19 永訣――もしくは、果てのない愛
トレノの外れに建てられたシルヴィウス派本教会にエルナが赴いたのは、それからしばらくしてのことである。特に用件はない。だがどうしてもシルヴィウスに確かめておきたいことがあった。
迎えに出てきたのは見たことのない若い見習い僧だった。にきびだらけの顔をくしゃくしゃにして、彼は客を中に招き入れた。
応接室兼休憩室に通されたエルナはぐるりと部屋を見渡し、居心地が悪そうに中央のソファに腰を下ろした。
随分前に一度ここを訪れたことがある。自分が修道院の役職を与えられた時に、挨拶と資料の借用を兼ねてやってきたのだ。その時はこの部屋ももう少し片付いていた。正教会からシルヴィウスを慕ってついてきた司祭が、彼女を案内しながら床に散らばった紙片や本を拾い上げてこぼしていたことを思い出す。
――宗主には机と床の区別なんてつかないんです。思索に没頭しだすと、あたり構わず散らかすんで弱ってるんですよ。
彼は会計等の事務一般、そしてシルヴィウスの生活空間の確保維持までこなしていた。有能な補佐だった。
その司祭の姿が見えない。
茶を運んできたのも先ほどの僧だった。いつもなら必ず司祭が客の対応も引き受けていたのに。いったい彼はどうしたのだろう。
「グレアム司祭はどうなさったの?」
運ばれてきた茶を手にとりながら、さり気なく見習い僧に尋ねてみる。
僧はちょっと眉尻を下げて、悲しそうな顔つきになった。
「亡くなりました。先日、出入りの商人と酒を飲んで、川に落ちたんです。二人とも亡くなっちゃって、大変でした」
「…そう…」
エルナは言葉に詰まった。ガンガンと耳元で自分の鼓動が跳ねる。拍動が早くなる。
「それは大変だったでしょうね…」
空ろな言葉を口にして、茶を啜った。気持ちを落ち着かせたかった。
司祭を満更知らないわけではない。シルヴィウスが先輩であるように、彼もまた彼女たちの先輩だった。共に魔法を学んだ。シルヴィウスはあっという間に自分や司祭を追い抜いていき、自分もまたグレアム司祭をすぐに追い越した。それでも半ば諦めたように笑っていた温厚篤実な青年だった。そして敬虔な正教徒だった。――酒は飲まない。
「お待たせしてすまなかったね」
朗らかな声が響いた。びくっと肩を震わせた僧がそそくさと部屋を出てゆく。入れ違いに姿を現したのはこの教会の主だった。
「で…何の用だい?君の方から出向いてくるなんて珍しいな」
満面に笑みを湛え、彼は優雅に手を差し出す。その白く長い指を軽く握ってエルナは腰を浮かした。
「特に用はないの」
「ふうん。じゃあ私の顔が見たくなったってことかな?」
冗談めかした口ぶり。だがエルナはその軽口に付き合う気にはなれなかった。
「本当のことを教えてほしくて」
突きつけるような真剣な眼差しを向けられても、シルヴィウスの様子は変わらない。悠然と構え、彼女の向かい側に腰を下ろす。
「本当のこと?何の話かな」
「とぼけないで。――先輩、いったい何を企んでいるんです?」
「おおこわ。君はいつもそう聞くね。ほら、アレクサンドリアの渡しで久しぶりに再会したときも同じ事を言ってた」
微かに視線を宙に漂わせて、彼はひどく穏やかな表情を浮かべた。
「あの時とは…違うわ」
その彼の顔を見ていられなくて、エルナは目を逸らした。シルヴィウスを見てしまえば、自分のどこかに彼を信じたい衝動が生まれることが分かっているからだ。
「何が?どこが違う?」
「あの時は、あなたはただの変な先輩だった。悪戯好きで、やんちゃな子どもみたいな――いつだって何か突拍子もないことをしでかして、人を惑わせて喜んで、でも憎めない私の先輩だった。でも今は違う。この世界にたくさんの災いを呼び寄せている張本人だわ」
