彼女が取り乱してまでジタンにすがりついた理由は、考えるまでもなかった。それは恐らく、彼女の見た予知夢に起因しているのだ。
――俺の身に災厄が降りかかるのだろう。
と、ジタンは思った。悪くすれば命を落とすかもしれない程の災いが。だから彼女はあれほど感情を高ぶらせたのだ。彼女の激情はそのまま彼への愛情の強さだった。
その不安を自分一人の胸に収め、懸命に隠そうとした彼女の気持ちを思うと、ジタンはたまらなくなって――彼女をかき抱かずにはいられなかった。そうすることで、この別れがもっと辛いものになってしまうと分かっていても。
翌日、まだ夜が明けやらぬうちに、ジタンはひっそりと出立した。
城下を出る前に彼には寄らねばならぬ場所があった。
白鳥が羽を広げたような形に伸びた貴族たちの居住区。その一隅にある、スタイナーの屋敷である。
後事を託せるのは彼しかいないとジタンは思ったのだ。
従者も伴わずに現れたジタンを見て、スタイナーは顔をしかめた。日頃から単独行動は慎むように進言しているにも関わらず、一向に素行を改めようとしないこの国王に、彼はほとほと手を焼いていた。
そのスタイナーの表情を見てとって、機先を制してジタンが言った。
「お叱りは後で受ける!先に聞いてくれ、おっさん。時間がないんだ」
珍しく急いた様子のジタンに、スタイナーはおや?と訝しげな顔をする。
「俺は今からアレクサンドリア国内の状況をこの目で確かめてこようと思ってる。各地からの報告で、どうしても腑に落ちないことがあるんでね。だけど、本当は城を空けたくはないんだ。あいつが――ガーネットが心配で。だから、頼む。あいつを、護ってくれ」
いつもの人を食ったような煌きが影を潜め、その代りにただならぬ焦燥が双眸に漂う。だが、その瞳にせかされても、スタイナーは動じなかった。ここでジタンとともに焦っても始まらないと彼は思ったのだ。ジタンその人が、王宮で終始平静を装っていたのと同じに。
「そう矢継ぎ早に言われても困る。自分の頭は理解が遅いのである。もっときっちりと説明してくれぬか」
ああ、とジタンは小さな声で肯定とも呻ともつかぬ呟きを洩らした。スタイナーの意図を汲み取ったのだ。
一呼吸置いて、ジタンは再び口を開いた。
「ガーネットが予知夢を見たんだ。俺たちの子を何かが狙っている、と。そして多分、各地で起こっている災厄は、その前兆なんだ。おっさんも知ってるよな?魔獣が頻繁に出没するようになって、しかも凶暴化してるって」
無言でスタイナーは頷く。
「それが何者の仕業なのか、ガーネットにもわからない。もちろん、俺にも見当はつかない。でも、妙に引っ掛かるんだ。魔物の種類が変わった。そして、霧が再び立ちこめ始めた。それも、高緯度地方からだ。ということは…」
「イーファの樹、か…」
「ああ。あの樹がまた活動し始めたんじゃないかと思うんだ。もしそうなら背後にテラが関わっていることは十分に考えられる。…テラは、あれでなくなってしまったわけじゃないからな」
「が、しかし、クジャの暴走で壊滅的な打撃を受けたのではないのか?それに輝ける島の次元の入口も、あれから閉ざされたままだというではないか」
「いや…あそこは、開くんだ。俺とガーネットは結婚する前に輝ける島からテラへ行くことができた。確かにあそこにはもうブラン・バルの集落は存在しなかった。でも、そこに行けたってことは、テラそのものはまだ残っているとうことだろう?」
スタイナーは口をつぐんだ。
ジタンの言葉の重さを、しっかりと受け止めるためだ。
テラのことを口にするジタンの気持ちごと。
「テラが関わっているんじゃないかと俺が思う理由は、もう一つある」
「何であるか」
「俺自身が、おかしくなってる。意識が、妙に鮮明なんだ。体に力が漲っている感じがして、いつもより遠くの音が聞こえたり、かなり遠い距離で心話が通じたりする。そしてクジャの様子もおかしいらしい。ミコトだって、いつになく感情的になってた。俺たちジェノムの心身に、大きな変化が起こってる」
スタイナーは押し黙ったまま、しばらくじっと考えを廻らしていた。
