ガーネットは眠っていた。
幾分青ざめた唇と、名を呼んでも動かぬ体。
ジタンは人払いをすると、一人ベッドの縁に腰掛けた。
額にかかる黒髪を、優しく撫で分けてやる。だが彼の手が触れても、むろん彼女は何の反応も示さなかった。
「ガーネット…ダガー…?」
彼女の名を繰り返し、血の気の失せた青白い頬にそっと手を触れる。そのあまりの冷たさに、彼の背中を寒気が走った。
たまらず彼女の体に腕を回して抱き上げ、頬を重ねる。少しでも自分の体の温もりを彼女に分け与えたかったのだ。だがどんなに抱きしめ、撫でさすっても、彼女の体は温かくはならなかった。
彼女を放り出してしまった罰だと、ジタンは臍を噛む。
自分をせめても何もならぬとトット先生は言った。
その通りだ。そんな暇があるのなら、この現実を覆す努力をするべきなのだ。前に進まなければ何も変わらない。だが…だが、だからといって彼の中の罪悪感が拭い去れるわけではなかった。
「すまない、ダガー…俺のせいだ…」
扉一枚隔てた執務室にも、その静かな嘆きは伝わってきた。スタイナーとベアトリクスは、沈痛な面持ちでジタンを待った。誰もが己の不甲斐なさを噛みしめていた。
寝室から出てきたジタンの顔は青ざめてはいたものの、その頬にも双眸にも、涙の跡はなかった。
「すまぬ…!わしが…至らぬばかりに!」
「陛下、私の不行きとどきにて…」
一斉に低頭して謝罪する二人を制して、極力感情を廃した声でジタンは言った。
「状況を説明してくれ」
彼は城に帰着するや、すぐさまガーネットの許に直行したのだ。スタイナーとベアトリクスに見えるのは、帰り着いてから初めてだった。
ジタンは彼らを責めなかった。一言も。
「ジタン…」
「おっさん、おっさんが多分全力を尽くしてくれたんだろうってことは、判ってる。長い付き合いだ。だから、もう謝らなくていい。その代わり、ガーネットを助けるために力を貸してくれ。まず、どうしてこんなことになったのか、詳しい状況を知りたいんだ。話してくれ」
「それは、私が存じ上げております」
ベアトリクスが口を開いた。
突然ガーネットの私室にクジャが姿を現していたこと。入口はベアトリクス以下、数名の兵士が常駐していたから、彼は窓から侵入したか、あるいは忽然と部屋に出現したかのどちらかしか考えられぬこと。物音に驚いてベアトリクスが室内に飛び込んだときにはクジャはトランスしており、炎が消えて彼らがガーネットを助け起こしたとき、すでにクジャのトランスは解けていたこと…。
「毒を、飲ませたのだと、クジャは言ったのである」
スタイナーがベアトリクスの後を引き取って説明を続ける。
「そして、解毒は己しか行えぬ、であるからテラで待つ己の許へ来るようにジタンに伝えてくれと…あ奴は申したのである。…そのときにはすでにトランスは解けておった」
「まるで二つの人格が彼を支配しているようでした。トランスしたときには、声すら変わっていたのです。随分と年をとった人間の声に聞こえました」
彼らの報告を聞いて、ジタンは唇を噛んだ。
トランス状態のときに、我を忘れてしまいそうになる感覚は彼も味わった。
だが、それと何かに支配されそうな感覚とは、また別物だという気がする。彼は一体何に支配されているというのだ…?年をとった人間の声…。
「その声は…ガーランドのものとは考えられないか」
ジタンの思いつきに、スタイナーは首を振った。
「はっきりとは言えぬ。が、ガーランドと似ているようで非なる声と思われる」
「そうか…」
事件の報告は何の進展も生まなかった。暗闇の中に目隠しをしたまま放り出されたようだとジタンは思う。その思いにさらに追い討ちをかけるように、ベアトリクスが切り出した。
「戻られてから侍医の説明はお聞きになられたと思いますが…」
最も口にしたくない現実。だが、報告しないわけにはいかなかった。彼女の表情は苦渋に満ちていた。
「ああ、聞いた。手の施しようがないってね…」
やはり、ジタンは感情を押し殺して応えた。それが尚更痛々しくて、ベアトリクスもスタイナーもいたたまれなくなる。
「おぬしがテラへ行くというのなら、不肖このスタイナーも御供仕るのである!」
身を乗り出すスタイナーをベアトリクスが押し留める。
「闇雲に行動しても道は開けません。ここは、冷静に策を練ることが必要なのではありませんか。トット先生のお帰りを待って、それから動いた方がよろしいのではないかと存じますが」
ジタンは頷いた。
「クジャの言葉の信憑性もわからないからな。それがいいと俺も思うよ、将軍。――多分後半日ほどで先生も帰着するだろうと思う。全ては、それからだ」
そしてジタンは付け加えた。
「すまないけど…もう少し俺はガーネットの傍にいさせてもらう」
将軍二人は黙って拝礼し、執務室を出た。
寝室に戻ったジタンは、再びガーネットの眠るベッドに腰を下ろし、身じろぎもせずじっと彼女の顔を見つめた。
彼女の笑顔が、優しい声が、ジタンの脳裏をよぎって行く。
“おかえりなさい”
いつだって笑顔で迎えてくれた。
“もう、ジタンったら”
喧嘩しても、必ずその言葉で許してくれた。
“ジタン、帰ってきて”
最後の夜腕の中で繰り返した彼女。
“ジタン――”
光の中で彼女が振り返る。長い黒髪が風になびき、黒い瞳が優しく瞬く。彼女は笑う。まるで花のように。空に溶けて行きそうに儚く。
その黒い瞳をもう一度見るために。
もう自分がその目に映らなくても構わない。
なんとしても彼女を助けるのだと、ジタンは己に誓う。そして、万感の思いを込めて、深い眠りに囚われた姫ぎみの唇にそっと触れた。
凍るように冷たい唇だった。
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