8、ルシアス、舞踏会にデビューする(その3)


 ずっとお礼を言いたかった。

 王宮の警護の総責任者はベアトリクスだが、今回の式に関しては副官に位置するレオンが全権を委任されていた。式の数日前から、手配、人員の割り当て、配置等の準備を一手に引き受けていたレオンの忙しさは、前日になって頂点に達した。
 いつもの詰所にも彼の姿はないし、ビビアンも式の備えに忙しくて東の棟に行く暇がなかったから、全くレオンには会えないままだった。
 だから舞踏会の時がチャンスだと思っていた。舞踏会にはレオンも出席するものと思っていたのだ。そこで礼を述べればいい。ドレスを着ようと思ったのも、少しでも美しく見えるように装いたかったのもそのせいだ。
「ふん、レオンにひと泡吹かせてやるんだから。すっごく綺麗になってびっくりさせてやるもん」
 お礼は、ついでだもん。
 女官長の手によって美しく仕上げられた鏡の中の自分に向かって、言い聞かせるように彼女は呟く。
 ついさっきまで、彼女はためつすがめつ自分の立ち姿を眺めていた。それはもう、ほんの些細な綻びさえ見逃すまいとするくらいの気迫で。だがどんなに眺めても、どうも美しいのはドレスだけのような気がしてならない。それにいくら凝視したって、自分の容姿が変わるわけもなくて――いささか自信喪失気味だったのだ。
 そんなしけた考えを追い払うべく頭を振って、彼女はもう一度自分に気合を入れた。それから先ほどまで首にかけていた宝珠を引き出しの奥にしまって、ものすごい覚悟で部屋を出た。と、その途端裾を踏んづけてひっくり返りそうになる。
「もう、だからこんな恰好はいやなのよ。歩きにくいったら!」
 布を惜しげもなくふんだんに使ったドレスはかなり重たい。
 誰も見ていないのをいいことに、裾を思いっきりからげたあられもない姿で、すたすたと王女は広間へ歩き始めた。
 楽団の奏でる音が廊下に微かに響いていた。

―◇―

 儀式用の装束を脱いで、宴のために誂えた丈の短めのパルダメントゥムを羽織る。それからやや青白い頬をぱちぱちと叩いて、無理やり赤みをさしてから彼は廊下に出た。
 昨夜の父親の告白は、思っている以上に自分に衝撃を与えているようだった。ともすれば深く沈んだ瞳になってしまう自分を、彼は何度も叱咤しなければならなかった。

「母上は御存知なのですか?」
 あの夜尋ねた言葉に、父親は一瞬沈黙した。答えようがなかったのかもしれない。
 しばらく考えをめぐらしてから、彼は口を開いた。
「大体のところは、な。だが、ビビの語った話は伝えてない。おまえが強大な力を持つこと、そしてその力に呑み込まれてしまう可能性もあるってことだけ、ダガーは知ってる」
「でも、きっと母上には見えてしまうのでしょうね…僕の行く先も」
「さあ、どうかな。見えようと見えまいと、確かなことは一つだけさ」
「母上に心配をかけるな?」
「よく分かってるじゃないか」
「父上は最後はいつもそれですから」
 それだけ軽口が叩ければ大丈夫だ、と言って父親は大きな手でぐりぐりとルシアスの頭を撫でた。撫でる、というにはいささか力のこもり過ぎた感のあるその手から、父親の深い思いが伝わってきた。

 今またその手の感触を思い出しながら、ルシアスは気持ちを引き締めるように顔を上げ、およそ今の自分の気分にはそぐわない華やかな場所に向かって歩を踏み出したのだった。

―◇―

 朝方城に出向いて立太子の儀に参列し、正教会大司教の名代として祝辞を代読した後、エルナは宿にへとへとになってたどり着いた。
 作り笑いの後遺症で顔面がひきつってしょうがない。その上参列した貴族の中には彼女が乳兄弟として育ったトレノ貴族の息子もいて、式の間中彼から秋波を送られていたのだ。背筋が寒くなるくらい嫌で仕方なくて、気分が悪くなりそうだった。そのせいもあって精神的に疲労困憊していたのである。

