花びらだと思った。
暗い空に舞う鮮やかな赤い花びらだと。
少しずつ戻ってくる感覚に、不意に言い知れぬ幸福が差した。
懐かしい暖かな腕が自分を包み込む。
よく知る彼の唇を感じて、彼女は爪の先まで安心感に満たされる。
このままこの腕の中で眠ってしまいたいと思った。
なのに、そのぬくもりはすぐに自分を置いて去って行こうとするのだ。
慌てて彼にすがりつこうとするが、身体が思うように動かない。
――待って!
必死に目をこじ開ける。
薄く開いた目に真っ先に飛び込んできたのは――美しい、儚い花びらだった。
きれい…。
夢うつつのまま声にならぬ呟きを洩らす。
そうして気付く。
彼女の体に降り注ぐその美しいひとひらが、花などではないことに。
赤く染まった視界の隅に、ミコトの膝の上から身体を起こすガーネットの姿が見えた。
ジタンは胸が締めつけられる。
ようやくはっきりと意識を取り戻した彼女の顔が、見る間に驚愕と苦痛に歪んでゆくのだ。
どうしよう。
痛みすら遠のいてしまうほど意識は朦朧としているのに、ジタンはそんなことを思ってしまう。
あいつが、泣いちまう。
泣かせたくないのに。
あいつが泣いたら、俺は悲しくてたまらなくなる。
あいつを幸せにするんだ。
そう誓ったんだ。
なのに…ごめんな、ダガー。
ガーネットは蒼白な頬を固く強張らせて、こちらに向かって駆け出した。
行く手を阻むように、次々に地中から突き出してくる枝をかいくぐって、よろめきながらジタンの下へ来ようとする。
両手を空に向けてかざし、走りながら彼女は詠唱を始める。
白い光がジタンとクジャの身体を覆う。
彼女が放ったケアルガが、ほんの少しだけ彼の痛みを和らげる。だがそれも、既に彼の命をつなぎとめるよすがにはならなかった。夥しい出血は、彼の生命力そのものを奪い取ってしまったのだ。
それでも尚、ガーネットはケアルガを唱え続ける。
強い魔法の連唱が、どれだけ自分の心身に負担をかけるか、誰よりも良く知っているはずなのに。
かすれゆく意識の底に、ガーネットの頬を伝う涙が焼きつく。
泣くなよ。
駆け寄って抱きしめたかった。
そんなに魔法を使って、そんなに泣いたら、お前が倒れてしまう。
お前のお腹には、俺たちの子供がいるんだから。
だから、もう泣くな。
お願いだから。
彼女の周囲で大地が土埃をまきあげる。彼女の身体は何度もその枝に危うく刺し貫かれそうになる。
ああ、誰か…。
あいつに何かあったら…俺は…。
涙のいっぱい溜まった目でこちらを真直ぐに見上げるガーネット。
それが、彼の目にした最後の光景だった。
守ってくれ…。
誰か、あいつを守ってくれ。…俺のかわりに…。
もはや彼の目は何も映さない。剥離しかけた思いだけが一人歩きを始める。
スタイナー…ベアトリクス…フライヤ…エーコ……サラマンダー………。
走馬灯のように浮かんでは消えてゆく、懐かしい仲間たち。
……シド……ボス……。
ぼんやりとゆらめく闇に灯る記憶。
海辺で初めて出逢った髭面の親父。
様々なものに、人に、出会った。
少しずつ大きくなってゆく自分。
そしてその記憶はやがて鮮やかに、一人の少女の姿を形どる。
澄み渡る美しい湖を背に、その子は振り向く。
長かった髪をばっさりと切って。
覚えておいて。
そう、彼女は言ったのだ。
今までの私を覚えていてね、ジタン、と。
限りなく愛しく、この世の全てよりも彼のうちを満たしていた少女。
ごめん、ダガー。
覚えているんだ。でも、その記憶と共に、俺はもうクリスタルに呑み込まれてしまう。
約束したのに。
ずっとそばにいると。お前を――そしてその子を守ると、誓ったのに。
――諦めちゃ、だめだよ。
今しも虚空に浮遊しようとしたジタンの思念を、ふいに何かが引きとめた。
その腕がどれだけ自分を勇気づけてくれたか。
その胸がどれだけ自分を受け止めてくれたか。
その唇の紡ぐ言葉が、どれだけ自分を温めてくれたか。
誰よりも愛しく、何ものにも替え難い自分の全てが、失われようとしていた。
脳裏に浮かぶのはあの夢。
二重写しのように目の前に広がる現実が、彼女の胸を圧し潰した。
滴る血潮。
ジタンの…命。
うねり伸びる樹の枝の下まで駆けより、滴り落ちた彼の血を地面の土ごと掻き集める。
ぽたぽたとその上に零れ落ちているのが自分の涙なのだと、下を向いてやっと彼女は気がつく。けれどそれを拭うことすら考えられずに、彼女は血のしみた土くれを抱きしめた。
これはジタンの血。
耳に蘇る彼の鼓動。
彼の胸に耳をあてて、規則正しいその音を確かめたのはいつのことだっただろう。
土を抱いたまま彼女は再びケアルガを唱え始める。
何度も、何度も。
耳鳴りがする。目の前が暗くなる。頭が締め付けられるように痛む。
それでもやめなかった。
彼を助けるのだと。
それしかガーネットの頭の中には残っていなかったのだ。
ああ、もし神様がいるのなら。
今、私に力を貸してください。
あの人を助けて。
お願い。
私からあの人を取り去らないで。
祈る彼女めがけてイーファの樹の枝が襲い掛かる。