それから、はたと思いついたように右拳を左の掌に打ちつけた。
「トット先生に伺うのである!こういう訳の分からぬ事態の時こそ、先生の平生の訳の判らぬ研究が役に立つのである!」
「一理あるな。例の古文書は未解読の部分が大半だ…もしかしたら、何か手がかりが掴めるかもしれない。じゃあ、おっさん、そういうことで、トット先生にも頼んでおいてくれないか?そしておっさんとベアトリクス将軍は、とにかくあいつの――ガーネットの身辺を警護してくれ。この高台に霧が上ってくるとは思わないし、魔獣もここまでは出没しないだろうとは思うけど」
万が一、ということがある。世界中でここが一番安全な場所だと信じたかったが。
わかった、と力強く肯いてくれたスタイナーと固い握手を交わして、ジタンはアレクサンドリアの城下町を旅立った。
いつになく力をこめたその固い握手の意味を、スタイナーはどんな風に感じ取ったのか。しばらくの間彼は屋敷の入口に立ち尽くしていた。微動だにせずに。
数刻の後。ジタンの姿は物見山にあった。
そこまでは飛空艇を使い、山からダリ村までの短い区間を徒歩で渡ってみた。あいにく魔物らしい魔物には出会わなかったが、しかしその代償のように、彼は信じられない光景を目にすることになった。
一歩、村に足を踏み入れたジタンは、そのあまりに凄惨な光景に息を呑んだ。
ずたずたに壊された宿屋の扉。半分欠けた看板が無残に垂れ下がり、風に揺れていた。
この長閑な村の、穏やかな昼下がりにはおよそ似つかわしくない木板の軋む音だけが、虚しく通りに響いている。かつてこの村に満ちていた子供たちのはしゃぎ声も人々のざわめきも、もはや影すら残っていなかった。
数年前訪れた時、村はずれに一人だけ畑を守っていたばあさんがいたが、その畑も今は無残に荒れ果てている。
可愛らしい若い娘が店番をしていた武器屋も酒場も、人影一つなく、深閑と静まり返って、佇まいを残すのみだ。
ジタンは半壊した扉を押し開けて、薄暗い店の中に入った。
誰何するが応えは帰ってこない。人の気配がないのだから当然だ。
店の奥の道具置き場には、手付かずの食事がほったらかされていた。
突然、嵐のように何かがこの村を襲ったのだ。村人はほうほうの呈で逃げ出したか、もしくは何かにやられてしまったか。
この村には地下に通脈が伸びている。昔その地下道を伝って、霧がこの村に漂ってきていた。今もその通路がつながったままだとしたら、新たな霧がそこから漏れでて、何かをしたのかもしれなかった。
新たな霧?
頭の中に浮かんだ自分の言葉に彼ははっとした。
かつての霧は、選り分けられた魂の残骸だと、ガーランドは言わなかったか?ガイアの魂が、循環を堰き止められて地表に吐き出されたものだと。
では、今度の霧は、もしかしたら――。
テラの魂の残骸なのではないか?
しかしそれならなぜ今さら地表に出てくるのだ。
ジタンの思考を遮るように、村の広場の方から妙な物音が響いた。
固い鱗がこすれる音。ざわざわと、重い何かを引きずるような音がして、ジタンの目の前にいきなりそれは出現した。
巨大な、蛇。
銀色に輝く鱗をまとった、それは一見銀竜ににた魔物だった。
ジタンは身構え、オリハルコンをすっと鞘から抜き放った。
ガーネットは無駄と知りつつバルコニーに出て、双子の月を眺めていた。
ジタンは今朝旅立ったばかりなのだ。そんなに早く帰ってくるはずがない。
細い溜め息を洩らして薄布をはおり直し、彼女が室内に戻ろうとした時。
不意に背後から手が伸びてきて、彼女の体を抱きしめた。
その手に一瞬ガーネットはジタンを感じる。…が、すぐに次の瞬間、視界の横に入り込んだ薄紫の細い髪に気付いて絶句した。
「僕の小鳥…」
今までなら周囲の失笑をかっていた、そしてそのためにわざとその人が口にしていた軽い言葉である。だが、今漏れるその呟きは、重く、苦々しい響きに満ちていた。
彼は腕に力をこめて、さらに続けた。
僕を助けてくれ。
苦しみに押し潰された、哀しい声音だった。
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