君が愛しき言(5)


絶対に振り返るまい。
ガーネットは自分に言い聞かせる。
相手の顔なんて見たくもないし、自分の顔も見せたくない。
どんなに素晴らしい贈り物を惜しげもなくくれたって、そんなものに私は懐柔されやしないんだから。
そうやって頑なに決意しなければならないこと自体が、すでに相手の術中にはまってしまっていることに他ならないのだが、ガーネットにはそれが分かっていない。
王宮に漲る緊張感が、ガーネットの上に否が応でも圧し掛かってくる。
「女王陛下、お見えになりました」
恭しく報告する侍従の声が、期待に満ちた沈黙で埋め尽くされた広間に響いた。
案内されて姿を現したのは、つばの広い帽子を深々と被り、マントの襟を立てて顔を見えないようにしている、丈高い人物だった。
だが、ガーネットにはそれは見えない。…というより、彼女は一瞥だにしようとしない。
「――初めてお目にかかります」
笑みを含んだ涼やかな声。
ガーネットの思っていたような、脂ギトギトの中年男の声ではなかった。年は判別できないが、それでも若い、青年の声であることはわかる。
その声音には、幾分彼女に懐かしさを感じさせる力が宿っていて、ガーネットは急に鳴り出す胸の鼓動を抑えることが出来なかった。
「こちらを向いてはいただけないのですか?それでは口上を申し奉ることもできない」
ガーネットは俯いて、その場につき従っていた侍従に下がるよう命じた。
「口上など申し立てていただく必要はございません」
二人きりになったとたん、ガーネットはひどく冷たい言葉を返した。
くすっと、ヴァランタン・アルカンは笑った。笑ったのだ。
ガーネットは自分の言葉が相手に衝撃を与えるだろうと確信していたのに、一笑に付されてちょっとむっとする。
「そのようにむくれておいでだと、せっかくの花のかんばせが台無しですよ」
「な、馴れ馴れしい言い方をしないで下さる!?それに、あなたは私の顔なんて知らないくせに!」
自分がむっとしていることを見抜かれて、ガーネットは少し慌てる。
「残念ながら、とてもよく存じているのです、女王陛下。初めてあなたのお顔を拝見したのがリンドブルムの狩猟祭でしたか。あなたは橋の上から、お付きの兵士とともに下々の戦いを見物なさっておられた」
随分饒舌な人物だった。
「よく動くお口ですこと。おしゃべりな殿方は嫌われましてよ」
「あなたもお嫌いですか?」
「ええ。だいっ嫌い」
「では、黙っておきましょう」
それっきり、彼は押し黙ってしまった。黙るとなったら、本当に一言も喋らないのだ。
しんと静まり返ったまま、一時ほどが過ぎた――。
ガーネットは居心地が悪くなって、とうとう自分の方から口を開いてしまった。
「あなたは…なぜこうまでして私との結婚を望むのです」
「こちらを向いてくださらねば、私は何も申し上げられませんな。それに、まだお目通りの挨拶すらすんでおりません」
「私は、あなたとの結婚を承諾いたしました。けれど、あなたに私の心は渡しません。それを知っておいて頂きたいのです。ご了承くださるなら、私、振り返りましてよ」
「それはまた、何ゆえでしょう。いや、誰ゆえに、と尋ねるべきでしょうか?」
「あなたにお話する必要はありませんわ。ただ、知っておいて頂きたいだけです」
「心に決めた方がおいでになる?」
「――ええ。そう。彼以外には、私の心は渡しません。私の心は生涯…いいえ、ずっと永遠に、その人のものです。それでも、あなたはいいとおっしゃるの?」
少しの間を置いて、ヴァランタン・アルカンは答えた。
「構いませんよ」
さらっと、軽い口調で。
「さあ、私は了承しました。こちらをお向きください、ガーネット姫」
やはり、優しい明るい声音のまま彼は言った。
残念だとか、無念だとか、憤りだとか、普通ならこの展開で生じるはずの感情が全く感じられない。それどころか逆に、ガーネットを手玉にとってからかっているような雰囲気すらある。
ガーネットは不思議だった。
それがちっとも嫌ではないのだ。それどころか、心のどこかで楽しんでいる。そして、安心すらしている。
その自分の心が、自分で許せなかった。
「ガーネット姫」
促す声が聞こえて、彼女は仕方なく振り返る。
思っていたよりずっと間近に彼が接近していたので、びっくりして彼女は少し後ずさった。
一呼吸置き、改めて、相手を観察する。
帽子を深々と被っていて、しかもマントの襟を立てているものだから、顔が全く見えない。
本当は、もしかしたら、という淡い期待がどこかにあった。
だが、帽子の下から襟元にかけて流れている黒髪が、相手が彼女の期待していた人物ではないことを示していた。
「あなたの声は、彼に似ているの」
冷たさの変わりに切なさのこもった声で、ガーネットは呟いた。
「彼は迎えに来ると誓ってくれたの。その誓いを私は信じているの。だから、あなたには悪いけれど――」
言いかけた彼女の顎にヴァランタンが指を添える。
「!」
と、思う間もなく体を引き寄せられて抱きしめられた。必死で抗うが、相手の腕はびくともしない。服の上からでも、彼の体が鍛えられたものであることが分かる。
その腕も、胸も、どこか覚えがあって、ガーネットの心臓は再び高鳴り始める。
彼であるはずがないのに。なのに、なぜこんなにも懐かしい思いに胸が締め付けられるのか。頭の中が理由の分からない感情でごちゃ混ぜになって、とにかくその腕から逃れようとした時――。
「誓いを果たしにきた」
ガーネットの頬に自分の頬をぴったりと合わせて、耳元で彼が囁いた。
「迎えに来たんだ。ダガー」

次の瞬間、ガーネットは弾かれたように、彼の腕から飛びのいた。
距離をとって、相手を見直す。
ヴァランタン・アルカンと名乗った相手は、帽子を取った。それと一緒に黒い髪も取れる。
下から現れたのは、金色の髪に、涼しげな蒼い瞳。
「迎えに来たんだ」
もう一度、彼は言った。
今度は、彼自身の声で。
そして笑った。あの、懐かしい、悪戯小僧のような笑顔で。

「な…」
開いた口がふさがらない、とはまさにこういう状況のことを言うのだと、ガーネットは思った。人を馬鹿にするにも程があって、からかうにも程があって、そしてそんなことに対する怒りよりももっと強い喜びがあって…。
「ひ、ひどいわ…」
どうしていいかわからない感情が湧きあがってきて、瞬く間にガーネットの瞳が潤む。
「ごめん。でもこれは、立案者はシドなんだぜ」
ぽろぽろとガーネットの頬を涙が零れ落ちるのを見て、慌ててジタンは言い訳する。
「ひ、人のせいにするなんて、お、男らしくな、ない、わ…」
もはやガーネットは大泣き状態である。しゃくりあげるものだから、言葉が途切れ途切れになって、愛らしいことこの上ない。
「…ごめん」
言って、彼はガーネットを引き寄せた。
彼女は、今度は抗わなかった。
「な、なんで偽名なんか、つ、使うの?声色、まで使って、へん、変装までして…」
「…ごめん」
抱きしめる腕に力を込める。涙に咽ぶ彼女が、愛しくて愛しくてならなかった。
ガーネットもジタンの背中に手を回し、力の限りすがりつく。
まるでお互いの魂を重ね合わせ、一つになろうとするかのように。