クジャが――ゆっくりと瞬きをした。
ひどく鈍い動きで首を廻らし、声の主を見下ろす。
数度、目を閉じ…そして三度目に開けた時、彼の表情は一変していた。
虚空に散らばっていた長い髪がふわりと肩に降りてくる。赤く浮かび上がっていた紋が跡形もなく消え失せ、瞳に意志の光が戻ってきた。
「兄さん!」
駆け寄るミコト。
だが、クジャは飛び退り、そして哀しげに首を振った。
寸時、いとおしむように、切ないほど優しい瞳をミコトに向け、微かに微笑んで。
そして、次にジタンを見やった。
「僕を、殺せ」
「兄さん!」
「クジャ!何を…!」
「テラの残留思念の集積が僕の中にある。そいつらを僕が魂の中に取り込んで、そのまま魂の循環の中に引きずり込んでいってやるよ。そのためには僕もその中に身を投じなければならない。だから、僕が覚醒して意志の力で彼らを押さえつけているうちに、僕を殺してくれ」
アレクサンドリアで、ミコトが語った言葉がジタンの脳裏に蘇る。
ミコトは知識、ジタンは適応、そしてクジャは偶然生まれた意志…。
「ばかやろう!俺がお前を殺せるかよ!それに、ガーネットを救えるのも、お前だけなんだぞ!」
「大丈夫だ。彼女は僕のかけた催眠で眠っているだけだ…。きっかけを与えれば、すぐに目覚める」
「なんだって…?どうすればいいんだ!?」
地表に降り立ったクジャに詰めより、ジタンは彼の胸座を掴んだ。
動くたびに血がぼたぼたと零れ落ちるのだが、そんなことに構っていられなかった。
「僕の存在がなくなること。――簡単だろう?僕が消え去れば彼女の目は覚める」
クジャは笑った。
茫然として、ジタンは掴んでいた服を放し、あとずさる。
「ばか…やろう」
「さあ、時間がない!僕ももう限界が近いんだ。今が最後のチャンスなんだ!頼む、ジタン。僕を殺してくれ。でないと、全てが水の泡になってしまう!」
ジタンの動揺を見て取ったクジャが彼を急かす。
だがジタンは蒼白のまま、首を振ることしかできない。
ガーネットを助けたい。だが、意識を取り戻した本当の「クジャ」を、我が手にかけることなどできやしない。
「あなたなら、違う方法で目覚めさせることができるはずよ!生きてガーネットを救う事だってできるはずだわ!」
ジタンの背後からミコトが叫んだ。
クジャは寂しそうに笑って首を振った。
「それは…無理だ」
「今のあなたの言葉は信じない。例え可能でも、自分を殺させるために無理だと言うだろうから。お願い、クジャ。戻ってきて。私を一人にしないで!!」
ミコトの大きな目から涙が溢れてくる。
胸を引き裂かれるような想いで、その涙を声もなくクジャは見つめた。
「――ごめん。ミコト」
何度この言葉を聞いただろう。
いつもいつも弟にちょっかいをかけて、ミコトからシバかれる度に涙目になって口にしていた言葉だった。
「クジャ!やめて!」
「クジャ!」
再び体を宙に浮かべて、クジャは詠唱を始めた。
はるか上空で、稲妻が走り始める。
「やめろ、クジャ!」
だが、分かりきった結末を招来する為に敢えて詠唱を始めた彼が、その制止を聞き届ける筈もない。
彼が稲妻の剣を振り下ろそうとしている先には、空の一部に縫いとめられたように浮かんでいるガーネットがいる。
逡巡している余地はなかった。地を蹴ってジタンは走り出した。自分の腹部からの出血もまだ止まってはいない。だがそんなことも、もうどうでもよかった。
クジャの口が詠唱を完成させる寸前、オリハルコンが一閃した。
しゅっという風を切る鋭い音。
飛び散る美しい赤い鮮血。
長い紫の髪が虚空に散らばる。
ゆっくりとクジャの体が傾ぎ、地表に向かって落下してゆく。
ジタンはそれを受け止め、そのまま地に倒れこんだ。
「そうだよ、ジタン…これで…いいんだ」
声を絞り出して、笑うクジャ。が、すぐにこみ上げてくる血の塊を吐き出した。
「クジャ!」
ジタンは身を起こし、彼の半身を抱え起こした。
駆け寄ってきたミコトが縋りつく。
「兄さん!」
「ミ…コト…」
震える手で、愛しい妹の頬に触れようとする。だがもうそれだけの力は残ってはいなかった。途中で力尽きたようにぱたりと落ちる手を、ミコトが必死になってすくい取る。そして、力の限り握り締めた。
「もうすぐ…ガーネットの催眠が…と…とける…はずだ…」
ごふっ。また血の塊がせり上がってくる。
「目が…覚めたら…彼女の体は…落下して…。はやく…助けに…」
