あの夜アレクサンドリアまでわざわざ駆けつけたミコトの、泣きながら訴える姿が脳裏に浮かんだ。
クジャは彼女を殺そうとした。
そして数日間完全に姿をくらまして、やっと現れたのが、アレクサンドリアだったというわけだ。
何のために、彼は行方をくらまし、ここに来たのか。
ジタンとガーネットの命をも狙っているのだろうか。
だが、先刻の彼の呻きがガーネットの耳と心に焼き付いて離れない。あれは彼女の命を奪おうとする者の呟きではなかった。いや、その気持ちを必死で抑えているような声だったのだ。
ガーネットは自分の体に回されたクジャの手の上に、自分の手をそっと置いた。
彼の体がびくんと震える。
「顔を、見せて」
辛うじて、ガーネットはそう声を絞り出した。
他に言葉は見つからない。
クジャの反応はない。
「お願い。あなたの顔を見て、ちゃんと話したいの。そして、わたしからも聞きたい事がたくさんあるの」
彼が果たしてまともに話のできる状態にあるのかどうかすらも怪しかった。だが今彼女にできるのは、衷心から彼の心に語りかけることだけなのだ。
彼女の首に回されていた手が、緩んだ。
その隙をついて逃れることもできたが、ガーネットは動かなかった。じっと、彼の手が完全にはずれるのを、待った。なぜだか自分が離れることで、彼が傷つきそうな気がしたから。
静かな刻が吐息となって空間にきざまれてゆく。
どれくらい経ったのだろう。緩んでいたクジャの手が、そっとガーネットを離した。
振り返ると、クジャの沈んだ哀しげな瞳にぶつかった。
「助けて、って、どういうことなの?」
おずおずと、ガーネットは手を伸ばす。たった今、やっと解放されたと言うのに、彼女は自分からクジャに近寄っていくのだ。
自分の頬に添えられた手に、クジャは驚愕を隠し切れない。
「僕は、たった今、君を殺めようとしたんだぞ」
吐き出すように言う。
ガーネットは首を振った。
「後ろから抱きしめただけだわ。あなたの心のどこかに、そんな気持ちがあったとしても、あなたはそれに従わなかった。懸命にこらえて、そしてこうして私を解放してくれたわ」
自分の言葉が相手の心にどれほどの波紋を広げたのか、ガーネットに知る由はない。だが、クジャは泣きそうな顔で、唇を噛みしめた。
「時が満ちる前に、彼らは事をおこさなければならなかった。そのためにはよりしろが必要だった」
うわ言のように紡がれる彼の言葉。
大半は唐突でよくわからない言葉の羅列に聞こえた。
「よりしろ?彼らって…彼らって誰なの?」
「僕は…僕であるために、君が必要なんだ」
「どういうこと?わからないわ、クジャ…」
なおもクジャに問いただそうとするガーネット。
が、突然、答えようとしたクジャの顔つきが豹変した。赤黒く光る瞳。顔に浮き出始める赤い線。
「クジャ…」
茫然とその変貌を見守るガーネットの細い首に、クジャの手が巻きつく。
「何を聞き出そうというのだ、聖なる娘よ」
トランスに突入しようとするクジャの声は、もはや彼のものではなかった。数千年もの時を経たような、しわがれた声。
「訊いても無駄ではないか。お前は今ここで命を散らすのだ」
その手にこもる容赦ない力に、ガーネットの首は今にも音をたてて折れそうになる。
「ク、クジャ…」
抗うこともできず、宙に吊られようとするガーネットの胸の宝珠が不意に鋭い光を発した。
目も眩むほどの閃光に、一瞬ひるんだクジャの手が首からはずれる。
そのまま強か床に叩きつけられて、ガーネットは激痛に顔を歪ませた。
「陛下!?」
その音を聞きつけたベアトリクスが部屋に駆け込んでくる。
「!貴様!」
目前の光景にベアトリクスは血の色を失う。
床に倒れ伏して咳き込む女王。そしてその前に立ち竦むトランス寸前の男。
ブラネ女王が健在のころ、よく城に出入りしていた男だ。その後の消息は夫や国王から聞いてはいた。そして先日のミコトの乱心も目にしていた。
だがよもやその男がこのアレクサンドリアの、こともあろうに女王の私室で狼藉を働こうなどとは、全く考えも及ばなかったのだ。
不意を衝かれた格好になったものの、すぐさま彼女はセイブザクイーンを抜き放つ。
女王の居室で帯刀を許されているのは、彼女だけだ。
腕には覚えがあったが、トランスされてしまっては、一人では太刀打ちできない。
剣を青眼に構えながら、彼女は遅れて駆けつけた部下に背を向けたまま命じた。
