ざわり…と何かが蠢いた。
テラの月が禍禍しい血の色を大地に投げかける。その背後であれだけ生気に満ちた輝きを放っていたはずのガイアの月が、黒雲に覆われて光を急速に喪ってゆく。
暗く重く垂れ込めた闇の空気の底で、何かが身じろぎする気配。
低く唸るように大地が鳴動し、突如雷鳴が黒々とした空を劈く。轟音とともに荒れ果てた地がぱっくりと二つに裂け、永遠の闇を思わせる底からじわり、と何かが這い出してくる。
ガーネットは不意に自分がそこに立っていることを自覚した。
我に返って辺りを見回す。
血の色に染まった大地には惨めな骸を曝す枯れ果てた樹木以外、目に映るものは何もない。縹渺たるその地表を、生温い風が渡ってゆく。――むせ返るような、血の臭いを撒き散らしながら。
はっとして、彼女は振り返る。
そして絶叫する。
大木の枝に寄りかかる一人の男。
彼の胸からは捻じれた樹の枝が無残に伸びている。枝に貫かれた胸から夥しい鮮血を溢れさせ、すでにこときれている彼の青白い額に、血に濡れた金髪がはりついている。
力なく垂れ下がった尻尾。
彼は彼女を守ろうと――いや、彼女とその赤子を守ろうと、立ち向かっていったのだ。
何に?
朦朧とした意識の奥で、ガーネットは自問自答する。
わからない。
ここがどこなのか、何が起こってしまったのかすら分からない。
彼の上に何が起こったのか。どうしてこうなってしまったのか。
無意識のうちに彼女は己の下腹部に手を当て、命の存在を確かめようとする。だが、そこに何の反応も感じることができず、慄然として顔を上げた、その先に…。
彼女とジタンの子供が、いた。
黒い闇の中に、ぽつんと。
明りがそこにだけ灯っているように、浮かんでいた。
まだ生まれていないはずの我が子。
ガーネットは下腹部に当てていた手を、ゆっくりと顔の前に上げる。
血塗られた赤い手。
驚愕することすらもどかしく、本能的に彼女は走り出す。虚空に浮かぶあのいとし子を取り戻すべく、己を顧みることなく疾走する。
だがその焦燥を嘲うが如く、突如大地の裂け目から巨大な触手が現れて、赤子を掌に絡め取ってしまった。
絶望に渾身の力をこめて叫ぶガーネット。召喚獣を呼ぼうとして、その力さえ我が身から抜け落ちていることに気付き、為す術なくその場に崩れ落ちる。
怪物の手のようにそそりたつ不気味な掌中で、白く清らかな光を放ち、こちらを哀しげな瞳で見つめている赤ん坊…。その子の姿が、やがて巨大な指に隠れ、その手の中で今にも押し潰されようとしていた。 絹を裂くような悲鳴を上げて、ガーネットは飛び起きた。
全身汗でぐっしょり濡れている。
「どうしたんだ、ダガー…悪い夢でも見たのか?」
ただならぬ様子に、ジタンも半身を起こして彼女を抱き寄せる。その腕の中で、がくがくと身を震わせながら、ガーネットは頷いた。そして、堪りかねたように彼の胸に縋りつく。
「抱いて…もっと強く抱きしめて」
そんな言葉を滅多に口にする女性ではない。
ジタンは眉を顰めて、しかしその不安を口には出さずに言われるままガーネットの体をしっかりと抱きしめた。
ジタンの心臓の鼓動が聞こえる。
泣きたくなるほど愛しい命の音。そして、彼の温もり。
夢の中の彼の凄惨な姿が脳裏に浮かんで、彼女は改めてぞっとする。その危懼の念を振り払うように首を激しく振って、ジタンの背中にその細い手を回す。
「ジタン、ジタン!」
「どうしたんだ、ガーネット。何の夢を見たんだ」
彼女の見た夢が、ただの夢ではないのだということを、ジタンは悟った。
彼女が怯える原因はひとつしかなかった。
それが、予知夢だということだ。
召喚士としての資質に富む彼女は、たまに未来見の力を発揮することがある。
それはごく稀なことで、しかも明瞭な形をとることはもっと少なかったから、日常意識するほどのことでもなかった。
だが今の彼女の状態は、未だかつてないはっきりした予知夢の到来を物語っているとしか思えなかった。
「どんな夢をみたんだ」
ゆっくりと、言葉を区切って、ジタンは彼女に問うた。
彼が彼女を「ガーネット」と呼ぶのも、また滅多にないことだった。彼がその名を口にするのは、襟を正して語る時のみである。その呼称は、単なる夢ではすまされないのだと、彼が悟った証拠だった。
優しい彼の詰問からは逃れられない。諦めて彼女は小さな声で呟いた。
「何かが、やってくるわ。禍禍しい何かが――この子を、狙って」
ガーネットの視線の先に、ジタンは目を合わせる。
ようやく膨らみ始めたそこには、二人の愛の結晶が眠っている。
「なぜ…?」
不安に苛まれ喘ぐ黒い瞳を、ジタンが覗き込む。
ガーネットは首を横に振り、泣きそうな声で応えを返す。
「分からないの。それが何者で、なぜこの子を狙うのか、まったく分からないの。ただはっきりしているのは、…この子を奪おうとしているのだということだけ」
辛うじてそれだけ語ると、再びジタンの胸に顔を埋めた。
もうひとつはっきりしていること…それを、彼女は胸の中にしまいこんだ。絶対に口に出すまいと思った。そして、彼女の命をかけても、その未来を変えるのだと心に誓った。
ジタンは、死なせない。どんなことをしても、絶対に。
腕の中で必死にすがりついてくる妻を抱きしめながら、ジタンは頭の奥が冴え渡っていく感覚に襲われる。そしてその感覚に、微妙な違和感を感じ取っていた。
ガーネットが突然こんな夢を見てしまったように、自分の体にも異変が起きているのだと、漠然と彼は思った。それは潜在する彼の無意識が彼に通告する、確信であった。
何かが。
そのとき、部屋の扉をノックする音が響いた。
ベッドの上の二人は顔を見合わせる。
ジタンは仕方なく夜着を羽織りながら立ち上がった。
「誰だ、こんな時間に」
誰何すると、扉の外から女声が返ってきた。
「申し訳ございません――火急のご用件ということで、こちらにご案内致しました」
「ベアトリクス」
ガーネットが呟いて、彼女もベッドを降りてくる。
ジタンが扉を開き、丈高い女将軍を中に招き入れた。
佇立したまま拝礼して、ベアトリクスは奏上した。
「ジタン陛下にお知らせしたい旨がおありのようです。こちらにお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「誰が来てるんだ?」
ベアトリクスが答えるより早く、背後から声が飛んで来た。
「私よ、ジタン。ミコトよ」
性急な口調。そして、蒼白な顔。
次に発せられた彼女の言葉に、その場の空気と――そしてそこに居合わせた者達は凍りつくことになった。
「姿を消したの。私を殺そうとして、でも途中で我に返って、姿を消したのよ!」
気が動転している。
ジタンが彼女の肩を掴み、揺らした。
「誰がだ!?」
問わずとも、誰かは知れていた。
ポタポタと、ミコトの双眸から涙が溢れ出す。
「クジャが…!」
そしてジタンの胸に寄りかかって声を上げて泣き出した。
「クジャが…!!」
あとは言葉にならなかった。
何かが、始まっていた。
空では赤黒い口を開けたテラの月が、背後にガイアの月を圧し隠し、哄笑っていた。 |