9、ルシアス、舞踏会にデビューする(その4)

 はなはだ不本意ながら、とにかく「彼」に見せたいが為に重いドレスをひきずって広間にやってきたビビアンは、中央の大階段の上でぐっと口の端を曲げた。それも、思いっきり、下向きに。
 目的の人物はすぐに分かった。広間の柱の影、ひっそりと目立たぬように警備している近衛兵たちと似たような恰好をしていたからだ。それはどうみても舞踏会用の衣装とは言いがたかった。
 おまけに彼の目の前には青いドレスを着た天女とも見紛うばかりの美女がいた。
 薄いプラチナブロンドを顎のラインで切りそろえた、珍しい髪型の女性だった。だがその珍妙さを差し引いても、十分おつりが来るくらいの美女だ。何の変哲もない青い絹のドレスが、彼女の美しさをいっそう引き立てている。
 レオンが話をしているから周囲の男性も遠巻きにしているが、もし彼がそこを離れたらすぐさまダンスの申し込みが殺到するに違いない。何しろ踊っている近くの男どもの視線はずっと彼女に釘付けになっているのだ。
 大階段の上からは、その広間の状況が手に取るようにくまなく分かった。
 と、そのときひときわ高くトランペットの音が鳴った。音楽がやみ、ダンスに興じていた人々が動きを止める。そして彼らは
一斉に大階段を振り仰いだ。そこに――今日の主役が現れたからである。
 ビビアンははっとして傍らを見る。
 にこやかな微笑を浮かべた幸福を絵に描いたような少年――いや、もはや青年とよぶべきか――が、長めの黒髪を今日はきちんと後ろに束ねて、白を基調とした盛装に身を包み、優雅に手を振っていた。
「お兄様…」
 すぐ前をかけて行くビビアンを見つけて、ルシアスも慌てて後を追ってきたのだ。平気を装っているけれど、少しだけ息が弾んでいる。
「花、ありがとう。テーブルの上に置いてあったの、あれ、ビビだろう?…嬉しかった」
 笑みを絶やさず、どっと上がる喚声に応えながら、その端でルシアスはそっと囁く。「僕は――大丈夫だから」
 そしてちらりと妹をみやり、安心させるように頷くと腕を妹に差し出した。エスコートしようという合図である。ビビアンはこころもち固くなりながらその肘に手を回した。今度は別の意味の喚声が上がる。
 人々は最初その美しい令嬢が誰だかわからなかったのだ。ルシアスの妹のビビアンだと気づくまでに若干の時間がかかった。そして気づいた途端、集った人々は興奮と驚嘆に包まれた。
 それくらい今日の彼女は麗しかった。光を弾くハニーブロンド…太陽を思わせる父親譲りの金髪。普段はぼさぼさで放っている髪を、今日はきちんとまとめて結い上げ、白い小さな生花を散らしている。その合間から零れる小さなパールが金色とあいまって、まるで二枚貝から今誕生した美の女神のような趣を醸していた。青い澄んだ瞳、桜色の唇。花のかんばせは、アレクサンドリアの至高の宝石と謳われたガーネット女王に瓜二つだ。
 その喚声の意味を感じ取って、ビビは少しだけ自信を回復してちらりとレオンを見やる。そして、ぱっと頬を染めた。レオンと目が合ったのだ。心臓が早鐘のように鳴り出す。他の貴族たちと同じように、美しく装った自分を見て彼もきっとびっくりするに違いない。内心ほくそえみつつ、それと気づかれぬように澄ました顔を作ってみる。
 だが――。
 だが、彼女の意に反して、レオンはちらりと一瞥をくれただけで、再び目の前の美女との会話に戻ってしまった。彼の面には、ビビへの賛嘆も驚愕も何も浮かばなかったのだ。そんなのは全く眼中に入ってないみたいに平然として、目の前の彼女との会話の方が大切だといわんばかりに、嬉しそうに話しこむ。
 かっと、顔に血が上った。何だか訳が分からないままひどく惨めな気分になって、ビビアンは大階段の途中で立ち止まった。
「?どうしたんだい、ビビアン」
「気分が、悪くなったの。ごめんなさい。あたし、部屋に戻る!」
 くるりと背を向けると、そのままビビアンは階段を駆け上がろうとした。と、なれないドレスの裾を踏んづけて、思いっきりそこでずっこけてしまった。
 どっと、広間の観衆がどよめいたのが分かった。
「あたし、帰る!」
 いたたまれなかった。ルシアスにだけ聞こえるように喚くと、裾を引っ張り上げてだっと逃げるように広間を去った。
「ちょ、ビビアン!」
 慌ててルシアスが後を追う。

