昏々と、ガーネットは眠りつづけた。
彼女を診察した侍医は、はかばかしくない表情でベアトリクスとともに寝室を出てきた。
「手の施しようがございません」
首を振りながら彼は言った。その額に徒労感が滲む。
「心の臓が随分弱っておいでです。呼吸も浅い。しかも、間隔がまばらです…。確かに、持って後半月でしょう」
「何の毒かわからないのであるか!?」
スタイナーがにじり寄る。
侍医は溜め息混じりに再び首を横に振った。
「判れば対処のしようもございます」
「…いかにも」
肩を落としてスタイナーは引き下がる。彼は壁際まで下がると、手に血が滲むほど強く壁を叩いた。
「スタイナー…」
ベアトリクスが夫の背に手をかける。
「ジタンは、出立間際にわしに頼んだのだぞ。女王陛下を護ってくれ、と。あやつがわしに頭を下げたのだぞ。それを…」
悔やむ彼の言葉をベアトリクスが静かに遮った。
「あなたがご自分をお責めになるなら、私はもっと自分を責めねばなりません。王宮の警護は近衛隊を統べる私の責務です。私の不行き届きがこの事態を招きました」
「ベアトリクス、自分は…」
慌てて言い繕おうとするスタイナーに、ベアトリクスは笑って見せる。
「けれど、懺悔の言葉をいくら並べたとて、事態は改善いたしません。今はこの状況をいかに打破すべきかを考えることが先決でしょう。悔いるのはそれからでも遅くないはずです」
よどみのない口調。
スタイナーは妻の精神の強さに感服する。
「…その通りであるな」
そして彼もぎこちなくはあるが、精一杯の笑みを浮かべてみる。
「それに、なにより陛下のお腹のお子が無事でしたもの」
侍医の診察が終るや、真っ先にベアトリクスが確認したのはそのことだった。「大丈夫」との返事に、彼女はその場に崩れ落ちそうになるほどの安堵を覚えた。最も気にかかっていたことだったのだ。もしお腹の子供に何か異常でもあれば、ガーネットの命が助かったとしても、その心は救い難いに違いなかった。
「あとは、どのような手はずを講じるか、です」
スタイナーは頬を引き締め、そうであるな、と呟いた。どうにかしなければならない。だが、名案は浮かばなかった。
「まずは、ジタン殿に一報をお入れになることですな」
扉の開く音がして、彼らの背後から小柄な人物が姿を現した。
「トット先生」
医師の診察があっている間に、スタイナーが呼びにやらせていたのだが、彼はすっかりそのことを失念していた。
「まずは城にお帰り頂いて、それから今後の手立てを考えませんと」
「しかし、今どこにいらっしゃるか…」
「ダリの村の民がトレノに避難しているという噂をご存知ですかな?」
「ダリの民が?」
トット先生は眼鏡を外して懐から出した布できれいに拭った。
何か考え事をする時の彼の癖である。
「トレノに私が赴きましょう。そこで待てば、おそらく陛下にお会いすることができるでしょう」
悠長ではあったが、徒に探し回るよりは確実だと思えた。
「では先生…お頼み申します」
スタイナーは深々と頭を垂れた。
別れ際のジタンのつらそうな顔がその脳裏を過る。
あやつは――ここに心を残して行ったのだ。 だのに…。悔やむまいと思っても、詮無い事だと判っていても、どうしても去来する想いに蓋をすることができなかった。
ベアトリクスは唇をかんだ。
夫の想いが手にとるように判るのだ。そして――その悔悟の念は、彼女のものでもあった。どんなに言葉を弄したとて拭い去れぬ罪悪感。
「矛先を違えてはなりませんぞ」
二人の心中を察してか、部屋をさりしなトット先生は彼らを振り返った。
「ご自分を責められても何の足しにもなりません。今悩むべきは、敵が何者か、そして我らが何を為すべきか、です。今この国を支えられるのは、国王陛下、女王陛下の盟友であらせられる御貴殿のみなのですぞ。くれぐれも…違えてはなりません」
一旦上げかけた頭を、スタイナーは再び深く下げた。
涙に歪む顔を見られたくなかったのである。
トット先生にも、そして妻にも。
ジタンの強烈な一撃が怪物の腹に食い込んだ。
