7、ルシアス、舞踏会にデビューする(その2)

 そのとき、後宮は一瞬凍りついた。
 女官長は口をあんぐりと開けたまま手に持ったクロスをぼとっと落としてしまうし、通りかかった女官は何もない床で転ぶし、ガーネットも茶を飲みかけたまま固まった。
「今、何て言ったの?ビビアン」
 いち早く立ち直ったのはやはり母親のガーネットである。彼女はさっきの驚愕は気の迷いだったとでも言うように、強張った笑いを満面に浮かべて茶を啜った。
 周囲のあまりの過剰な反応にぷうっとほっぺたを膨らませていたビビアンは、口を尖らせて小さく呟く。
「…舞踏会に着るドレス…選んで欲しいの」
 先刻張り切って口にした言葉をそっくりそのまま復唱し、彼女は周囲をうかがった。と、飛び込んできたのは女官長の顔のドアップだった。
「感激でございます!ビビアン様!やっとその気になってくださいましたのね!苦節15年、私の辛苦がようやく実を結びますわ!」
 彼女は感極まって手にしたクロスで目じりを拭う。
 ビビアンは膨らんだ頬をさらに膨らませて口をへの字に曲げる。
 その傍らでガーネットが作り笑いを苦笑に変えて、女官長からビビアンに視線を移した。
「いったいどういう風の吹き回し?あなたがドレスを着たいなんて」
 軽くからかうように言う。
 ビビアンの顔が見る間に真っ赤に染まる。
 見せたい人がいる、なんて口が裂けてもいえない。でも、そうなのだ。
「よろしいではございませんか、ガーネット様!ついこの間まで舞踏会になんか絶対出ないと喚いたり、わざと乗馬ズボンをお召しになって広間に乱入なされたり、とてもお姫様とは申し上げ難い御乱行の数々でしたのに、娘らしく!王女らしく、ドレスをお召しになりたいとおっしゃるなんて!それだけでもこのフランソワーズ、生きていた甲斐があるというものでございます」
 あまりの女官長の感激ぶりに、ビビアンはもっと複雑な表情になる。ちらっと目を向けて見た母親も、苦笑を浮かべてはいるが、なんだかとても嬉しそうだ。
「…やっぱりやめとこうかな」
 へそ曲がりな根性がむくむくと頭をもたげてきて、思わず彼女は口走った。
「あら、残念ね」
 そんな、と目を剥く女官長の隣で、あっさりとガーネットが応じる。ビビアンはちょっと拍子抜けして母親に視線を戻した。
「あなたももう14――もうすぐ15ですもの。ドレスを身に纏って、髪をきちんと結い上げたら、どんな殿方だって目を奪われてしまうくらい美しくなるでしょうに…。本当に残念だわ」
 その片頬に浮かぶ微かな含み笑いに、まだ幼い姫君は気がつかない。簡単にその言葉にのせられてしまう。
「どんな人も?」
「ええ」
 自信たっぷりに頷く女王。
「ええっと…例えば、朴念仁とか言われてるような人でも、かな」
「もちろん」
 短いが、それゆえに絶対的安心感を呼び起こす響きに、ビビアンはふらふらと吸い寄せられた。
「じゃあ、じゃあ頑張ってみようかな」
 にっこりと女王は破顔する。
「そう?では女官長、この子をお願いしますね」
 女官長はガーネットの見事な手並みに感嘆の意を禁じえない。
「か、かしこまりました」