「まったく、思いやられるな…せっかく綺麗に飾って出てきたかと思えば、やっぱりこういう展開か」
 王族の座が設えてある壇上から大階段を伺っていたジタンが嘆息した。意表をつく出来事に、広間はざわめき、騒然としている。まずはこの動揺を鎮めねばならない。
「よろしくお願いしますわ、だんなさま。子どもたちの尻拭い」
 全てを心得た表情で、ガーネットがにっこりとジタンに微笑みかける。
「へいへい。おまかせください、女王様。私はあなたの僕ですからね。何でも致しますよ」
 軽口を叩きつつ、ジタンはすっくと立ち上がった。
 そうして注目を集めるために、わざと大音声で挨拶を述べ始める。
「お集まりくださいました紳士淑女の皆様方、今宵この場は無礼講、堅苦しい挨拶は抜きにして、どうぞごゆるりとお楽しみください。今宵の為にわが娘も人生初めて装いを凝らして参りました。どうやらお歴々のあまりの凛々しさに、胸が高鳴りすぎたようですが。おっと、私は淑女のみなさんのお美しさに、思わず目が眩んでしまった」
 たらしの本領発揮である。この年になっても一向に変わらぬ爽やかな笑みを浮かべたジタンは、いかにも緊張で手が震えているようなそぶりでさり気なく手にした杯のぶどう酒をこぼしてみせる。広間に小さな笑いが広がり、やがて始められた曲と共に、和やかな雰囲気が戻ってきた。
「お疲れ様」
 座に戻ってきたジタンに、ガーネットが優しく囁く。
「礼なら部屋に戻ってからたっぷりともらうよ」
 少年みたいに悪戯な目で片羽を見下ろすと、彼はガーネットを引き寄せ頭頂に軽くキスした。
 緩やかなワルツが高い天井いっぱいに鳴り響き、その下では人々がつかの間の享楽に酔い痴れる。他の人間の事など、もう誰の目にも耳にも入っていない。
 だからといって。
「もう、やりたい放題ね」
 手で軽く夫の体を押しのけながら、微かに女王は目元を染めた。

