君が愛しき言(2)


ジタンの出現は思わぬ波紋を巻き起こした。
爾来、ガーネットのもとに縁談が殺到したのである。
原因は二つ考えられた。一つは、大陸の情勢が少しずつ安定してきたこと。もうひとつは、穏健派の懐柔工作。
だが後もう一つ、おおっぴらにできない理由があった。
それこそがジタン・トライバルの出現である。
どこの馬の骨とも知れぬ男に、アレクサンドリアの王家の血筋と、いまだ全国土の5分の4を有する私有財産を持っていかれたのではたまらない。諸侯はそう考えて焦っているらしい。
アレクサンドロス家が所蔵していた財宝を、ガーネットは潔く手放し、国庫の補填に充てていた。いっそのこと土地も半数は売ってしまおうとしたのだが、法律で禁止されているため叶わなかったのだ。そのため、国が倒れてもアレクサンドロス家の土地は残ることになった。
だから貴族たちは色めき立っている、というわけである。
ガーネットにもその思惑は読める。
それらの縁談を一つ一つ丁寧にお断り申し上げたのだが、ここに来て困った事態が起こってしまった。
例のキング――急進派の先鋒の息子との縁談が持ち上がったのである。
国王家打倒を暗黙裡に掲げている筈のキング家である。寝耳に水と言うより、青天の霹靂みたいなものだ。誰も予想だにしていなかった展開に、ガーネットは臍を噛むことになった。
キング家の当主と子息の連名で書いてよこした書面には、次のような内容が認められていた。
いわく、
キング家はアレクサンドロス家に勝るとも劣らない名家である。
そして今現在王家を超える資産と収入を得ている。
キング家の支配するトレノはますます繁栄するであろう。
工業及び商業大国リンドブルムからアレクサンドリアの交易拠点としての意味からも、トレノを掌中に収めることは、アレクサンドリア王国に輝かしい未来をもたらすに違いない。
また、現在アレクサンドリアを覆っている嘆かわしい現状を打破するためにも、この婚姻は有益である。キング家が王家と結びつけば、急進派は矛を収めるという言質を得てある。云々…。
要するに、脅迫文である。
断ろうにも理由はなく、抗おうにも、キング家の力は大きすぎる。疲弊しきった今のアレクサンドリア王家では、太刀打ちするのは難しい。
ガーネットは絶体絶命の窮地に立たされることになった。

ジタン――。
国務卿の報告を受けるガーネットは、玉座に座ったまま目を閉じた。
いつになったら迎えにきてくれるの。あれから、もう一年近くも経ってしまったというのに。

すがるものは彼しかなく、そしてその彼は今はまぶたの裏に浮かぶ幻影でしかない。
四人の国務卿も実務面では頼りになるが、だが、彼らに言わせればこれは願ってもない良縁なのだ。確かに国家的な利害面で考えれば、濡れ手に粟の申し出と言える。
「少し、疲れました。一旦、部屋へ戻ります」
細い吐息とともに言葉を洩らすと、ガーネットはゆっくりと立ち上がった。
回廊へ通ずる階段にさしかかったとき、思いついたように彼女は頭を上げた。
「シェダ卿、ベアトリクス将軍を私の部屋へ」
そうだ。あの頭脳明晰なベアトリクスなら、私に何か名案を授けてくれるかもしれない。
藁にもすがる思いだった。

「失礼いたします」
ガーネットの私室にベアトリクスが姿を見せたのは、それから一時してからだった。
「どうぞ、こちらに入って」
打ち解けた言い方でガーネットは彼女を招いた。
翌月に、彼女はスタイナーと華燭の典を上げることに決まっていた。普段の物腰は全く変わらないが、ふとした瞬間に、匂い立つような艶やかな女らしさを見せる。
今もそうだった。かすかな微笑を口元に刷いて深々とお辞儀するその姿は、同性である自分が見ても、うっとりするほど美しかった。
稀代の名剣士。誰よりも固い忠誠心の持ち主は、いまやガーネットが本心を打ち明けられる、数少ない側近の一人となっていた。
「どうなさいました、陛下」
ベアトリクスの問いに、ガーネットは困ったように笑った。
「あなたも知っているでしょう、ベアトリクス…例の、縁談」
窓辺の椅子に座って、ベアトリクスにも勧める。
「かけて頂戴。立ったままじゃ、落ち着いて話せないわ」
「いえ。お気遣いなさいませぬよう。」
佇立したまま、彼女は律儀に一礼した。
「スタイナーとそっくりね。考えて見れば、あなたたちは似たもの同士だったのよね。昔から」
昔と言ってもたかだか十年やそこらの話なのだが。それを昔にしてしまう女王の若さが偲ばれて、ベアトリクスは苦笑する。
「そうでしょうか」
「あなたはいいわね…心から好きな人と結ばれるんですもの」
「陛下」
「単刀直入に聞くわ。…キング公爵家の申し出を、断る方法があるかしら」
「惧れながら陛下、それは難しいかと存じます」
「やっぱり、あなたも?」
「国家云々から申し上げているのではございません。陛下のお心を申し上げているのです」
「私の…?」
ベアトリクスは、光を弾くと赤に見える深い色の瞳を、真直ぐにガーネットに向けた。
「陛下は、ジタン殿をお待ちになっていらっしゃる。しかし、ガーネット様は、ガーネット様であられる前に、アレクサンドリア女王陛下なのです。そして陛下のご結婚は、アレクサンドリア王国の結婚です。ですから、申し上げます。相手が誰であろうと、ジタン殿でなければ陛下には同じ事。そうではありませんか」
ガーネットは応えなかった。だが、それは肯定と同じ意味の沈黙だった。
「ならば、アレクサンドリアの未来を見据えた選択をなさるべきかと存じます」
ベアトリクスは極力感情を取り払った声で告げた。
結婚を控えた今の自分が、こんな言葉を女王に奏上しなければならないのは、身を切るより辛かった。だが、本当にガーネット姫のことを思うなら、言わなければならない真実なのだ。
退出の旨を奏上し、ベアトリクスは立ち上がった。
立礼の姿勢をとり、口を開く。
「けれど、陛下――私個人の見解を申し上げてもよろしいでしょうか」
空の一点をみつめて、ぼーっとしていたガーネットは、ベアトリクスの声に我に返る。
「え、ええ…」
「キング家については、あまり芳しい話を耳にしません。このたびの申し出についても、裏でどのような工作を画しているか…。ですから、もしできますならば、リンドブルム大公にご相談なさることが最善の策かと」
そして去りしなに、ガーネットだけに聞こえる声で囁いてくれたのだった。
大丈夫、ジタンと言う男、陛下を決して放ってはおきはしないでしょう…。
そんな目をした男でしたから…。