「スタイナー殿をここに!」
状況を見て取って顔面蒼白になった部下は、返事もそこそこに、逃げるように走り去る。
「邪魔を…するな!」
クジャの目が無気味な光を放ち、ベアトリクスの上に据えられた。だがそれで怯むようなベアトリクスではない。
はっ!と短い声を上げて、剣をクジャの上に振り下ろす。その鋭い切っ先を紙一重で避けて、クジャは不敵に笑った。
さわさわと髪が波打つ。
薄紫色の髪が次第に光を帯び始め、生き物のように蠢きながら、薄いピンクに染まってゆく。
トランスを始めたのだ。
返す刀でクジャの胴をなぎ払おうとしたベアトリクスの額に、クジャの放った炎が直撃する、その寸前、飛び込んできた男のブロードソードがその炎を一刀両断した。
「スタイナー!」
「遅れてすまぬ!」
すっと妻の前に体を滑り込ませ、幅広の体躯で彼女を隠す。それから気勢を上げてクジャに突きかかった。その隙に床の女王を助けようとしたベアトリクスの足元に、火柱が立つ。スタイナーの鋭い一撃をまたもや避けて、クジャが斜からファイアを放ったのだ。
抜群の反射神経で何とか難を逃れたベアトリクスは舌打ちして体勢を立て直した。
火柱を数本周囲に張り巡らし、彼らをガーネットに近づけないようにしておきながら、クジャは乱暴に彼女を立ち上がらせた。
そのまま体を引き寄せ、荒々しく唇を重ねる。
圧倒的な炎の熱と光の中に埋もれて、二つの影が一つになった――と、見る間に細い方の影がもう一つの影の足元に崩れ落ちた。
彼女が倒れこむのを合図にしたように、音をたてて火柱が消えてゆく。
炎に阻まれて近づくこともできず、目前で繰り広げられる光景をただ手を拱いて見ることしかできなかった二人の剣士は、炎の勢いが衰えたと見るや、一気に倒れ付した女王に駆け寄った。その二人を嘲うように、クジャの体はふわりと宙に浮かんだ。
不思議なことに、つい先ほどまで赤かった髪も瞳も、平生の色に戻っている。
あっという間にトランスが解けたのだ。
実際には「解けた」のではなく、「解いた」のだが、そんなことを斟酌する余裕は二人にはなかった。ベアトリクスがガーネットを助け起こし、スタイナーが宙に浮かぶクジャを追う。
「クジャ!貴様、ガーネット様に何をした!?何ゆえこのようなことをするのだ!」
構えたままの剣に映るクジャの表情は、哀しみと苦悶に彩られていた。スタイナーは釈然としない想いを抱えてその彼を見上げる。
「…ジタンに伝えてくれ。ガーネットの目を覚まさせたかったら、僕を探しに来い、と。僕は、僕たちの故郷にいる。そこで、待っていると…必ず、伝えてくれ」
ひどく淡々と、クジャは言った。
「何を…世迷いごとを申しておる!姫様に何をしたのだ!言わぬか!!」
「毒を…飲ませた。解毒は僕しかできない。猶予は次の新月までだ。必ず、そう伝えてくれ、スタイナー。頼む」
支離滅裂だ。
スタイナーは思った。
あまりに違いすぎる口調と表情…。
まるでこの男の中に二人の人間が存在するようだ。
トランスの時の彼と、普段の彼と。
トランスをしただけで人格まで替わることなどありえないことを、自身もトランス能力を持つスタイナーは良く知っている。
だとしたら、やはりこの男の中にはもう一つの人格が生まれているのだ。
この男は、そのもう一つの人格を騙し騙しここまで赴き、わざわざ事を荒立てたのだ。――ジタンをおびき寄せる、ただそのことだけを為すために。
「何が、目的なのだ。ジタンをおびき寄せて、何をしようというのだ!」
スタイナーの叫びは悲鳴に近かった。
クジャはそっと目を閉じた。
それ以上彼は何も言わなかった。
すっと、音もなく彼は窓の外に移動し、そのまま冷たい夜の空気に溶け込んでいく。
バルコニーまで駆け出してみたものの、もはや追うことも適わぬスタイナーは歯噛みする。
月が両極に最も離れて位置する真中日の夜。
スタイナーは空を睨みつける。その後ろで、膝に意識を失ったガーネットを抱いたベアトリクスが、声もなく夫の背を見つめていた。
紫色に滲む光が、静かにアレクサンドリアの町並みを照らし出す。
王宮の騒擾など知るべくもなく、穏やかに街は眠っていた。
次の新月まであと半月。
それは、泡沫の如き束の間の平安だった。
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