 快哉を叫びたくなるが、変なことを口走ってはまた姫君の気分を逆撫でしかねない。とりあえず既成事実を作ってしまうべく、彼女はがしっと姫の手を取った。
「私が腕によりをかけて、絶世の美女に仕上げて御覧に入れますわ」
 その言葉を聞くや、またもビビアンは目元をほんのりと染める。その場に居合わせた者たちに「これは、もしや」と悟らせずにはおかせない、実に直截な反応である。
 それでも誰もあからさまにしないのは、少しでも匂わせたら姫の旋毛があっという間に曲がりくねってしまうのが目に見えているからだ。
 ガーネットも何も言わず、ただ目を細めて部屋を出てゆく二人の背中を見送った。
 部屋の中に彼女一人しかいなくなったのを待ち構えていたように、端で影が揺らめいた。
「気にくわん」
 柱の陰に潜んでずっと耳をそばだてていた人物が、腕組みをしたまま難しい顔で姿を現す。
 ガーネットは背もたれにゆったりと寄りかかって、くすっと小さな笑い声をたてた。
「あの子ももう年頃ですもの」
「だけどお前さ、俺たちが出会ったのは16だったんだから、ビビにはまだこういう色恋沙汰は早すぎるって言ってたじゃないか」
 すたすたと歩み寄ってきて、ガーネットの座る椅子の肘掛に腰を下ろしたのはもちろんジタンである。
「恋なんて…気が早すぎるわ、ジタン。確かにあの子には気になっている人がいるみたいだけど、恋してるかどうかまではわからないでしょう?」
「あの表情はそれに間違いないだろーが!」
 彼の脳裏には、二十数年前に出合った少女の面影が浮かんでいるのだ。あの時少女が見せた表情と、さっきのビビアンの表情はそっくりそのまま同じだった。
 それはおそらくガーネットにも分かっているはずだ。
「…でもあの子は多分自覚していないわ。ただ気になっているだけよ、きっと。見守ってあげましょうよ」
 自分の娘だ。変な男に心を奪われたりはしないという信頼はある。それは漠然としたものだったけれども。そしてそれなら、そっとしておいてやるのが一番だと彼女は思った。単に恋に恋しているだけだったら、こちらが手を下さなくてもいずれ冷める。本当の想いに変わっていくものなら、こちらがいくら手出ししても、もうどうしようもない。それが恋ってものだ。
「うう〜。わかったよっ!黙ってみててやるさ。でももしあいつを傷つけるようなことがあったら、相手の男、絶対生かしちゃおかねえぞっ!」
「だから気が早すぎるってば…」
 ガーネットはまた苦笑した。
 ビビアンが生まれたその日、「絶対絶対嫁になんかやらねえっ!」と、まだサルみたいな顔をした娘を抱き上げて吼えていたジタンを思い出す。
「全然変わってないのね、あなた」
「…悪かったな」
 照れくさいのを無理に押し隠してジタンは目を逸らした。
「私は、いい恋をして欲しいと思うわ。私が、あなたに出会ったように」
 呟いて、ガーネットはジタンの腕にもたれかかる。
 ちょっとうろたえたように、それでも精一杯の威厳を保とうとしながらジタンは咳払いをひとつした。そうして空いた方の手で妻の頭を抱き寄せ、その上に小さな囁きを落とした。
 俺だって、そう思ってるさ。