 エルナの父親はその貴族の館の管理を任された執事だった。貴族の息子が生まれた時、ちょうどエルナを産んでいた母親は、その息子に乳を与えるよう命じられた。乳を与える行為は賤視されるため、貴族の女性は育児をはしために任せることが少なくない。
 それでもやはり『乳母』は独特の存在だった。貴族の息子もある程度の年までは乳母になついていた。しかも乳母の娘――つまりエルナだ――は聡明で美しく、貴族の当主は早くからこの少女に目をかけていた。
 そこで、息子が就学する年限に達した十の時に、エルナも一緒に私塾に入れられることになったのだ。
 エルナは勉強は嫌いではなかった。実際、どの子弟よりも出来は良かった。だがそのために、彼女は完全に「干され」た。
 賤しい身分のくせに、図々しく貴族の塾に来やがって、おまけに学問に長けてるなんて生意気だ、分相応ってのを思い知らせてやらなければ。…というのが貴族の子弟たちの言い分だった。エルナにしてみれば、余計なお世話以外の何ものでもない。
 もともと着るものだって彼らとは雲泥の差なのだ。彼らからすればみすぼらしい服も、彼女にとっては数少ない大切なドレスだったし、勉強に使う書物も買えないから、アレクサンドリア城の図書室に入り浸って全部書き写した。
 そんな手作りの教科書を笑われてどぶに投げ捨てられたり、服を馬鹿にされたり、インクをかけられたり――退屈を持て余す子息たちから慰み者にされるのは日常茶飯事だった。
 だが、はむかったところでどうにもならない。
 もし彼らの逆鱗に触れたり、彼らの服を汚しでもしようものなら、すぐさま親を通じてエルナの両親が罰せられることになる。賢い彼女は、それがよく分かっていた。だから泣き寝入りするしかなかった。
 だが、不思議なことに、ひとりだけそのいじめに加担しない者がいた。
 いつもむすっと口を引き結んで単独行動ばかりしている、エルナより二級上の少年だった。周囲の子息たちも、彼に対しては腫れ物を障るように扱っていた。
 あるとき、乳兄弟であるトレノ貴族の息子に、その少年について聞いてみた。
 息子は意地悪い目つきで馬鹿にするように鼻を鳴らして言った。
 あいつは親の権勢をかさにきて、好き放題してる鼻持ちならん奴なんだ。その親だって、片方は国王の寵愛を受けて取り立てられた新興貴族で、家柄だってたいしたことない。母方は古くからの名家だけど、母方がいくら良くったって意味ないし、それにあいつは脳みその中まで筋肉でできてる馬鹿なんだ。あんな奴がこの名門の私塾にいるなんて、面汚しもいいとこだ。
 まるで鬱積した悪意が爆発したみたいな勢いで彼はまくしたてた。あまりの剣幕にエルナもびっくりしたくらいだ。だがそれから後、なんとなく耳にした噂や雰囲気で、だんだん彼女にも分かってきた。
 トレノの息子の言葉は、大抵の貴族たちの鬱屈した憤懣そのものだったのだ。それをそのまま受け継いでいる子息たちは、エルナが来る前に彼を同じように標的にしていたらしい。だが、少年はエルナとは違っていた。彼は、両親が罰せられることを恐れなくて良かった。だから仕返しをしたのだ。それも完膚なきまでに。
 そのうえ少年は武芸に秀でていた。それはもう、秀でる、という言葉ではおっつかないほど強かった。ゆえに子息たちは彼の報復を恐れて手が出せなくなってしまった、というわけだ。
 そして彼らは新しい玩具を手に入れることになった。絶対逆らう心配のない、扱いやすい玩具。――エルナである。
 でも彼女は負けなかった。はむかえなかったけれども、決して屈することもなかった。一日も休まず、誰よりも早く塾にやってきては一人で一心に勉強を重ねた。その姿を、部屋の端から少年はじっと見ていた。
 そんなこんなで半年が過ぎようとしたときのことだ。
 いつものようにニヤニヤしながら何人かの子弟がエルナを取り囲んだ。その中には彼女の乳兄弟もいた。彼らは彼女を突き飛ばし、地面に組み伏せた。それから、「人体実験だ!」と口々にはやしたてて、彼女の服を破き始めたのだ。エルナは懸命に抵抗した。でも相手に怪我を負わせたり、土をつけたりする事すらできないしがらみに囚われているため、彼らの手を払い除けるのが精一杯だった。
 たった数着しかないエルナの服が、無残にボロボロにされてゆく。育ちきっていいないとはいえ、少女らしさが幾分か見え始めた体が日のもとに晒されそうになる。悔しさと情けなさでエルナはくっと唇を噛み締めた。泣けば負けになる。だから彼女は涙を堪えた。黙って、ただひたすら手を払い除ける。あまりに頑強な抵抗に、業を煮やしたのか一人が彼女の頬を殴った。唇が切れて血が滲んだが、そんなことお構いなしだった。一人が彼女の上に馬乗りになり、もう一人が両手を地面に押さえつけて完全にエルナの自由を奪う。それでもエルナは勝気な目で相手を睨み続けた。その時だ。
 馬乗りになっていた子が「げっ」と変な声を上げて後ろに引き倒された。続いてエルナの両手を押さえていた少年が蹴り飛ばされる。次にエルナの乳兄弟が襟首を掴まれて宙吊りにされ、そのまま茂みに投げ飛ばされた。残る一人は真っ青になり、泡を食って脱兎のごとく逃げ出した。
 全員いなくなると、少年はふんっと小さく息を吐いて手についた汚れを払った。別に本当に汚れていたわけではない。汚らわしいものを触ってしまった、とでも言うようなジェスチャーだ。
 それから彼は黙ってエルナを助け起こし、自分が着ていた上着を彼女に羽織らせた。
 少年は十二歳で、身長も並みよりずいぶん高い。小柄なエルナが上着を羽織ると膝まで隠れた。
「返さなくてもいいから」
 ぶすっと、表情を変えずに少年は言った。
「施しは受けません。――助けていただいたことにはお礼を言いますけど、でも同情ならまっぴらです」
 顔を上げて、エルナは凛と言い放つ。誰に対しても決して膝を曲げない、誇り高い少女。少年は困ったように頭を掻いた。そして、しばらくしてやっと口を開いた。
「じゃあ、交換条件だ。その服やるから、その代価の分だけ俺に勉強を教えてくれ」
 フィフティフィフティだ。それなら、受け入れられる。エルナはにっこり笑った。
「ありがとう、…えっと…」
「レオンだ。レオンハルト=アーシス=スタイナー」
「レオンハルト…」
「レオンだ」
 フルネームを呟こうとしたエルナを遮って彼は強い語調で言った。どうやら、レオンと呼べ、と言いたいらしい。
「レオン」
 復唱すると、彼はしかつめらしく頷いた。この期に及んでも笑いやしない。
「うん。よろしくな、エルナ」
 差し出された手を見つめて、それからエルナは当惑したように少年の顔に目を戻した。
「あんたの名前は誰だって知ってる」
 何かと人騒がせな存在だし、塾で一人の女子だ。相手に名前を知られていて当然かもしれない。でもこの人は、なんで私のギモンが分かったんだろう。
「顔に書いてある。よろしく、エルナ」
 少年は――レオンは強引に少女の手をとって、ぶんぶん振り回した。
 他人と滅多にかかわりを持たなかったレオンハルトとエルナの、それが初めての出会いだった。

