月虹7  gekkou: written by kiki    

 トレノの街は少しも変わっていなかった。
 きらびやかな貴族の歓楽の街。かたや溢れかえる活気に満ちた下町と、さらに虐げられた貧民が逞しく暮らす町がその下層に広がっている、混沌と生気の入り混じった街。
 通りを歩いただけで耳に飛び込んでくる雑踏と喧騒。
 堅牢な城塞都市でもあるこの街の中は安全だと、誰もが信じて疑っていない。
 それはキング公も同じだった。が、さすがに殆どの領地で魔物が横行し、その討伐に余分な力を割かねばならぬ状態に陥っているだけあって、表情は重かった。
「ようこそおいでくださいました。いつもながら、突然のご訪問で…大したおもてなしもできませぬが」
 どうぞ、と彼はジタンに席を勧めた。
 あの尊大な口振も影を潜め、以前なら慇懃無礼な響きを伴ったであろう台詞も、今やうちしおれて疲弊した色を帯びている。
「いえ、ここに長居するつもりはないのです。宿も他にとってありますゆえ、すぐにお暇致します。が、一つだけお伺いしたいことがあって、参りました」
 対するジタンの言葉は丁重かつ謙ったものだったが、その口振は堂々とした風をまとっていた。
「なんでございましょう」
 運ばれてきた茶を相手に勧め、自らも場の空気を紛らすように啜る。
 ジタンはそれには手をつけず、単刀直入に切り出した。
「クジャ――という男をご存知ですね」
 ティーカップを口元に運ぼうとしたキング公の手が止まる。
 ソーサーにカップを戻して、キング公は訝しげにジタンを見た。
「それはまた…随分懐かしい名前ですな。確かに先の戦役ではあやつに踊らされましたが…それが何か?」
「最近、彼がここに現れませんでしたか?」
 くつくつと、キング公は喉の奥で笑った。
「残念ながら、姿を見かけたことすらございませんな。第一、あれだけ我らを弄しておきながら、おめおめとこの街に現れるなど…片腹痛いことこのうえありませんぞ」
 キング公の口ぶりには忌々しさが滲み出ていた。確かに狸爺で腹蔵まで読み取ることは難しかったが、さりとてでまかせを口にしているようには思えない。
「そうですか…」
 ジタンは立ち上がった。
「もうお帰りですか。せめて、茶なりと…」
「ありがとう。が、時間がないので失礼いたします。彼を探しにお伺いしただけですので」
 キング公も別段留め立てしなかった。今彼の頭の中には国家転覆の計の入り込む余地などなく、目の前の難題をいかに解決したものかという悩みしかなかったのだ。
 
 ジタンが宿にしていたのは、下町のバクーの隠れ家だった。エーコの言うとおり、タンタラスはちょうど興行の真っ最中で、この家を使っているものは誰もいない。たまに管理を頼まれているばあさんが掃除に出入りするくらいのものだ。数日滞在するにはこれで十分だった。
「食事はどうしますかね」
 ばあさんが訊ねる。良かったら作ってこようか、という申し出を丁重に辞退して、ジタンたちは街に出ることにした。
「エーコが作ってあげてもいいのよ?こう見えてもお料理得意なんだから。昔から」
「それだけは勘弁してくれ!」
 即座にジタンは真顔で手をあわせ、懇願する。
「失礼しちゃうわっ!!!」
 エーコは頬をプーっと膨らませてそっぽを向いた。
 さすがに申し訳なく思ったのか、彼は慌てて懸命に取り繕う。
「その代わり、エーコにすっげえ上手い飯をご馳走するよ。俺もサラマンダーも、この街には詳しいんだ。な?」
 彼は助けて光線を放つ目をサラマンダーに向け、同意を促す。
「…悪いが俺はここにいる間は別行動をとらせてもらう」
 だが彼の返答は木で鼻をくくるような素っ気無いものだった。
「そうよね、せめて今日くらいラニのお店に戻らなきゃね」
 珍しくしおらしいことを口にして、サラマンダーを送り出した後、エーコは振り向いてジタンを睨みつけた。
「じゃあ、さっきの無礼の代わりに、うんと高いご馳走食べさせてよね!そいでもって、ちゃんとエスコートしてよね!」
「畏まりました、お姫様」
 恭しい礼を彼女に捧げるジタン。だがその瞬間、胸の奥底が疼いた。
 昔、こうして礼を捧げた女性を思い出したのだ。
 彼女の手をとって誘拐を誓った時から、彼女との長い長い旅路が始まったのだった。
 一人残った城で、今彼女は何をしているだろう。
 ちゃんと無事でいるだろうか。
 とりとめもない想いが後から後から湧き出てきて止まらない。心の中が息苦しいほど彼女で占められてしまいそうになって、ジタンは頭を振った。
 今はそんな郷愁に縛られているわけにはいかないのだ。
「ぼーっとして、どうしたのよ。はっきりいって、もうすっごい遅い時間なのよね。こんな時間にあいてるお店なんて、いかがわしいところばかりだってお父さんが言ってたわ。で、ご馳走食べさせてくれるところなんて、本当にあるの?」
 束の間心ここにあらずだったジタンをエーコが引き戻す。
「大丈夫さ」
 ふっと溜め息とも笑い声ともつかぬ吐息を洩らしてジタンは立ち上がった。
「俺の行きつけの食堂があるんだ」