「素直じゃないわね。相変わらず」
 胸元から上がった声に、はっとしてレオンは我に返る。
「何が」
「どうしたんだろう。心配でしょうがない。追っかけていきたい――って顔してるわよ、今」
「だから、何が」
 普通の人間ならこれだけで怖気づいてしまうレオンの仏頂面も、エルナは平気だ。
からかうように碧の目を煌かせて丈の高い青年の顔を覗きこむ。
「あなたの顔が、よ。感情がすぐに顔に現れるのも昔から変わらないのね」
「…無表情だの鉄仮面だのとはよく言われるが――あんたも相変わらず変な奴だな」
 そう、レオンの顔はあまり表情豊かとはいえない。だから大抵は彼の感情が読み取れずに戸惑う。おまけにぶっきら棒で物言いが冷たいから、誤解を受けることもしばしばなのだ。その動かない表から彼の感情を的確に読み取れるのは、彼の身内くらいのものだった。なのに、全く縁もゆかりもないこの女性も、出会った頃からレオンの感情を察知できた。
 彼女は魔法の才を認められて、私塾から修道院に引き抜かれた経歴の持ち主だ。人の情に敏いのも、それに関係しているのかもしれない。
「行ってあげればいいのに」
「職務中だ」
「王女様、あなたの方ばかり見てたのよ。気がつかなかった?」
 気がついていた。
 朴念仁だが人の視線には敏感だ。何しろ騎士のはしくれである。そして伊達に20年もの歳月を過ごしてきたわけでもない。じっと見つめるその視線が何を意味しているか気がつかないほど馬鹿じゃなかった。無論、彼にとっては予想外の展開だったが。
「なのに、全然表情に出してあげないんだもの。ショックを受けるのも分かるわ」
「――ほっとけ」
「ホントはドキッとしたくせに。いつも三拍ほど反応が遅いのよね。図体がでかいから血の巡りも悪いわけ?」
「お前なあ」
「あ、待って!」
 レオンを遮ってエルナは背伸びした。彼女の視線の先に貴婦人たちの団体が見える。彼女たちより頭一つ分高い長身の青年が、自分を囲む人垣越しに、困ったような薄い笑いを浮かべてらこちらを見た。
「エルナ!」
 取り囲んだ女性を押しのけ、彼は後輩の修道女の元にやってくる。あの襤褸を纏った姿からは似もつかぬ、秀麗な顔立ちを存分に生かしたいでたちだ。背後の淑女連中のブーイングを無視して、その青年はレオンに手を差し出した。
「お目にかかれて光栄です、レオンハルト・スタイナー殿」
 レオンは微動だにしない。眉一つ動かさなければ、差し伸べられた手もとろうとはしなかった。ただ口だけが、まるでからくり人形のような抑揚のない言葉を紡ぎだす。
「シルヴィウス・オシウス殿か」
「おや」青年は赤い瞳をくるりと動かした。「君が教えて差し上げたのかい、エルナ」
「まさか。どうして知っているの?レオン」
 エルナが首をめぐらしてレオンに視線を移す。二人ともほぼ同じ位の身長で、しかもエルナよりずいぶん高いから、顔が見えにくくてしようがない。
「正教会から分派して、これまで殆ど変動のなかった宗教界に新風を吹き込んでいる新興の祖。高名な学徒として人口に膾炙している。…あちこちでそう聞かされた」
 じっと相手の目を見据えてレオンは言った。
 強固な拒絶を示すその視線を受けて、シルヴィウスはくすりと楽しそうに笑う。
「お褒めに預かって恐悦至極ですよ、レオンハルト=アーシス=スタイナー殿。私もあなたのお噂はかねがね耳にしています。十六の時から世界各地を放浪して回り、心身ともに鍛え上げた武門の鑑。スタイナー家の希望の星であると同時に、現国王ガーネット陛下の懐刀、とね」
 言葉以外の含みを一切感じさせない声音。だが隻眼の炎は仄暗く揺らめく。
 対するレオンはふんと鼻を鳴らしただけだった。
「高名な始祖が還俗されたと聞けば、増えつつある信徒はさぞかし嘆くことだろう」
 暗に退去を促す。彼には珍しい、あからさまに皮肉な口調で。
 シルヴィウスはもっと不可解な深い笑みを満面に湛え、顎を引いた。
「エルナ、君の修道服は宿に届けておいたからね。残念だな、せっかくルシアス殿下の為に君をここに呼んだのに。何だか今夜はいろんなことが起こりそうな感じだし――この偉い隊長さまに睨まれちゃって、最後までここにいられないのがとても残念だよ」
 意味ありげな表情で、上目遣いにレオンを見やりながら彼はエルナに告げた。
 赤い炎の奥に見え隠れする凍りつくような冷酷。それを傍らのエルナもまた感じ取っていた。
 すっと血の気の引いた顔でエルナがシルヴィウスの袖を引こうとした時だ。
 きゃあ!という絹を引き裂くような悲鳴が上がった。
 衆人の目が一斉に悲鳴の主に注がれる。
 一段高くなった壇上で、口に手をあて悲壮な顔をしているのは女王付の女官である。その足元に女王が崩れ落ち、その肩を夫君が支えていた。
 レオンが咄嗟に駆け上る。
「どうなさったのですか」
 女王のもとに屈み込み、ジタンと共にその体を支えようと手を伸ばしたレオンの背後から、慌てふためいて女官が一人駆け込んできた。
「陛下!ああ!ジタン様!」
「どうした」
「大変でございます!ビビアンさまが…狼藉者がビビアン様を!!」
 蒼白になって倒れ臥すガーネットに意識はない。ジタンは舌打ちしたい気分で目の前の若者を見た。
「ビビアンを頼む。お前が行ってやってくれ。ここは――ガーネットのことは俺に任せておいてくれればいい」
「はっ」
 レオンはすぐさま踵を返した。
 騒然とした広間の中で、呆然と立ちすくむ青いドレスの修道女。その脇に立っていたはずの男の姿は、いつの間にか霞のように掻き消えていた。
「一緒に来てくれ」
 エルナの脇を駆け抜けながらレオンが囁く。
「え?」
「ビビアン――王女が襲われた。おまえ、白魔法が使えるんだろ。手助けしてくれ」
「わかったわ」
 呆けているときではない。エルナは力強く頷くと、レオンについて広間を出た。

 レオンと対峙していた青年。遠目には語らっているようにも見えたが、その雰囲気が尋常ならざるものであることは、ジタンにも見て取れた。だからこそ、この雑然とした中でもひときわ目を引いたのである。だが同じように引き寄せられた傍らの女王は、もっと違うものを感じ取ったらしい。
 倒れる瞬間、彼女がうわごとのように呟いた言葉を、ジタンは胸のうちで反芻していた。
――いけない。
 そう彼女は言ったのだ。
――あの青年は…ルシアス…。
 そしてふっと消え入るように彼女はその場に崩れ落ちたのだった。


 いったい何を合図にしたものか。
 ザモ盆地に広がる湿原に不気味な音が広がっていた。泥のはねる音に混じってあちこちから響く湿った骨のきしむ音。やがて湿土を飛び散らせ、爛れた腐肉を垂らした手がそこここに現れ始めた。べしゃりと、ぬかるんだ地面に手をついて、それは土中に埋もれた残りの体を引きずり上げる。
 冥府の奥洞を思わせる獰猛な咆哮が盆地を揺るがした。
 沼地から現れ出たゾンビの群れは、瞬く間に想像を絶する数に膨れ上がった。

 アレクサンドリア各地から早馬が王都へ走る。
 ザモだけではなかったのだ。
 いたる場所で、魔物による襲撃が始まっていた。