くすくすと、シルヴィウスは小さな笑い声をたてた。
「いったいまあ…どこからそんな無茶な推論をひっぱりだしてきたんだい?私がそんなことをしでかす意味は?私にそんなだいそれたことができるわけがないだろう」
「ごまかさないで。パルマコンの邑はあなたの教えに帰依していた――そうでしょう?その従順な信者をつかってわざとルシアス殿下の心を乱し、彼の力を引きずり出そうとしたんだわ。そしてその計画が上手くいったら、何の躊躇もなく村を一つ潰してしまった。足がつくのを恐れたからよ。あなたは隠れたところにいて、傀儡師みたいに全てを操って、ルシアス殿下の力を目覚めさせようとしている。何でなの?彼の力があなたにとってどんな意味を持つって言うの!?」
「君が何を言っているのか私にはさっぱり分からないな」
言葉とは裏腹に、彼の目が細められる。この目だ。以前は見られなかった、ぞっとするような冷たい眼差し。これがエルナを不安にさせるのだ。
「どこまでもしらを切るのね…。あなたを助けてた司祭が死んでしまったのはなぜ?…司祭も、パルマコンの邑も――あなたの大事な補佐や信者が次々に死んでいっているのはなぜなの?」
シルヴィウスはしばらくじっとエルナの瞳をみつめていた。だがやがて、諦めたようにふっと視線をそらした。
「で…君の推理は?」
「分からないわ。分からないから聞いてるの。あなたが、自分の邪魔になるってだけで人を殺すなんて思いたくないもの」
キッと――対峙して初めてエルナはシルヴィウスの瞳を見据えた。強い意志を湛えた目だ。だがシルヴィウスはその中にかすかな揺らぎを見つけ出す。絶対的信頼の奥底に疑念を滲ませていた司祭とは全く逆に、圧倒的懐疑の渦の中、ほんの一滴の信頼を残す修道女。
シルヴィウスの顔から表情がすっと消えた。それをエルナは『図星をさされたゆえ』と受け取った。彼の胸のうちで熾烈な相克が生じていることなど、エルナには知る由もない。
「昔まだ一緒に学んでいた頃、アレクサンドリアのお城に見学に行ったことがあったわ。あたしたち幼かった。遊び半分で書庫に忍び込んで、黒魔法の魔導書を見つけたのよね。その時は気づかなかった。それが固く封印されていたもので、その封印をいとも簡単にあなたが破ったのだなんて。中に書かれている文字はあたしには全く読めなかったし。…でもあなたは違った」
「それで?」
低い、何の感情も持たぬ冷たい声。
「今ならあたしにだって分かる。あの中には禁呪も記されていたはずよ。そしてあなたならそれが読み取れたはずだわ。有史以来最も強大な力をもつ魔導士と教会からお墨付きをもらっていたあなたなら」
「推理の上に推理を重ねて論理を構築するのはどうかと思うけどね」
「パルマコンの邑を焼き尽くしたのはメテオだわ!この世の中にあの魔法を使える人間が他にいると思う?」
「ルシアス殿下の力かもしれない」
「え…?」
思っても見なかった切り返しにエルナは戸惑う。
「風の噂にきいたよ。将軍の御曹司と美貌の修道女が王子と力を合わせて行方をくらました王女を救出した、とね。その王女を助けるために、憎き仇の邑にメテオを放ったのかもしれないだろう?」
「そんな…ありえないわ!」
「どうしてそう言いきれる」
「証拠がないもの。あたし近くにいたし…」
「証拠がなくても推論で人を犯人扱いするのが得意なんだろう?それに近くにいたからこそ怪しいんじゃないか。残念ながら私は舞踏会で君と別れた後、すぐにここに帰ってきててね。とてもじゃないけど、アレクサンドリアの街に魔法を落とすなんてことできないよ。それほどの力はない。買いかぶらないで欲しいな」
怒涛のように畳み掛けられた言葉に、エルナはもはや言い返す術を持たなかった。