彼女の目がそれを受け入れようと絶望的な諦観を浮かべたその時。
彼女の胸の宝珠が、輝き出した。
――諦めちゃ、だめだよ。
何かの…誰かの、声がした。
マディーンはすでに力尽きてしまった。
だが彼のおかげで殆どの翼竜は打ち倒され、最後に残った一群れが、城の西側に集結しつつあった。
「エーコ殿、かたじけないのである。しばし、休まれるがよい」
最後の襲撃に対する態勢を固めるため、スタイナーは残存する兵を宝剣の下に集めた。
「エーコは、大丈夫」
エーコは無理に立ち上がろうとして、よろめいた。が、すかさず横から長い腕が伸びてきて、その華奢な身体を受け止める。
「いい加減にしろ」
短くサラマンダーが叱咤する。そして彼は少女の身体を床にそっと座らせた。
「お前はよくやった。あとは、俺たちに任せろ」
とは言うものの、サラマンダーは肩に深手を負っていて、左手は殆ど使い物にならない。スタイナーも背中はもとより、体中に傷を負っている。兵士たちも無傷のものは皆無だった。ベアトリクスのわき腹にも血が滲んでいる。
エーコはそれを見て、真っ青な顔を振った。
「みんな、ぼろぼろじゃない。エーコががんばるのだわ」
そして、壁に手をついて、立ち上がろうとする。
ちっ、と舌打ちして、サラマンダーがエーコに手を貸そうとした、その瞬間、大きな羽音が響き渡った。
それまで中空に控えていた最も大きな竜が、降下してきたのだ。
「来るぞ!」
スタイナーの厳しい声に被さるように竜の口から紅蓮の炎が吐き出された。
とっさにエーコはプロテスを唱えようとする。スタイナーがベアトリクスの前に身体を投げ出し、サラマンダーがエーコの上に覆い被さる。が、灼熱の焔は容赦なく彼らに襲いかかった。
その場の全てが焼き尽くされようとした――寸前。
エーコの胸の宝珠が強い光を放った。
「一体何だったのでしょう。この突然の魔物の襲撃は」
リンドブルムでは城が集中攻撃を受けた。襲い掛かったのは翼竜の群れだった。飛空艇部隊の活躍によって、被害は最小限度にとどめられはしたものの、アレクサンドリアの窮状を聞いて、救援の手が差し伸べられるほどの余力はなかった。
宰相オルベルタの洩らした慨嘆に、シドは首を振る。
「わしにも分からんのじゃ」
とりあえず各部隊に帰還命令を出すために、烽火の準備をさせていた時。
「あなた!」
ヒルダが血相を変えて会議室に飛び込んできた。
「どうしたのじゃ、ヒルダ」
次に発せられた彼女の言葉に、シドとオルベルタは息を呑んだ。
「突然宝珠が…天竜の爪が、発光し始めたのです!」
翼竜の襲撃から城を護り通した二人の勇者は、得物を手にしたまま戦いの痕を見つめていた。敵の数はそれほど多くはなかったため、被害もたいした事はない。が、未だ復興途中でのこの襲撃は痛手には違いなかった。
「一体、これは…どういうことなのじゃ、フラットレイ」
傍らにたつ長身の男を見上げるフライヤ。男はかぶりを振り、背後の玉座を振り仰ぐ。
「王よ…あなたのところには、何か報告が届いておらぬのですか」
王位を受け継いだ年若き統率者は、当惑の色を目に浮かべ、座から降り立った。
「俺は何も聞いていないが…でも、アレクサンドリアの方から霧が流れ込んでるってのは聞いた。また例の樹が関係してるんじゃないのか?」
「アレクサンドリアから…ということは、霧の濃さも、そして魔物の変化も、アレクサンドリアが最も甚だしいということじゃな・・・」
口の中で独りごつフライヤ。それを聞きとがめたフラットレイが彼女の先を取る。
「彼の地も魔物の襲撃を受けておるやもしれぬな。――助けに行くか」
フライヤは目を上げ、そして頷く。
その時。
いきなりクレイラのハープが震え出し、その突端に取り付けられた宝珠が、眩いばかりの光を放ち始めた。
「な、何だ…この光は!?」
叫びも彼らの姿も、突然の閃光にかき消される。
辺りは瞬く間に、白いベールに包み込まれた。
稲妻にも似た光が、虚空をつんざいた。
一瞬、辺りが昼間のように明るくなる。
が、その閃光が宝珠の中に収束し始め、辺りに再び暗闇の帳が折り始めた瞬間、天から太い光の柱が真直ぐに大地に突き刺さった。
その太い光束の中に、一体の巨大な召喚獣の影が浮かび上がる。
アレクサンダー。
ガーネットが胸元の宝珠を見つめる。
私は、アレクサンダーを召喚などしていない…。エーコ?でも…エーコはここにはいないのに。
エーコが胸の宝珠を手にすくう。信じられないといった面持ちで、宝剣から立ち上る光の束と、その中に現れたアレクサンダーのシルエットを見上げながら。
エーコはアレクサンダーなんか呼んでないわ。でも、誰が呼んだっていうの?ここには、ガーネットはいないのに。
共振する宝珠の輝きは失せない。リンドムルムでも、ブルメシアでも。
時空そのものが震えているのだ。
たった今、テラとガイアの空間が、アレクサンドリアという点で重なったのである。
<彼>の力によって。
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