4、花を携えた乙女

 マリーが以前、小さな布袋を縫っているのを見たことがある。
 まだ彼女が14歳の少女だった頃のことだ。ビビアンは11歳のおちびさんだった。
 際立って優れた剣の使い手であるマリーはどちらかといえば活動的な印象が強くて、縫い物をするなんて姿は考えられなかった。だからそれを目にしたとき、ビビアンはびっくりして思わず聞いてしまった。
「どうしたの、マリー。熱でもあるの?」
 マリーは心持ち頬を赤く染め――それが憤慨したからかそれとも恥ずかしかったからかは分からないが――針をしばし休めて首を振った。
「私だって縫い物くらいしますわ」
 確かに炊事と違って縫い物は貴族の女性のたしなみの一つではある。
「明日、兄が国を出るんです」
 彼女はすこしだけ寂しさを滲ませて呟いた。
「レオンに持たせるために縫ってるの?それってなあに?炒ったお豆でも入れておくの?」
 炒った豆は非常食になる。父親のジタンもたまにポケットの中にそれを忍ばせていた。目ざとく見つけ出した娘に彼が言って聞かせたのだ。これはいつ漂流してもいいように旅人が持ち歩く非常食なんだ、と。
 だがマリーはまた首を振った。
 ふわりと、栗色の柔らかな巻き毛が白い頤の縁で揺れた。
「この中に花を入れておくんです。朝露を含んだマンネンロウの花を。この花を持っている限り、持ち主は幸運に恵まれるという言い伝えがあるのですわ」
「ふうん、それってどんな花?ここにある?」
 マリーの裁縫道具が散らばる卓の上に、ビビアンが頬杖をついたまま身を乗り出す。運針を再会しようとしていたマリーはまた手を止めて、いったん袋を卓に置いた。それから自分の前掛けを探って、一輪の可憐な花を取り出した。
 水気を含んだ、青い小さな花だった。花弁は細く、八重になっている。その重なり具合が幸運の印に見えるのだろうか?
 マリーの白く長い指にはさまれた花を睨みつけて、ビビアンは眉間に皺をよせ唸り声を上げた。
「この花のどこが幸運をもたらすのか、あたしにはちっともわかんない」
 率直な意見にマリーは初めて軽く笑った。
「これは北山脈の狭霧峰の頂にしか咲かない花なんです。そこはいつも厚い雲に覆われている山で…飛空艇では着陸できないような場所なので、とるのに一苦労なんですわ。昔はこれを摘んで捧げて初めて恋人の証が立てられたとか。そんないわくのある花なので、こんな言い伝えも生まれたんだと思います」
「ふうん」
 まだ釈然としない顔でビビアンは相槌を打った。
「んで、このお花はマリーがわざわざ摘んできてあげたの?その大変なお山に登って?」
 マリーは今度こそはにかんだように笑って、ええ、と小さく頷いた。一緒に行ってくれる人がいましたので。
 後に付け加えられた呟きは、小さすぎてビビアンにはよく聞き取れなかった。彼女がそんな密やかな声で喋ることもまたとんでもなく珍しかったので、ビビアンはとにかく面食らってしまうばかりだった。
「ご苦労様だわ。だってレオンにあげるんでしょう?あんなムスッといつも不機嫌な顔をして、ルシアス兄様ばっかりひいきするような人、あたしは好きじゃないけど――でもマリーにとっては大切なお兄さんだものね」
 マリーの顔に浮かぶ色が苦笑に変わったのを見て取って、ビビアンは慌てて言いつくろう。少々遅すぎる感もあるが、それでも彼女はそんなことで目くじらをたてるような堪え性のない少女ではなかったのでビビアンはほっとした。そうして彼女は、自分の軽口をいささか反省しつつ、後は黙ってマリーの見事な針捌きに見入ったのだった。
 