「用件がそれだけなら、もう失礼するよ。こう見えても私は忙しくてね。頼みのグレアムも死んでしまったし」
素っ気無い言葉と共にシルヴィウスが腰を上げる。
「待って!」
エルナはとっさに立ち上がって踵を返そうとした彼の袖を握った。
「お願い。答えて。どうしてグレアム司祭は死んでしまったの?彼はお酒なんて飲まない人だったわ。あなただってそれは知ってるでしょう?」
必死にとりすがる修道女の手をシルヴィウスは静かに外した。その手を握ったまま体を修道女に向ける。
「エルナ。人は変わるんだ」
それは司祭を指した言葉なのか、それとも彼自身を指した言葉なのか。
白髪の青年は不意にひどく悲しそうな表情を浮かべ、自分を見上げる修道女の白い頬に手をあてた。そうしてそっと引き寄せて彼女の額に唇を押し当てる。
「アレクサンダーの恩愛があなたの上にもあらんことを」
灰色の僧服の裾を翻し、一陣の風と共に青年は部屋を去った。
金髪の修道女はしばしその場に立ち尽くしていた。
結局言いくるめられて何も聞き出すことが出来なかった。なのに押し当てられた唇はひどく温かで、それが彼女の心をかき乱す。
額にそっと指先をあてて、彼女は疲れきったようにソファに身を埋めた。
彼が最後に唱えた祈りの言葉。長い別れに際して正教会でよく使われれる平安と幸運の祈りだ。彼がなぜその祈りを最後に口にしたのか。それもまた、彼女には知るすべもなかった。
東の棟から西に走る大廊下に靴音が響く。ドレスの裾をはためかせてなりふり構わず駆けているのは誰あろう女王陛下その人だ。
ばんっ!と、音高くドアを開け放って部屋に駆け込むなり、彼女は息を弾ませながら夫の姿を探した。
そこはトット先生のために用意された部屋だった。ベッドの脇で、戸口に背を向け窓の外を眺めている長身の男を見とめて、まだ息も収まっていないのに彼女はつかつかと彼に歩み寄る。
「ひどいわ!」
開口一番発せられた詰責に、ジタンはゆっくりと振り返った。黙ったまま。こよなく優しい眼差しで最愛の妻を見つめ、静かに笑った。
「どうして――」
「日ごとに災厄はひどくなってゆくばかりです。陛下も頭を悩ませていらっしゃるのではありませんかの」
対峙する二人の横合いから落ち着いた声が響く。
トット先生は幾分つらそうに身を起こした。眼鏡を外して目頭を押さえる。
「責めるならこのトットを責めてくだされ。地脈の乱れを正す方法を、これしか思いつけませんでしたからの」
「先生――」
「お前に黙ってたのは悪かった」
悪びれる風もなく頭を下げるジタン。顔を上げたとたんに二カッと子どもみたいに笑う。幾つになっても変わらない、悪戯少年の顔で。
「他のことならいざ知らず、こんな――こんな大事なこと黙ってるなんてひどすぎるわ」
だがその笑って誤魔化す手法は、今回は役立たずだった。
ほとんど半泣きになって、ガーネットはジタンの胸にかじりつく。その広い胸に顔を埋ずめて、拳を何度もぶつける。
ジタンは優しく腕を妻の背にまわした。
「だってさ、黙ってないと絶対お前――」
「私も一緒に行きます!」
夫の腕の中でがばっと顔を上げて、いきなりガーネットは宣言する。
「…って、そう言うだろうと思ってさ…。ったく、スタイナーのおっさん、いたらんお節介をやいてくれるぜ」
額に手をあて天を仰ぐジタン。だが、ガーネットは彼の胸にすがりついたまま、強い語調で繰り返した。
「絶対離れるなんていやですからね。そんなこと考えられない。私も一緒に行きます!」
「子どもたちはどうするんだよ。それに、この国の屋台骨を支えてるのはお前なんだぞ?それを途中で放り出すことなんてできないだろう?その点俺ならしがらみはないし、いなくなったって大勢に影響なしじゃねえか」