 はっとしてエルナは目を覚ました。
 夢うつつに昔のことを思い出していたような気がする。あのトレノの息子のせいだろうか。思い出すのも嫌だが。
 でも夢見はよかった。レオンはこんな時でも助けてくれる。そう思うと心が落ち着いた。
 ごそごそとベッドから抜け出して、テーブルの上に投げ置いたはずの修道服を着ようと手を伸ばす。
「?」
 だが手に触れたのは、修道服の粗い木綿とは似もつかない、すべすべした絹の感触だった。
「え?」
 もうあたりは真っ暗だった。ベッドの上のランプに火を入れ、慌ててテーブルの上にかざしてみる。細い明かりに浮かび上がったのは、趣味のいい青い絹のドレスだった。上にメモが置いてある。


 修道服は預かった。これを着て舞踏会で僕と一曲踊ってくれたら、そこで返してあげるよ。
                           シルヴィウス

 言うまでもない、エルナの先輩僧侶の直筆だ。
「何よこれ…!どういうつもりなの?あの人は!!」
 声を荒げてもどうしようもない。彼女の服はあの修道服しかないのだ。まんまとシルヴィウスの罠にはまってしまうのは癪だったが、下着で外に出るわけにも行かず、仕方なく彼女はドレスを身につけた。
 ご丁寧にドレスに合わせた髪飾りまである。
 長く大きなため息をついて、エルナはそれも髪につけた。
 仕様がない。舞踏会に行ってシルヴィウスの野郎をとっちめてやる。
 そう腹をくくって彼女は宿の外に出た。
 ずいぶん長く寝ていたらしい。街はもう闇に包まれている。
 祝宴の始まりを告げる城の尖塔の鐘音が、風に乗って街に響いた。