断末魔の叫びを上げてのた打ち回る魔物。その悶え苦しむ姿に、ジタンの内側がざわつく。何かがじわりと心の縁を這い登ってくるような奇妙な感覚に襲われて、彼は思わず片膝をついた。
トランスしようとしている。
己のうちに溜め込まれたエネルギーの瞬時の放出、トランス。
その状態に至るほど彼は高揚していない筈なのに、なのに「それ」は無理やり発現しようとする。
と、のたうっていた魔物の体から突如燐光が発し、鱗が白輝色に染まり始めた。それとともに背中に大きな瘤が盛り上がる。その瘤は見る間に腫れ上がって、ばっくりと劈開した。その裂け目から、大きな翼が現れる。
「翼竜…?トランスしたのか!?」
信じられない。
トランスするモンスターなど、今迄どこにもいなかった。
が、狼狽している時ではなかった。ジタンは自分の体も白赤く発光し始めたことに気づく。
彼の意識の統制の利かぬところで、トランス能力が暴走しようとしているのだ。
己の中の闘争本能が刺激され、今目の前で復活を果たそうとしている化け物を、完膚なきまで叩きのめし殺してしまいたい衝動が全身を駆け抜ける。
危険だ、とジタンは思った。
このままでは自分の意識すら制御がきかなくなりそうな気がした。
その躊躇いが、隙を生んだ。
避ける間もなく、目の前が赤く染まった。
翼竜の口から吐き出された紅蓮の炎が、ジタンの全身を包んだのだ。
直撃だった。
肉の焦げるにおいが漂う。
全身にひどい火傷を負ったジタンは、立っていることができずによろめいて膝をついた。
翼竜が大きな翼を羽ばたかせ、ジタンの頭上に移動した。狙いを定めてその鋭い爪で獲物を仕留めるつもりなのだ。
そうと判っていても、もはやジタンは身動きができなかった。
凄まじい激痛が全身を襲う。気が遠くなりそうなほどの痛みだった。
分厚い皮の手袋のおかげで手の先だけは火傷を免れていた。もう一度しっかりオリハルコンを握りなおし、ジタンは翼竜が襲い掛かってくるその瞬間を待った。カウンターをかける。動けない彼に取れる戦法はこれしかなかった。
だが、彼が思ったよりも、トランスしたモンスターの動きは素早かった。急降下してくる爪を避けきれず、彼の肩が鮮血を吹いた。
掠め飛んだ翼竜は上空で方向転換し、再びジタンに襲い掛かる。
そのときだ。横合いから何かが翼竜の胴に突き刺ささり、その体を吹き飛ばした。
円月輪。
驚くジタンの体を、聖なる白い光が包んだ。瞬く間に彼の傷が回復してゆく。
まさか。
ジタンは沸き起こる予測に胸が締め付けられそうになる。
まさかダガーがここまで…!?
だが、彼のその半ば期待に満ちた予測は、残念ながら外れだった。
「ああっ、ダガーと思ったんでしょう!」
なんだ、というあからさまな落胆を浮かべているジタンを見て、姿を現した紫色の髪の少女は早速突っ込みを入れる。
「せっかくエーコが駆けつけてあげたのに、その失礼な態度ったらないわ!信じられない!」
「…相変わらずなんだな、エーコ」
呆れながら、しかしジタンは笑った。
「恩に着るぜ。助かった。感謝する!」
「しつこいと、ありがたみがないわ!!」
「お前ら、ゴタクを並べる暇があったら、こっち来て手伝え!」
いつの間にかジタンの肩代わりをさせられて翼竜と一人戦っているサラマンダーが、額に青筋を立てて怒る。
「悪い!焔の旦那!」
言うや否や全回復したジタンは風のように彼の元に駆けつけ、渾身の一撃を怪物に放った。
まさに、一刀両断である。
もんどりうって怪物は地に倒れ伏した。
ブロードソードならいざ知らず、短剣でこんな芸当ができるのはジタンくらいのものだろう。
「お前も相変わらずじゃねえか。腕は錆びついちゃいねえようだな」
赤い燃え立つ髪の長身の男は、顎に蓄えた髭を撫でながら、不敵に笑った。
「ああ、おかげさまでね…。助かったぜ、サラマンダー。それと、エーコ」
「ああ!またエーコがつけたしみたい!」
頬をプーっと膨らませる少女の姿に、ジタンは声を立てて笑った。
久しぶりに笑った気がした。
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