 あれはレオンの旅立ちに相応しい、どんよりと曇った日のことだった。
 と、正面の窓越しに見える風景をぼんやり眺めながらビビアンは思い出していた。
 今日もあの日と同じように鈍色の雲が垂れ込めている。足の速い黒雲が次々に山脈にぶつかって、山肌をよじ登ってゆく。眼下に広がる石造りの町並みは灰色に閉ざされていて、赤い瓦葺の屋根もくすぶったような霧の中に沈んでいる。アレクサンドリアの冬場はたいていこうだ。…ひどいときには嵐さえやってくる。
 そういえば、あの無礼極まりない男には、曇りなんかじゃ物足りなかったかもしれない。大嵐の吹き荒れる中の出発こそ似合ってたのに。そうならなかったのは、やっぱりマリーの花の御加護だろうか。
 そこまで考えて彼女はむっとした顔つきになった。
 頭の中をぐるぐる回る取りとめのない思考が、いつも同じ場所に行き着くのが気に食わなかったのだ。
「レオンなんて――最悪すぎるから頭にこびりついてるのよ」
 必要もないのにむきになって彼女は自分に言い聞かせた。
 それからベッドに戻り、傷跡一つない足を投げ出して横になる。

 怪我をしてから二日経った。
 侍医の手当てと母ガーネット女王の白魔法のおかげで、彼女の傷はほどなく完治した。外傷と毒物には白魔法は有効な治療法なのだ。だからこそ巷には病院と同じくらい僧院や修道院が浸透している。(もっとも、伝染病や風邪等の内科的な症例には魔法は無効だったから、医者も必要不可欠な存在だったが)
 だが、あの出来事のせいで外出は極端に制限され、ビビアンは日がな一日城の中で過ごさねばならなくなった。これまで自由気ままに空を羽ばたいていた小鳥が急にかごの中に閉じ込められたのだ。暇を持て余してしまうのも無理はなかった。
 特にすることもないのでベッドの天蓋に施された見事な装飾の端々に目を凝らしていると、扉の開く重たい音が聞こえた。
 半身を起こして戸口を伺う。
 長い白いドレスの裾を優雅に翻して現れたのは、彼女の母親だった。手に大事そうに白い繻子の布を抱えている。
「お母様、どうなさったの?」
 夕暮れの時間はまだ先だ。日は蔭りを帯びているとはいえ、まだ厚い雲の向こうに光が透けて見える。女王がこんな時間に後宮にもどってくるなんて滅多にないことだった。
 いつもと同じ柔らかな笑みを浮かべて、女王は静かにベッドへ近寄った。
「あなたに渡すものがあって来たの」
「あたしに?」
 黙って頷き、ガーネットはベッドの脇の小卓を引き寄せてその上に繻子を置いた。
それからおもむろにその布を開く。中から複雑な色を帯びた光を放つ、流線型の透き通った石が現れた。
「これは――アレクサンドリアの宝珠じゃない!どうしてあたしにこんなものを?」
 我が目を疑うように一瞬ビビアンはその宝珠を凝視し、次いで母親の顔を見上げた。
「だって、これは代々世継ぎが…王位継承の時にその証として譲り受ける宝なのでしょう?世継ぎはお兄様のはずじゃないの?」
 声が少々上ずっている。この宝珠を譲渡されることがどんな意味を持つか彼女だってよく知っていた。
「そうよ。この国を受け継ぐのはルシアスだわ。でも、この宝珠はあの子には伝えないことに決めたのよ。」
 ガーネットの声は薄暗い部屋の中に静かに染み渡った。もしかしたら自分の肩にこの国が圧し掛かってくるのではないかと一瞬危惧した王女の目に、安堵の色が浮かぶ。
「この宝珠だけをあたしに下さるの?でも…どうして?」
「お父様がおっしゃったのよ。この宝珠はビビに渡した方がいいって。宝珠には伝説の聖獣を呼び出す力が秘められている。その聖獣を制御するには相応の強大な力が必要なの。500年前、偉大な力を持つ召喚士でさえこれを抑えることが出来なかった。十数年前に再び召喚した時も、一人の力ではとても敵わなかった――私とエーコの二人が力を合わせて、ようやっとコントロールができたほどだったわ。そして…でも、ルシアスはその力を持っている」
「なら、お兄様に託すのが一番安全なんじゃないの?」
 もっともな娘の疑問にガーネットはゆっくりと首を横に振る。どことなく寂しげな瞳で。
「神獣アレクサンダーを意のままに操れるというのは、とても危険なことなのよ。ルシアスの力は16になるまで封印されたまま、表面には出てこない。けれどももしその封印が解かれれば、あの子はあの子自身の力さえ持て余すようになるでしょう。その上世界を支配できるほどの力を手にすれば…どんなに強固な意志を持っていてさえ、あの年若さでは闇を呼び寄せてしまうかもしれない。どんなに可能性が低くても、でもその危険性がある限りルシアスにはこの宝はを渡せないのよ。もし万が一たがが外れれば、全世界を巻き込む事態を引き起こしてしまうのだから」
 淡々と、まるでありふれた日常の出来事を語るみたいな口調だった。母の美しい眉の先に浮かんでいるほんの微かな悲しみに気がつかなければ、ビビアンももう少し気楽でいられたかもしれなかった。
 せっかく肩からどけられかけた重荷は、また彼女の肩にどさっとさし戻されたのだ。
 ビビは唇を噛み締め、視線を床に落とした。臍を固めるには、少しの間が必要だった。
「それで…あたしは何をすればいいの?この宝珠を受け取って」
 再び面を上げた王女の唇からは、女王の真意を汲み取った応えが発せられたのだ。ガーネットは満足げに頷くと、宝珠を取って娘の掌の上に置いた。そして両手で、その小さな手を握りこんだ。
「あなたがこれをもっていて、そしてあなたが本当に必要だと思ったときに、ルシアスに渡してあげて。いいこと?誰の考えでもない、あなた自身が必要だと思ったときよ」
 黒々とした深い瞳が真っ直ぐにビビアンを見つめる。ビビアンはできるならその視線から逃げ出したかった。それくらい重く、真剣な眼差しだった。
「あたしの考えが間違うかもしれないわ」
 恐る恐る、彼女は不安を口にする。
 はっきり言って自分は全く理論派ではない。事実を確認して地道に真実を立証しようとする型でもない。明らかにその場しのぎの閃きに頼って生きている、甚だいい加減な人間なのだ。それだけは自信をもって言えた。
 果たしてそんな人間にこの国と大事な兄の命運を託してよいものだろうか。
 だが女王はそんなことは百も承知だと言うように、ゆったりと鷹揚に肯いたのだった。
「あなたは理論的に考える必要なんて全くないわ。女の直感は、時に男の正論よりもずっと正鵠を射るものよ」

