月虹15  gekkou: written by kiki    

 花びらだと思った。
 暗い空に舞う鮮やかな赤い花びらだと。

 少しずつ戻ってくる感覚に、不意に言い知れぬ幸福が差した。
 懐かしい暖かな腕が自分を包み込む。
 よく知る彼の唇を感じて、彼女は爪の先まで安心感に満たされる。
 このままこの腕の中で眠ってしまいたいと思った。
 なのに、そのぬくもりはすぐに自分を置いて去って行こうとするのだ。
 慌てて彼にすがりつこうとするが、身体が思うように動かない。
――待って!
 必死に目をこじ開ける。
 薄く開いた目に真っ先に飛び込んできたのは――美しい、儚い花びらだった。

 きれい…。
 夢うつつのまま声にならぬ呟きを洩らす。
 そうして気付く。
 彼女の体に降り注ぐその美しいひとひらが、花などではないことに。

 赤く染まった視界の隅に、ミコトの膝の上から身体を起こすガーネットの姿が見えた。
 ジタンは胸が締めつけられる。
 ようやくはっきりと意識を取り戻した彼女の顔が、見る間に驚愕と苦痛に歪んでゆくのだ。

 どうしよう。

 痛みすら遠のいてしまうほど意識は朦朧としているのに、ジタンはそんなことを思ってしまう。

 あいつが、泣いちまう。
 泣かせたくないのに。

 あいつが泣いたら、俺は悲しくてたまらなくなる。
 あいつを幸せにするんだ。
 そう誓ったんだ。
 なのに…ごめんな、ダガー。

 ガーネットは蒼白な頬を固く強張らせて、こちらに向かって駆け出した。
 行く手を阻むように、次々に地中から突き出してくる枝をかいくぐって、よろめきながらジタンの下へ来ようとする。
 両手を空に向けてかざし、走りながら彼女は詠唱を始める。
 白い光がジタンとクジャの身体を覆う。
 彼女が放ったケアルガが、ほんの少しだけ彼の痛みを和らげる。だがそれも、既に彼の命をつなぎとめるよすがにはならなかった。夥しい出血は、彼の生命力そのものを奪い取ってしまったのだ。
 それでも尚、ガーネットはケアルガを唱え続ける。
 強い魔法の連唱が、どれだけ自分の心身に負担をかけるか、誰よりも良く知っているはずなのに。

 かすれゆく意識の底に、ガーネットの頬を伝う涙が焼きつく。

 泣くなよ。

 駆け寄って抱きしめたかった。
 
 そんなに魔法を使って、そんなに泣いたら、お前が倒れてしまう。
 お前のお腹には、俺たちの子供がいるんだから。
 だから、もう泣くな。
 お願いだから。
 
 彼女の周囲で大地が土埃をまきあげる。彼女の身体は何度もその枝に危うく刺し貫かれそうになる。

 ああ、誰か…。
 あいつに何かあったら…俺は…。

 涙のいっぱい溜まった目でこちらを真直ぐに見上げるガーネット。
 それが、彼の目にした最後の光景だった。

 守ってくれ…。
 誰か、あいつを守ってくれ。…俺のかわりに…。

 もはや彼の目は何も映さない。剥離しかけた思いだけが一人歩きを始める。

 スタイナー…ベアトリクス…フライヤ…エーコ……サラマンダー………。

 走馬灯のように浮かんでは消えてゆく、懐かしい仲間たち。

 ……シド……ボス……。

 ぼんやりとゆらめく闇に灯る記憶。
 海辺で初めて出逢った髭面の親父。
 様々なものに、人に、出会った。
 少しずつ大きくなってゆく自分。
 そしてその記憶はやがて鮮やかに、一人の少女の姿を形どる。
 澄み渡る美しい湖を背に、その子は振り向く。
 長かった髪をばっさりと切って。
 覚えておいて。
 そう、彼女は言ったのだ。
 今までの私を覚えていてね、ジタン、と。
 限りなく愛しく、この世の全てよりも彼のうちを満たしていた少女。
 
 ごめん、ダガー。
 覚えているんだ。でも、その記憶と共に、俺はもうクリスタルに呑み込まれてしまう。
 約束したのに。
 ずっとそばにいると。お前を――そしてその子を守ると、誓ったのに。

――諦めちゃ、だめだよ。
 
 今しも虚空に浮遊しようとしたジタンの思念を、ふいに何かが引きとめた。

 その腕がどれだけ自分を勇気づけてくれたか。
 その胸がどれだけ自分を受け止めてくれたか。
 その唇の紡ぐ言葉が、どれだけ自分を温めてくれたか。
 誰よりも愛しく、何ものにも替え難い自分の全てが、失われようとしていた。
 脳裏に浮かぶのはあの夢。
 二重写しのように目の前に広がる現実が、彼女の胸を圧し潰した。
 滴る血潮。
 ジタンの…命。
 うねり伸びる樹の枝の下まで駆けより、滴り落ちた彼の血を地面の土ごと掻き集める。
 ぽたぽたとその上に零れ落ちているのが自分の涙なのだと、下を向いてやっと彼女は気がつく。けれどそれを拭うことすら考えられずに、彼女は血のしみた土くれを抱きしめた。
 これはジタンの血。
 耳に蘇る彼の鼓動。
 彼の胸に耳をあてて、規則正しいその音を確かめたのはいつのことだっただろう。
 土を抱いたまま彼女は再びケアルガを唱え始める。
 何度も、何度も。
 耳鳴りがする。目の前が暗くなる。頭が締め付けられるように痛む。
 それでもやめなかった。
 彼を助けるのだと。
 それしかガーネットの頭の中には残っていなかったのだ。
 
