ガーネットは執務室のソファの上で寝息をたてている彼をじっとみつめていた。
傍に寄り添うように。
彼女が一番辛かったときに、いつも飛んできてくれた彼。
アレクサンドリアが崩壊の危機にさらされ、崩れ落ちる塔で為すすべなく立ち尽くしていたあの夜、我が身を顧みず助けにきてくれた彼。その胸に縋りついたとき、予感は芽生えた。
わたしは、この人から離れられない。
背中に回された彼の腕の力強さも、見た目よりも厚く広い胸の温かさも、もはや彼女の記憶からは拭い去れなくなってしまった。
この腕も胸もなしには、その場に立っていられなくなるかもしれない。そう思えるほどに、彼はかけがえのない存在になった。
彼の全てが愛しかった。
心も、身体も。嘘をつけない尻尾も。澄んだ空の蒼を映す水面のような瞳も。眩く輝く太陽の髪も。よく響く、深い声も。人をからかう癖も、その笑顔も。
多分この世の何とも誰とも比較すらできない――比べることが無意味なくらい、大切な男性。
よくもこの人に出会えたと、どんな艱難辛苦に見舞われてもきっと私は自分の人生を寿(ことほ)げる。
ガーネットは眠る彼の金髪を優しく梳きながら、そう思うのだ。
普通ではない運命のもとに生を受け、その怒涛に翻弄されてもなお生き抜く強さを、彼女は彼から与えられた。
――ありがとう。
額にかかる光の雫のような髪をかき分け、そっと唇を寄せる。
ぐっすりと深い眠りに落ちている彼の耳には届かぬと分かっていても、言葉にせずにはいられなかった。
――ありがとう。
そして、少しだけ照れながら、呼びかけてみる。
…あなた。
自分の全てを彼に捧げ、そして彼と己が人生を重ね合わせられる瞬間を、彼女はひたすら待ち望む。
彼女が隣の寝室へ去ってゆく衣擦れの音を聞きながら、ジタンは閉じた瞼を微かに動かした。優しい指がひそやかに自分の髪を梳いた時、本当は既に目覚めていたのだ。
けれど彼はその至福のひと時を壊したくなかった。
彼女が、眠る自分に捧げてくれた一言は、彼女の本当の真心にほかならなかった。
ありがとう。
そんな言葉を身に受けられるほど、自分は彼女に何をしてあげたろう。
ただがむしゃらに生き抜くことと、ひた走ることしか知らなかった自分に、目的地を与えてくれたのは彼女の方だと言うのに。
彼の記憶にはないけれど、おそらくは遺伝子に刻み込まれているに違いない「母」の俤が、胸にしみわたる。それは熱い塊となって彼の双眸を湿らせた。
彼の存在を押し包む、彼女の慈しみに満ち溢れたあたたかさが、ありがたくて愛しくて。彼は涙に咽ぶ声を隠すために枕に顔を埋めた。
いずれ彼女にも自分の涙を見せる時が来るのだろう。そんな予感が彼の頭を掠めてゆく。
でもそれは、今じゃない。
お互いの全てを重ね、全てを分かち合う、その瞬間を彼もまた、待ち望んでいた。
婚儀は一月の後である。
後宮も王宮もそのための準備に余念なく、人々は祝福を胸にその日を指折り数える。
まるで光にいざなわれたかのように、あらゆるものの優しさがひとつの向きに束ねられているような感覚。
それはまさに、聖獣アレクサンダーの清き翼の守りを受く聖なる都に相応しい、美しい幻影だった。
かりにいま影一つ加わり、光ひとつうすらぐとせば、
かのひとの濡れ羽いろの髪に浪うちおれる、
かのひとの眉目のしずかにあかるみおれる、
その言いがたき優美を、なかばそこなうことならん。
その眉目にこそ、かのひとの思いは、曇りなく甘美にうかみいでてあれ。
思いの住みかなる胸処のこよなき清らかさ貴さは、示されてあれ。
バイロン(斎藤 正二訳)
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