 部屋の端に設えられた丈の長い置時計の針が、カチリと一目盛り進んだ。
 窓の外が明るくなった。分厚い灰色の雲が割れて、その隙間から覗く水色の天空から一束の光が差し込む。その太い光の筋は、あらゆる不穏な影を払い除けて真っ直ぐに王宮に突き進み、窓を抜けてベッドに腰掛けた二人の姿を照らし出した。

◇◆◇◆◇

 薄汚れたローブを纏い、腰の辺りを荒縄で括ったみすぼらしい格好の男が門楼で守衛に呼び止められた。
「このアレクサンドリアの城郭に何の用だ?顔をなぜ隠している」
 長めの槍の柄で肩を圧され、男はよろめいてしりもちをついた。
「私は旅の僧侶です…怪しいものではありません。ルシアス殿下が明後日16の誕生日を迎えられると知って、寿ぐために参ったのでございます。ええ、もちろんお目通りがかなうなどとは微塵も思っておりません。ただただ、遠目にでも祝福致したいと思ったのでございます」
 言いながら男はフードを払い除けた。
 現れた容貌を目にした守衛は一瞬息を呑み、目を見開いた。
 まだ若い男だった。驚くほど整った美麗な顔立ちをしていたが――だがそれよりももっと目を引くのは、片方がしっかりと閉じられた隻眼…そして開いた方の瞳の色だった。
 煉獄の炎のように燃え盛る、赤。
 その赤い瞳がゆらりと揺らめいた。守衛は目に異物を感じて慌てて指でこすった。小さな糸くずでも飛び込んできていたのだろうか、そのごみはすぐに取れたようだった。
 目元から手を離した時、守衛の表情は一変していた。
「さあ、疲れたでしょう。どうぞ、中へお入りなさい。ようこそ、アレクサンドリアへ」
 にこやかに彼は告げた。
「ありがとうございます」
 若い男は慇懃に頭を下げた。俯いたその口元に、得体の知れぬ微笑が浮かぶ。
 不気味な赤い瞳がまた揺れた。
 そうして目立つ白髪を隠すように再びフードを深くかぶりながら、足早に男は歩き去った。
 ルシアスの生誕と立太子を祝うためにやってきた人々と、その人出が目当てでより集まった人間たちの波の向こうに、その姿は瞬く間に呑み込まれていった。