 ああ、もし神様がいるのなら。
 今、私に力を貸してください。
 あの人を助けて。
 お願い。
 私からあの人を取り去らないで。

 祈る彼女めがけてイーファの樹の枝が襲い掛かる。
 彼女の目がそれを受け入れようと絶望的な諦観を浮かべたその時。
 彼女の胸の宝珠が、輝き出した。

――諦めちゃ、だめだよ。

 何かの…誰かの、声がした。


 マディーンはすでに力尽きてしまった。
 だが彼のおかげで殆どの翼竜は打ち倒され、最後に残った一群れが、城の西側に集結しつつあった。
「エーコ殿、かたじけないのである。しばし、休まれるがよい」
 最後の襲撃に対する態勢を固めるため、スタイナーは残存する兵を宝剣の下に集めた。
「エーコは、大丈夫」
 エーコは無理に立ち上がろうとして、よろめいた。が、すかさず横から長い腕が伸びてきて、その華奢な身体を受け止める。
「いい加減にしろ」
 短くサラマンダーが叱咤する。そして彼は少女の身体を床にそっと座らせた。
「お前はよくやった。あとは、俺たちに任せろ」
 とは言うものの、サラマンダーは肩に深手を負っていて、左手は殆ど使い物にならない。スタイナーも背中はもとより、体中に傷を負っている。兵士たちも無傷のものは皆無だった。ベアトリクスのわき腹にも血が滲んでいる。
 エーコはそれを見て、真っ青な顔を振った。
「みんな、ぼろぼろじゃない。エーコががんばるのだわ」
 そして、壁に手をついて、立ち上がろうとする。
 ちっ、と舌打ちして、サラマンダーがエーコに手を貸そうとした、その瞬間、大きな羽音が響き渡った。
 それまで中空に控えていた最も大きな竜が、降下してきたのだ。
「来るぞ!」
 スタイナーの厳しい声に被さるように竜の口から紅蓮の炎が吐き出された。
 とっさにエーコはプロテスを唱えようとする。スタイナーがベアトリクスの前に身体を投げ出し、サラマンダーがエーコの上に覆い被さる。が、灼熱の焔は容赦なく彼らに襲いかかった。
 その場の全てが焼き尽くされようとした――寸前。
 エーコの胸の宝珠が強い光を放った。

「一体何だったのでしょう。この突然の魔物の襲撃は」
 リンドブルムでは城が集中攻撃を受けた。襲い掛かったのは翼竜の群れだった。飛空艇部隊の活躍によって、被害は最小限度にとどめられはしたものの、アレクサンドリアの窮状を聞いて、救援の手が差し伸べられるほどの余力はなかった。
 宰相オルベルタの洩らした慨嘆に、シドは首を振る。
「わしにも分からんのじゃ」
 とりあえず各部隊に帰還命令を出すために、烽火の準備をさせていた時。
「あなた!」
 ヒルダが血相を変えて会議室に飛び込んできた。
「どうしたのじゃ、ヒルダ」
 次に発せられた彼女の言葉に、シドとオルベルタは息を呑んだ。

「突然宝珠が…天竜の爪が、発光し始めたのです!」

 
 翼竜の襲撃から城を護り通した二人の勇者は、得物を手にしたまま戦いの痕を見つめていた。敵の数はそれほど多くはなかったため、被害もたいした事はない。が、未だ復興途中でのこの襲撃は痛手には違いなかった。
「一体、これは…どういうことなのじゃ、フラットレイ」
 傍らにたつ長身の男を見上げるフライヤ。男はかぶりを振り、背後の玉座を振り仰ぐ。
「王よ…あなたのところには、何か報告が届いておらぬのですか」
 王位を受け継いだ年若き統率者は、当惑の色を目に浮かべ、座から降り立った。
「俺は何も聞いていないが…でも、アレクサンドリアの方から霧が流れ込んでるってのは聞いた。また例の樹が関係してるんじゃないのか?」
「アレクサンドリアから…ということは、霧の濃さも、そして魔物の変化も、アレクサンドリアが最も甚だしいということじゃな・・・」
 口の中で独りごつフライヤ。それを聞きとがめたフラットレイが彼女の先を取る。
「彼の地も魔物の襲撃を受けておるやもしれぬな。――助けに行くか」
 フライヤは目を上げ、そして頷く。
 その時。
 いきなりクレイラのハープが震え出し、その突端に取り付けられた宝珠が、眩いばかりの光を放ち始めた。
「な、何だ…この光は!?」
 叫びも彼らの姿も、突然の閃光にかき消される。
 辺りは瞬く間に、白いベールに包み込まれた。

 稲妻にも似た光が、虚空をつんざいた。
 一瞬、辺りが昼間のように明るくなる。
 が、その閃光が宝珠の中に収束し始め、辺りに再び暗闇の帳が折り始めた瞬間、天から太い光の柱が真直ぐに大地に突き刺さった。
 その太い光束の中に、一体の巨大な召喚獣の影が浮かび上がる。
 アレクサンダー。
 ガーネットが胸元の宝珠を見つめる。
 私は、アレクサンダーを召喚などしていない…。エーコ?でも…エーコはここにはいないのに。
 
 エーコが胸の宝珠を手にすくう。信じられないといった面持ちで、宝剣から立ち上る光の束と、その中に現れたアレクサンダーのシルエットを見上げながら。
 エーコはアレクサンダーなんか呼んでないわ。でも、誰が呼んだっていうの?ここには、ガーネットはいないのに。

 共振する宝珠の輝きは失せない。リンドムルムでも、ブルメシアでも。
 
 時空そのものが震えているのだ。
 たった今、テラとガイアの空間が、アレクサンドリアという点で重なったのである。
 
 <彼>の力によって。