「クジャ!」
血の気がどんどん失われて行くのがはっきりと分かる。蒼白を通り越して土気色になってゆくクジャの半身を、ミコトが抱きしめる。
「行って。ジタン。クジャの傍には私がいるわ。私は最後まで兄さんの傍にいるから。だから、あなたはあなたの人のところに行って」
ミコトの目がジタンを射る。
ジタンはクジャに劣らぬ青白い顔で、頷いた。
「たのむ、ミコト」
そして、駆け出した。
ガーネットの体が今しも地表に叩きつけられようとする寸前、彼はしっかりとそれを腕の中に受け止めた。
動くたびにどくっと溢れ出る血は、収まる気配もない。
ジタンの顔色が青白くなってゆくのは出血が多量だからだ。
だがその削られてゆく自分の命よりも、彼にとってはクジャが、そしてガーネットが大切だった。
腕の中のガーネットは温かい。
こんな温もりのある彼女を抱きしめたのは、随分久しぶりのような気がして、ジタンは我知らず彼女をかき抱いていた。
「ん…」
ガーネットが、身じろぎをする。
そんなにすぐに覚醒はしないのだろう。だが、もう心配は要らないとジタンは思った。息も、心臓の鼓動も、以前と何ら変わらぬ健全さを取り戻している。ほっと、安堵の溜め息をつき、ジタンはそっと彼女の唇に口づけを落とした。そしてゆっくりと彼女の体を地面に横たえ、立ち上がる。
最後の仕上げだ。
クジャを、助ける。
ジタンがそう決意した時。ミコトの悲鳴が響き渡った。
「ジタン!クジャが!!」
振り向いたジタンの目に映ったのは、夥しい血糊を体中に残したまま空に浮かび上がる壮絶なクジャの姿だった。いや、赤黒い目はクジャのものではない…「それ」が、また表に現れたのだ。クジャの意志が共に引きずり込もうとしていた「テラの魂」が。
『認めぬ…ガイアの還流に帰する事など絶対に受け入れぬ』
凄まじい憤怒。
「それ」の支配を抜けてクジャが表に出てくるたびに、「それ」はこの感情を露にしていた。思い通りにならぬことへの憤り…というよりもむしろ恐怖に近い感じだった。
「ではその男から離れろ!俺がお前のよりしろになってやる!」
ジタンが挑発する。が、しかし「それ」はその言葉に反応しなかった。
『認めぬ…我らのみ消失することは…決して…認めぬ』
意志の失われたただの思念の塊は、暴走をし始めたのだ。
荒い大地から、土煙を巻き上げて、次々にイーファの樹の根…いや、「枝」が、現れる。その枝は凄まじい勢いで地表を駆け抜け、大地に乗る者全てを串刺しにしようとする。
ジタンは舌打ちをして、すぐさま取って返した。まだ倒れ伏していたガーネットを抱き上げると、枝をかわして飛空艇に向かう。
「ミコト!こいつを頼む!」
真下まで来てジタンは彼女にガーネットを渡した。
「ジタン!」
踵を返してクジャの元へ戻ろうとするジタンをミコトが呼び止める。
ジタンは立ち止まり、もう一度、繰り返した。
「そいつを、頼む。俺の…全てなんだ。そいつは」
彼は、振り向かなかった。
クジャのところへ。
下半身の服が血でべっとりと体に張り付いている。
走りにくい。それでも、彼は疾走した。
彼めがけて雨のように枝が降り注ぐ。
頬を掠め、腕を掠め、足を掠め…クジャのもとに辿り着いた時には、彼はぼろぼろの状態だった。だが、一方のクジャも、自分を宙に置いておくだけの余力はなくなってしまっていた。ふらふらと地に膝をつく彼の体を、ジタンは抱きしめた。
「一人にしない」
ジタンは歯を食いしばった。痛みと、途切れそうになる意識を何とかもちこたえさせるために。
「お前は俺と一緒にガイアに戻るんだ。魂なんてほっとけばいい。お前が一人で背負い込む必要なんてないんだ。行こう、クジャ!」
渾身の力を振り絞って立ち上がり、クジャを引っ張り上げる。
生命体としての機能を果たさなくなった肉体に、すでに「テラの魂」の影はない。
クジャの息が完全に停まってしまっていることに気付いていながら、なおもジタンは語りつづけるのだ。
「帰ろう。俺たちの帰る場所に!」
だがその二人の絆を打ち崩そうとするかのように、暴走し、うねるイーファの樹の枝が地表を猛烈な勢いで走ってきた。
ずぐっ!という鈍い湿った音と血飛沫があたりに飛び散る。
二人の体を串刺しにして、枝は虚空に撥ね上がった。
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