月虹2  gekkou: written by kiki    

 アレクサンドリア各地から次々に報告がもたらされていた。
 高緯度地方から霧が流れ込んできている。それにつれて各地で魔獣の出没する頻度が高まり、あまつさえそれらの凶暴化が甚だしいという。そして――その魔獣が今までとは違うらしい、という報せも、中に混じっていた。
 百聞は一見に如かず。己の目で確かめるべく、ジタンは久しぶりにオリハルコンを腰に佩いた。
「まず、ダリに寄って、それからトレノ、リンドブルムまで行って見ようと思う」
 危急の秋に際して尚、泰然とした風をまとう国王の姿に、王宮に仕える者たちは一様に安堵する。そうたいしたことはないのではないか。かの姿を眺めていると、そんな気になってくるのである。
 だが、実はたいしたことなのだ。事態はそれほど楽観視できるものではなかった。
「また、一人で行くの?」
 ガーネットが不安を顕にする。ジタンはベッドの縁に浅く座ってブーツを旅用のものに履き替えながら、顔を上げた。
 当たり前だと、その顔に書いてある。何を今更、と。
「ねえ、私の一生のお願いを聞いてくれる?」
「そんなに軽々しく一生のお願いなんて口にするもんじゃない」
 いつものとおり軽くいなそうとするジタン。だが、肝心の相手が一向に乗ってこないのに気付き、ふと眉を上げる。
「大丈夫だって。何をそんなに心配してるんだ?」
 す…っと、長い手を伸ばして、ジタンは立ち竦む彼女の体を抱き寄せる。 彼の膝の上、いつもの居心地のいい場所に落ち着いて、ガーネットは頼りない風情で彼の胸に半身を預けた。
 逞しい厚い胸の上に細い指を辿らせる。その固さと熱さを指に覚えこませておこうとするかのように。が、その指は途中で彼の大きな手に包まれて動きを止められてしまう。
 そのままジタンは彼女の指を唇におしあてた。
 愛しくてならぬ、細い白い指。
 熱い想いが二人の胸にせり上がってくる。見る間に高まる胸の鼓動を一つに重ねるように、ジタンはガーネットの体を自分の体に強い力で押し付けた。ガーネットもまた、自分を抱きしめる彼の力に渾身の力で応えようと背中に腕を回す。
「…ジタン。…愛してるわ」
 閨房の睦言で思わず口をついて出ることはある。無意識のうちにこぼれ出て止まらぬこともある――だが、平生の状態で彼女がこの言葉を口に上らせたのは、数えるほどしかなかった。恥ずかしかったからではない。大事な気持ちだったからだ。そんなに簡単に口に出してしまえる想いではなかったからである。
 その言葉を、彼女は呟くのだ。繰り返し、繰り返し。
「誰よりも、ただあなただけを愛しているわ」
 それは立派な嘘で、そして見事な真実。
 彼女はあまねく全ての民を愛すだろう。そして命をも名もなき民のために差し出すだろう。だが、彼女の心が求めてやまぬのは、ただジタンだけなのだ。だから彼女は背中に回していた手をはずし、彼の首にかじり付く。頬をすり寄せ、その熱さを確認しながら、しっかりと閉じた瞼の裏に彼を刻み付ける。
「俺はお前のものだよ。髪の毛の一本さえも。心の最後のひとかけらまでも」
 うそぶきながらジタンは彼女を抱きかかえなおす。ゆっくりと壊れ物でも扱うように丁寧に彼女の体をベッドの上に横たえて、その上に覆い被さる。そうして彼女の唇がなおも紡ごうとする言葉をすべて、唇で受け止めるのだ。
 深く、息をもさせぬほど、強く、熱く。
 ようやく息をついたその合間に、ジタンはそっと囁いた。
 愛しているよ、と。
 お前が民の為に差し出す命を護るために、俺は己の命を投げ出すだろう。
 それすら本望に思えるほど、俺はこの女が愛しいのだと、ジタンは彼女の閉じたまぶたに口づけを降らせながら痛感する。彼女は彼の魂の存在の根だった。
「お前が俺を思うよりずっと、俺はお前を愛してるよ」
 その言葉をガーネットは心の奥深くで受けとめる。大切に大切に、愛しい想いにくるんで、しまいこむのだ。彼もまた、その言葉を滅多に口にしなかったから。
「無事に帰って来て。今までと同じように、必ずわたしの許へ帰って来て」
 ジタンの頬が上下する。
「ああ。必ず」
 何の確証もないそのいらえにすがるより他、自分を支えるものは何もない。ガーネットはさらに強くジタンを抱きしめた。
「待っているから」
「必ず帰ってくる」
 自分の腕から温もりが離れてゆく、例えようのない喪失感。彼女の心残りそのままに、彼の腕に残る彼女の手を、ジタンは優しく彼女の胸に戻した。
 扉を開けて出てゆく音を、仰向いたままでガーネットは聞いた。
 最後に彼が落とした唇の温もりが、哀しかった。
 ぱたん、と扉の閉まる乾いた音が部屋に響く。同時に彼女の白い頬を、一筋の涙がこぼれおちた。
 夢はさかんに彼女に告げる。

 ――これが今生の別れだと。

※※※※※※※

 ミコトは一人黒魔導士の村に帰った。
 イーファの樹が送り込む霧は、専ら霧の大陸に向けて注がれ、未だこの大陸を侵してはいなかった。
 薬屋の屋根裏部屋で、彼女はベッドに寝転がって天窓を眺めていた。
 あの日突然、人が変わったように自分に襲い掛かってきたクジャの姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
 瀕死の状態から蘇生して以来、彼が見境なく暴走することなどなかった。彼の目には悲哀とともに常に穏やかな諦観が横たわっていて、柔らかな物腰の中には今にも消え失せそうな儚さが見え隠れしていた。
 そんな彼が、あの日、不意に眠っているミコトの首をしめようとしたのだ。鈍色のはずの彼の瞳が不気味に赤みを帯び、その顔に赤い斑紋が薄く浮かんでいた。トランス状態になる寸前。
 突然の変容にミコトは声もなく、苦しみに喘ぐ息の下でかろうじて彼の名を呼んだ。と、その声に弾かれたようにとっさに彼は手を離し、我に返ってあとずさった。赤黒かった瞳があっという間にいつもの鈍色に戻っている。
 彼は自分の手を信じられないように見つめ、それから視線を目の前に倒れ臥した妹に移した。
「ミコト…」
 咳き込みながら体を起こし、ミコトは声の主を見上げる。どうしたの、と彼女が疑問を投げかけるより早く、何かを悟ったような瞳でクジャは唇を噛みしめ、踵を返した。
 足早にその場を去ってゆく彼の背へ、声を発することのできないミコトは精一杯手を伸ばす。が、むろん彼に届く筈もなく、その手は虚しく空を泳いだ。
 クジャ。
 何があなたに起こったの?
 なぜそんな哀しい目をして去っていくの?
 溢れる疑問符の洪水は、どれ一つとして声にはならなかった。
 ただ分かるのは、彼の意識がこの村から瞬く間に消え去ったということだけ…。
 意識すれば言葉を使わずとも伝達し合えた彼女たちの思念。 彼はそれをシャットアウトしたのかもしれなかった。
 自分自身を、この世から締め出すために。