 下町の方に向かって伸びる階段の脇に、小さな路地があった。そこに間口はそれほど大きくないものの、中はわりに広々とした庶民に人気の食堂がある。出されるものはトレノ周辺の家庭料理だが、味付けが抜群なのと値段が手ごろなのでどんな時間でも賑わっていた。
「いらっしゃい!おお、ひさしぶりだね、尻尾のだんな!」
 店の親父が早速ジタンをみとがめる。アレクサンドリア在住になっても、彼はトレノに寄る度に顔を出していたので、ここでは顔なじみなのだ。
 普段なら、「いつものにするかい?」ときいてくる親父だが、今日は違った。店の奥を振り返って、こう声をかけたのだ。
「いらっしゃいましたぜ、先生!」
 先生?
 怪訝な顔をするジタンに、親父は「先生がお待ちだったんだ」と説明する。
「それって、もしかして――」
「お待ちしておりましたぞ!陛下!」
「やっぱり、トット先生か!」
 思いもかけない人にめぐり合って、ジタンは顔を綻ばせかけた。が、すぐに口元を引き締める。アレクサンドリアにいるべき人がここにいることの不自然さに気付いたからだ。
「なぜ先生がここにいるんだ」
 幾分詰問調になっていたかもしれない。
 トット先生は苦笑とも取れる笑顔を浮かべて、肩を竦めた。
「ここでは何かと不都合がございます。私の屋敷まできていただけますか。ええ、お食事は、先ほど屋敷に運ばせておりますゆえ、そちらでお召し上がりください」
 柔らかな言い方ではあったが、有無を言わせぬ強さがあった。
 トット先生が発する切羽詰った空気に気圧されたのか。
 ジタンもエーコも、狐につままれたような面持ちで、とりあえず頷いたのだった。

 ガーネットの居室にクジャが現れた。
 そして毒を飲まされ、彼女は今意識を失っている。
 その報告を受けたとき、ジタンは思わず膝の上に置いた手で、自分の膝をかきむしっていた。
「ジタン、やめて。血が出てる!」
 横からエーコが彼の手をはずそうとする。が、それをジタンは振り払った。
「置いて来るべきじゃなかったんだ。俺は…自分のことしか考えてなかった。霧と魔物の正体が知りたくて…テラに関わるかもしれないと、それしか頭の中になくて…あいつが一番危険だとわかっていたはずなのに、人に任せて離れてしまって…。俺のせいだ。俺があいつをそんな目にあわせたんだ」
「違うわ!ジタンのせいじゃないわ!」
「そうでございますよ。それに、ジタン殿。ご自分をせめても、何も変わらない。そうでございましょう?いやはや、あなた様もスタイナー様も、ベアトリクス様も、そろいも揃ってご自分に厳しくていらっしゃる。大変立派とは存じますが、それでは前には進めませんぞ。今なすべきことを、お考え下さい」
 淡々とした中に、厳しさのみなぎるトット先生の言葉が、ジタンを包む。
「今、なすべきこと…」
 確認するように、俯いたまま口の中で呟いて。そして彼は顔を上げた。
「俺はすぐにアレクサンドリアに帰る。とにかく、ガーネットの様子を知りたい」
 トット先生は頷いた。
「では、ガルガン・ルーをお使いください。そちらの方が早くお城まで辿り着けます。陛下のお乗りになっておられた飛空艇は、私とエーコ殿とでアレクサンドリアまで戻しましょう」
「ええっ、エーコもジタンと一緒に行くよ!」
 目を丸くして抗議するエーコだが、トット先生は厳しい顔つきで首を横に振る。
「なりません。エーコ殿には、私の助手をしていただきます。それから陛下、もしここからミコト殿へ、その心話というものが届きますならば、ミコト殿をアレクサンドリアまでお呼びいただけませんか。ミコト殿のお力添えも欲しいのです。真実を解明するために」
「わかった。試してみる。じゃあ、俺は、とにかく今からすぐに戻るから」
「あ、ジタン!お食事してかなきゃ!」
「ありがたいけど、食える気分じゃないんだ。じゃあな。あとは頼む!先生!」
とるものもとりあえず駆け去るジタンの視界の端に、深々と頭を下げるトット先生の姿が映った。が、それもすぐに消え去り、彼は籃中の人となった。

「もう、めちゃくちゃだわ。トット先生、アレクサンドリアに行くのなら、護衛を一人連れて行きますから」
「はい。その方がよろしいかと存じます。私の考えが大きく外れておらぬなら、これから先がアレクサンドリアの正念場かと存じますゆえ」
 エーコもトット先生のことはよく知っている。一時期、エーコの家庭教師をしてくれたこともあるのだ。そのときの先生は、朗らかで、常に優しい人だった。その人に、こんなに毅然とした部分があろうとは、エーコは思っても見なかった。
 そして、トット先生がこんなに笑わないこともあるのだと、初めて知った。
「…何か、起こるって言うの?それも…ひどいことが」
 先生はかすかに顎を引いた。
「はい。私の読みが誤っていなければ…。それを詳しく知るためにも、謎の解明が必要なのです。そしてそのためには、マダイン・サリと古代文明についての詳細を解読せねばなりません」
「わかったわ。お手伝いするわ」
 エーコが腹をくくった瞬間だった。