夜明けが近い。
黎明の清々しい光が、アレクサンドリアの家並みを明るく照らし出す。
一晩中ガーネットの手を握り締めて、まんじりともせずに夜を明かしたジタンの背後から、小さな足音がした。
「ミコト」
振り向かなくても、ジタンにはそれが誰だかすぐ解った。
「とうとう、新月の日ね」
応えず、手の中の冷たく細い指をジタンは弄ぶ。
「テラに――行くの?」
その問いに、ジタンの肩がぴくんと、微かに動いた。
「分からないんだ」
ようやく、口を開く。
「クジャが何を考えているのか」
「クジャの中に、クジャはまだいるわ。それは、あなたも感じているのでしょう?ジタン。私たちには、わかる。クジャと思いがつながっているから」
心話のことを指しているのだ。確かに、ジタンの奥でもクジャの意識の存在だけは認知できる。…それはひどく微弱だったけれど。
「あなたが行くなら、私も行く。どうするの、ジタン。当てにならないクジャの誘いに乗るの?それともここで…みんなと一緒に闘うの?」
くすっと、ジタンは笑った。
答えは最初から出ているのだと。そんな笑声だった。
「テラでは、圧倒的にクジャの力が勝るわ。今の彼はクリスタルそのものと言ってもいいくらいなのよ。無限に近い力を持ってるってことだわ。行けば、まず間違いなく、あなたの命はないわ」
自分はどうしたいのだろう。ミコトは混乱していた。
ジタンを止めたいのだろうか?
そんなはずはないのだ。ジタンに従うと決めたのだから。決断は彼に任せるつもりのはずだ。だのに、口をついて出てくるのは、彼を留めようとする無意味な言葉の羅列ばかりだった。
「それでも、行くの?」
ジタンが、振り向いた。そのとき。
「――クジャ!」
二人同時に叫んだ。頭の中に、クジャの思念が響き渡ったのだ。いや、正確には「テラの魂」の声が。
――まだ来ぬのか。
目の前のガーネットの体の輪郭が、ぼんやりと発光し、滲み始める。
――それでは、ガーネットをここに連れて来よう。
「クジャ!?お前…何をするつもりだ!」
「ジタン、これはクジャではないわ」
ミコトをジタンが手で制す。
――この女と…子を…殺す。
「クジャ!お前は…お前に、ガーネットが殺せるのか!?」
――殺す。…くない。
しわがれて擦れた声の奥から一拍遅れて寄せ来る声――苦しげに、それでも懸命に外に出ようとしている、クジャ自身の思念。
――この者どもは我らの障壁…りたいんだ…。
――この女と…を殺す…守りたいんだ…。
――邪魔立てを…守りたいんだ、ガーネットを。
――する…僕は、守りたいんだ、ガーネットとお前を!ジタン!
――だから、早くここに!!
その瞬間。二人の頭の中に、凄まじい衝撃音が響き渡り、クジャの意識が途絶えた。かわりに猛烈な憤怒と憎悪の念が飛び込んでくる。
――小賢しい真似を!来るがいい、ジタンよ。お前の息の根を止めてやろう。この女とともに!
その途端、ガーネットの体が光に包まれた。あまりに凄まじい閃光に、ジタンとミコトは目を覆う。
再び目を開けたときには、そこからガーネットの体は消え去っていた。
後には空になったベッドが冷たく白い輝きを曝すのみだった。
駆け出そうとするジタン。その背に叫ぶミコト。
「待って!」
その切迫した声に、思わずジタンは足を止める。
「私も、行く!」
決然と青白い頬を引き締めるミコト。その背後に見張りの兵の報告が飛んだ。
「何かが飛来してきます!!ものすごい数です!!」
それに弾かれたように、ばたばたと足音が響き渡る。
最上階の詰所にいたスタイナー達が張り出したテラスに飛び出したのだ。
目に飛び込んできた光景に、一同は息を呑む。
空一面を覆い尽くさんばかりの、翼竜の群れ。
翼をぶつけ合いながら、上空を取り囲むようにして四方からこちらへやってくる。
螺旋階段を駆け上り、スタイナー達が茫然と立ち竦んでいるのを見つけてジタンは一喝した。
「何をもたもたしている!ワイマール、コッヘル!すぐにプルート隊の第二小隊を引き連れて城下へ下り、住民を誘導しろ。ラウル、全ての城門を開いて街の民を城内へ避難させるんだ。地下の斎室なら広いし安全だろう。スタイナーは全軍を率いて王宮各所に兵士を配置、ベアトリクスは城内の支援体制を整えてくれ。さっさとしろ!」
くもの子を散らすように、そこにいた兵士たちが駆け去ってゆく。
ジタンはそれを見届けて、踵を返した。
「陛下!どこへ?」
言わずもがなと分かっていつつ、ベアトリクスは問う。
ジタンは振り返り、
「ガーネットを取り戻しに行ってくる」
笑った。
「上空があの様では飛空艇は使えませぬぞ!」
「逃げ切る。大丈夫だ。俺の飛空艇は自重が軽い分、加速も速い。トランス前の翼竜なら振り切れる」
「陛下…」
ベアトリクスの心中を察したのだろう。ジタンは優しく、遠い目になる。
「俺は、あいつのためなら命も惜しくない。そう誓ったんだ」
あの婚礼の夜。アレクサンドリアの剣に、空と大地と太陽に。そして、彼女と、自分自身に。
「行ってくる。あいつが帰ってくるこの場所を、死守してくれ。頼む、ベアトリクス将軍!」
「はっ!」
思わず、敬礼をしてしまった。
テラへ行けば、この男の命は十中八九失われるのだ。
それでも笑顔を浮かべて、愛するものに己を捧げようとする姿に、敬意を表さずにはおれなかった。
ベアトリクスの隻眼がひときわ鋭く輝く。ぎりぎりまで追い詰められたような、研ぎ澄まされた光。
「お任せください!国王陛下」
凛呼とした彼女のいらえ。
ジタンは低頭した。
そして、すぐに駆け出した。
任せておけば大丈夫だと、走りながら思っていた。きっと、ベアトリクスとスタイナーの二人が、アレクサンドリアを守ってくれる。ガーネットのアレクサンドリアを。
あとは、俺がお前を守るだけだ。
唇をきゅっと、引き結んで。
強い光の宿る瞳で、彼は上空を睨みつけた。
待ってろ、ダガー。
数刻の後、北西に向かって驀進する小さな飛空艇が雲間に見えた。
そしてそれはあっという間に垂れこめた低い雲と、せめぎあう黒い翼に覆い隠された。
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