決然とした瞳で自分を見上げるガーネットを覗き込んで、諭すようにジタンが言う。
「影響はあるわ。あなたがいなくなったりしたら、私は絶対おかしくなるもの。それにルシアスはもう16になったのよ。立派にひとり立ちできるわ。将軍だってベアトリクスだって、その子どもたちだってついていてくれるんだし」
「いや、だけどさ…」
「帰って来られる可能性は極めて低いのです。地脈のゆがみを正すためには、イーファの樹をつたってクリスタルの元に向かい、そこでクリスタルの司る魂の流れを変える必要がございます。本来ならルシアス様が適任なのでしょうが、そのお力はまだ完全に発現しておられない。とすれば、例の…テラの空間の開閉に用いられたという石を使うしかありません。その石を使えるのはジタン殿と女王陛下のみでいらっしゃる。しかし…もしこの方法が完全でないならば、この後歪んでいる場所を閉じねばなりません」
そこまで語った先生は、ごほごほと激しく咳き込んだ。慌てて二人が駆け寄り、先生の背中をさする。
「先生…大丈夫ですか?」
心配そうなガーネットの声に、トット先生は軽く手を上げて大丈夫だと示してみせる。
「かたじけない…」
「先生、後は俺が説明するよ」
言って、ジタンはベッドの縁に腰を下ろした。
「いつものように単独で調査に出向いて、その結果ゆがみの中心地は分かったんだ。やっぱり輝く島だったよ。エネルギーが一点に集中しすぎて、もともと時空が歪みやすいんだろう。とてつもない光が放出されてた。その中に何があるか俺にも分からない。だが、もしイーファの樹が成功しなかったら、その中に突っ込んで内側からゆがみを閉じないといけなくなる。そしてどうなるか――帰ってこられるのか来られないのか見当がつかねえんだ。そんな危ないこと、お前にさせられねえ。俺だけでできるんだから、俺だけでやる」
「冗談じゃないわ!なら、尚のことあなただけにはさせられない!」
ガーネットは真顔で怒鳴った。だがジタンはものともしない。
「いいか?これで抑えられるのは天災だけだ。だがまだ魔物は横行してるし、俺たちに挑戦するみたいに事件を起こす奴もいる。これから先何が起こるか分からない。お前は残って、子どもたちやこの国を支えなきゃいけないんだ」
「いやよ!これだけは絶対に譲れない。この国を、この世界を守るために犠牲になるようなことを、自分以外の誰かに押し付けてのうのうとしていられると思うの?犠牲になるのなら、私がなります。あなたが残って子どもたちと国の面倒をみてちょうだいっ」
「おい、ガーネット…」
こうなるとジタンにはどうしようもない。昔から、彼女が一旦言い出したらもう誰にも動かしようがないのだ。特に今回はジタンの分が悪い。
「先生、どうにかしてくれよ」
助けを求めるのはやはりそこしかないようで。
だが、トット先生の厳しい表情は崩れなかった。
「先生、ジタンからそのテラの石のことはお聞きになられたのでしょう?石が二つあることも。ジタンが単独でその方法を実行するより、私と一対で試した方が効力があるのではありませんか?ですから――私にもためさせてください。この人だけを犠牲にするなんて…そして私だけが残るなんて、そんなことを私にさせないでください」
ガーネットの必死の説得に、先生は深いため息をついて首を振った。
「…決められるのは、私ではございません。どうかお二人で…お決めください」
しかしその言葉は事実上の決裁に他ならなかった。
結局ジタンはガーネットに弱いのだ。
そしてそれは、ひとつの大きな別れが決定づけられた瞬間でもあった。
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