kiss
kiss kiss
■first■
ダリの村に久しぶりに訪れた。
相変わらずここはのどかで、ひなびた郷だ。
ここならアレクサンドリア城も近いし、都会の喧騒からも離れられる。
そう考えたジタンが、連日の政務で疲弊しきったガーネットを慰労しようと連れてきた。
村はずれには草原が広がり、向こうに小高い物見の丘が見える。草原を吹きすぎてゆく風が村の風車をかたかた回らせ、そのちいさな音が心地よく響き渡る、静かな村の午後。
確かに、尖ってささくれだった神経を休ませるには格好の場所だった。
ただ一つの難点は、ガーネットの顔がこの国中にあまねく知れ渡っている、ということだった。女王陛下の行幸となると、いきおい出迎えの儀式も大仰になる。それでは気の休まる暇もない。本末転倒である。
そこでジタンはガーネットを変装させることにした。
昨夜一晩かけて、こてでストレートの黒髪を巻き毛に変えた。それから普段は絶対にしないような濃い化粧を施した。
そこいらの女性が同じ化粧をしたら、けばけばしくて見ていられないような厚塗りである。そこまでしなくても…と嘆息するベアトリクスとスタイナーを他所に、ジタンは一人で感嘆している。
「お前って、どんな格好しても、ほんとにキレイだよなあ」
もう勝手にしてくれ、といった感じである。
それからジタンはルビィから借りてきた丈の短いスカートをガーネットにはかせた。
「ねえ、これ、足が出すぎじゃないかしら?」
お召し替えの段階ですでにスタイナーは部屋を逃げ出していて、残っているのはジタンとベアトリクスだけだ。
途惑うガーネットにベアトリクスが眉を顰めつつ同調する。
「陛下、わたくしもそのように思…」
しかしジタンが高圧的にその言葉を遮った。
「それくらい変装しないとすぐばれるだろ!」
女性二人は冷たい目で声の主を見やる。
ジタンの鼻の下は長ーく伸びきっていて、顔に「へへへ生足」と書いてあるようなものであった。
ベアトリクスが感情を一切交えぬ声音で言う。
「お畏れながら、ジタン殿。貴方様は女王陛下のかくも麗しいおみ足を万人に曝して良いと仰せられるのですか?」
それはもう、皮肉たっぷりの最上級敬語満載である。これを俗に慇懃無礼という。
期待に満ちてぱたぱたと揺れていた尻尾の動きがぴたっと止まる。
「万人?」
「さようでございます。このお美しい肌をここまで露にすれば如何相成りますことやら…中には飢えた狼のような族もおりましょうほどに」
「やっぱ、丈の長い奴にしよう」
瞬時にジタンは意見を翻した。分かりやすい男である。
「俺以外の男に、ダガーの生足なんか絶対見せてやるもんか!」
力むジタンを見て、二人の女性は苦笑を浮かべるのだった。
もっとも同じ苦笑でも、ニュアンスは天と地ほど違っていたが。
一人は完全に呆れ果て、今一人は、その単純明快さが愛しくてならぬ様子で。
そんなこんなで準備は万端、二人は意気揚揚とダリの村に向かったのだった。
「懐かしいよなあ」
ダリの村長の家の脇を通り過ぎるとき、ジタンがふと洩らした。
「ここでビビのヒミツがわかっちまったんだよな」
彼は遠い目になる。
「あの時、私、自分のことしか考えてなくて…。ビビより、アレクサンドリアの方を優先させようとしてしまったんだわ」
今更悔いてもどうにもならぬことはよく分かっていた。だが、ガーネットはその悔恨の情を口にせずにはいられなかった。
「しょうがないさ。お前にはお前の悩みがあったんだから」
あの時と同じ。ガーネットは思う。
あの時もジタンは彼女の気持ちを思いやってくれた。すぐにでもビビを助け出したかっただろうに、待ってくれたのだ。「わかった。でもビビが危なくなったら、すぐに助けに行くからな」と。