 幸せになってくれれば、それで十分なのだ。二人は互いの温もりを感じながら、その思いを噛み締めていた。

◇◆◇◆◇

 ステンドグラスから差し込む複雑な色を帯びた光を背に受けて、王子は厳粛な空気の中で冠を戴いた。


 お前に宝珠は譲り渡せない。
 父親からそう告げられたのは昨夜のことだ。
 突然城の斎室の傍らにある礼拝堂――今立太子式が行われているこの場所だ――に呼び出され、怪訝に思いつつもやってきたルシアスに、開口一番父親はそう言った。
 前振りも何もなく。
 月夜の晩だった。正面のステンドグラスの向こうに白々と輝く月の光が見えた。そこから降り注ぐ、いっそ幻想的とも言える青みを帯びた彩光が、父親のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。その淡い光の中に佇んで、微動だにせず彼は言ったのだ。
 お前に宝珠は渡せない、と。
 なぜわざわざ人気のないこの場所に自分を呼んで、このことを告げなければならなかったか。それを考えれば、宝珠を譲ることができない理由も自ずと明らかになる。
「僕の出生と何か関係があるのですか」
 生まれる前に、この世界を救ったのだと。二つのクリスタルを融合させたのだと彼は人づてに聞いた。自分自身のことのはずなのに、自分には何の記憶もない。当たり前だ、生まれる前の話なのだから。でも、それはひどくもどかしい感覚だった。同時に今の自分には何の関係もない話に思えた。
 関係ない話ではなかったわけだ。16年経った今も尾を引くほどに。
 ジタンがゆっくりと祭壇を降りてくる。音もなく、ゆっくりと。
「――お前が三つの時の夏を覚えているか」
 それほど広くない礼拝堂だが、天井が高く、人の声がよく反響する。ジタンの低めのテナーが静かに堂内に染み透る。ルシアスはかぶりを振った。
「いえ。残念だけど、覚えてませ――」
 言いかけてはっとする。距離が近づいて初めて、父親が手にしていたものに気づいたのだ。皮の…古ぼけたつば広帽。
「ビビ…?」
 ジタンは昔を懐かしむような、哀しげな光を瞳に浮かべて、かすかに顎を引いた。
「そうだ。お前がこの帽子の持ち主に出会った夏だ」
「それが…父上の大切な仲間が、僕にどう関わるとおっしゃるのですか」
「お前の力でビビはつかの間この空間に戻ってきた。いや、魂の欠片が集められて形となった、といった方がいいかもしれん。ともかく、お前の力のおかげで、俺はあの時ビビと会えたんだ。そして話をした。その大半がお前のことだった」
「僕の?」
「お前の力は魂を集める。魂を支配できるってことは、クリスタルを支配できるってことだ。クリスタルは、そのままでは妄執の集まりに過ぎん。魂は流れに乗って再びこの世界に戻ってくる。それがまともな循環だ。しかし、お前の力はそれをかき乱すのだと、ビビは俺に教えてくれた」
「でも、僕にはそんな特殊な力なんてありません。外見は普通じゃないかもしれないけど、中身は全然ひとと変わらない普通の人間です。それは父上が一番よく知ってらっしゃるでしょう!」
「今ままではな。召喚士の力も16までは封印されてるんだ。16の誕生日と共に、その力は解放される。お前の中に眠る底知れぬ力も同じだと、そのときあいつは言ったんだ。クリスタルに同化して浄化される前の妄執は、お前の力に惹かれて集まってくるだろう。そして、お前の中には――俺の…テラの血がくすぶっている」
 ジタンは顔を歪めた。
 全てを背負おうとしている父親の、必死の形相だった。そして愛する息子に重い運命をもたらしてしまった自分自身を責める顔だった。
「テラだ。禍々しい怨念の塊だ。その身のうちにお前はテラを抱え、そしてもしかしたらその怨讐がお前を支配しようとするかもしれない」
「そうなると…僕が支配されるとビビは言ったんですか!?」
 父親の肩を掴んでルシアスは叫ぶ。
 ジタンは一旦口をつぐみ、深い眼差しで息子を見下ろした。是とも否ともとれる、複雑な目の色で。だがその奥に横たわるのは、我が子への強い愛情だった。
「未来は、定まっていない。お前の力の特質は事実だが、だからといってこれから先どうなるかなんてまだ誰にも分からない。あいつはそう言った。そして、俺もそう思ってる」
 信頼。そして、息子を支える、という絶対的な決意。
 双眸から溢れる強い光が、ルシアスの心を打った。
 彼はそっと父親の肩から手を放し、二三歩、あとずさった。
「父上は…僕を信じてくださると…」
 ジタンは敢えて肯定しなかった。ただ、と、淡々と話を続ける。「ただまだお前に宝珠を預けるわけにはいかないんだ。もっと、お前の心が強くなるまで」
 ルシアスは俯き、唇を噛み締めた。
 今の自分に実感はない。自分にそれほどの力が眠っているなんて全く信じられない。けれども確かに、今の自分では過酷な運命と四つに組み合うことなんかできないだろう。それだけは確信できた。
「僕は、王位を継承しなくったっていいんです。ビビアンだっているんだし。そんな危険な人間である僕を王にするなんて止めた方がいいと思います!」
「逃げるのか」
 顔を上げ、口早に訴えるルシアスに向かって、静かに…しかしはっきりとジタンは真実を突きつける。
「逃げていては運命にからめとられる。お前はうち克たなければならないんだ。はむかえ。強くなれ。そのためにも、王位に就くんだ。ルシアス」
 今度は父親が息子の肩をつかむ。
「そして、いつか宝珠を受け取るんだ」
 ぐいっと、ジタンは息子のまだ育ちきっていない体を引き寄せて抱きしめた。
 己の引きずる因縁をこの子に背負わせてしまうのだ。純粋で、こよなく優しい心の持ち主に。
 言い知れぬ悲嘆に身を貫かれ、ジタンは息子を抱く手に力を込めていた。


 頭に宝冠のずっしりとした重さが圧し掛かる。
 それは運命の重さだった。
 今日、ここでルシアスは王太子となり、そして16になった。

 目に見えぬ扉が、悲鳴にも似た音を立てて、静かに開いた。