をつぐんでしまう。
 勘の良いこの修道女はいったいどこまで気がついたのか。ふうっと細いため息をもらすと、首を振った。
「まったく、何を言い出すかと思えば」
 それからおもむろに立ち上がると力いっぱい背伸びした。さも、ルシアスのその悩みなど取るに足らないものだとでも言わんばかりに。
「王子。本当に冷たい人間は、そんなことを悔やんだりしません」
 事も無げに言って、そして彼女は笑った。
「あなたは、優しいわ」
 慈しみに溢れた、温かな笑顔だった。
 すっと…自分の中にわだかまるどす黒い感情が消えてゆくのを、ルシアスは感じた。
 彼女がいれば大丈夫だと思えた。彼女さえいてくれれば自分はどこにも行かずに――迷わずに、ここに立っていられる気がした。


「目的は、いったい何だと思う」
 トット先生はこのところ体調が思わしくない。そのためにダリの村で静養しているのだが、王都で何かあるたびにジタンが御意見伺いに通ってくるものだから、一向に体を休められない。とはいえ、それがトット先生の生きがいの一つではあった。
 今回の顛末を事細かに伝え、ジタンは先生の意見を待つ。
 紙片に書きとめた情報の断片をベッドの上に広げて、トット先生は唸った。
「持ち駒が少なすぎますな。情報があと少し…入用です。これだけでは当たるも八卦当たらぬも八卦の推察しか致しかねます」
「確かに…な。相手も分からねえしな」
 うう、と煮詰まるその部屋に、足音が近づいてくる。勢いの良い軍靴の音だ。身長の高い――だが軽い体重の人物。女性か。そういえば、聞き覚えがある。
 ジタンは立ち上がり、ドアを開けた。
 案の定、扉の前に立っていたのは久しぶりに自邸を出てきた将軍だった。
「ベアトリクス殿」
 部屋の奥からトット先生が彼女の名を呼ぶ。
 かっ、と、踵をつけて将軍は敬礼した。
「失礼致します、ジタン陛下、トット閣下」
「堅苦しい挨拶はなしにしてくれよ。ここは城じゃない。で、こんなとこまでどうしたんだ?」
 ジタンがトット先生のベッド脇にもどりながら尋ねる。
「至急お耳に入れねばならぬことがあるのです。それも内々に」
 後ろ手でドアを閉め、声を潜めて彼女は言った。
 内々、ということはガーネットには伝えない方が良いと彼女が判断した、ということだ。だがジタンには早急に知らせねばならない。つまり、国家的大事ではあるわけだ。それも、隠密裏に動くことが必要な。
「本日未明、ブルメシアからフライヤ殿が見えました。旧交を温めるという目的ですが、無論それは表向きのこと。実は先日ブルメシアに何者かが侵入し、宝珠を破壊して逃走した、というのです。わが国に来る前に寄ったリンドブルムでも同様に、天竜の爪が破壊された、とのこと。4つある宝珠が2つまでも破壊され、封印の力は弱まっていると考えられます。公になれば国家の騒乱を招くことは必定。残る2つの宝珠はなんとしても死守してほしいとの伝言を承っております」
 その言葉が終わるや否や、トット先生が呻いた。
「ジタン殿。どうやらこれですな。――ビビアン王女拉致はあくまで副次的なものと考えて良さそうですぞ…。主なる目的は、宝珠の破壊」
「だが、何のために?」
 間をおかず、先生は答える。
「この世を騒乱の渦へ導くために」