その彼の大きな心と優しさが、あの時の自分にはちっとも分かっていなかった。本当に、自分のことだけで手一杯だったのだ。
そして…。
ガーネットはあることを思い出して、ふと顔を上げた。
「ねえ、ジタン」
「ん?」
「あの時、黒魔導士たちの運ばれる先を追ってて、樽に詰められちゃったよね」
「うん」
「でね、ずっと不思議に思ってたのよ」
「あ!あれは偶然だからな!偶然!間違ってもわざとじゃないぞ!」
「え?何の話?」
「え?って、オレがお前の胸の上に落っこちた話じゃないの?」
ガーネットの胸が見た目よりふくよかであることを知ったのは、あの瞬間だった。あれはキモチよかったよなあ。思い出しただけで口元がだらしなく緩んでしまう。
「ジタン!何考えてるのよ、スケベ!」
ガーネットが可愛らしく顔をしかめる。
「そんなこと、誰も聞いてないわよ。」
よかったあ。ジタンはほっと胸を撫で下ろす。追求されるとやばかった。実は「胸の上落ち」は、完全に意図的計画的犯行だったから。
「樽にはすぐ蓋がはめられてしまって、真っ暗になったでしょう?」
ジタンの内心なんか意に介せず、お姫様は昔語りを続ける。
「暗闇が怖くて、私、声をあげそうになったの」
だが声は出なかった。その瞬間、暖かい人肌が口元に押し付けられたから。
それがジタンのものであることは紛れも無かったが、彼女にしてみれば問題は「それがどの部分なのか」ということであった。そして当然、あの頃の彼女には、そんなことを口にする勇気は無かった。というより、そんなはしたないことを考えるものではない、と思っていた。
だが、今なら聞けるし、それに、聞きたかった。
「あの時ね、…あの…私の口を塞いでくれたのって…」
「ああ、オレ」
「うん、それは分かるの。聞きたいのは…」
「キスした」
「え!?」
「わけないだろー!んなことしたら、お前にはったおされるもん。それに唇なら感触で一発でわかっちまうだろ?」
「う、うん…」
でも、わからなかったのだ。真っ暗で、何も見えなくて、温かい人の肌で。そしてガーネットはそのとき、まだ人の唇の感触を、知らなかったから。
「声を出されちゃ困るし、かといって体の自由も利くわけじゃないから、無理やり顔を押し付けたんだ。だから、どうだったかなんて、よく覚えてないな。もしかしたら、限りなく“惜しいことした”状態だったかもな」
チョコボの鳴き声が風に乗って流れてくる。
地下の空気抜きの穴はふさがれていて、そこからは何の音も聞こえない。むろん、ビビの声も、もう聞こえることはない。
あれから随分時が過ぎたのだ。
昔と変わらぬのんびりとした野や山や空や風。
この時間の止まったような里にもやっぱり時は同じだけ流れるのだと、ガーネットは思った。
自分の上にも時は流れて、そして今はもう人の唇の柔らかさも温かさもよく知っている。ただ一人の人のものだけれど。
「じゃあ…キスじゃなかったのね。よかった」
「なんで?」
「だって…」
ガーネットの目元がぱっと赤く染まる。
「だって、初めての…は、ちゃんと初めてだって、覚えておきたいじゃない?」
「そうか?わっかんねーなあっ!」
ジタンは長い腕をい空に力いっぱい突き出して、うーんと伸びをする。
「ジタンは違うの?」
「俺?俺なんかさ、すでにファーストキスどころか何人にキスしたかすら忘れちま…」
つい。軽い気持ちでぺらぺらと。地雷を踏んでしまった。ジタンは真っ青になって、口に手を当て、恐る恐る背後を振り返る。
コオオオ〜っと剣呑かつ凍りつく空気がガーネットの上に渦巻いている。
「いや、ほら…ね?」
何がいや、ほらなのか、言ってる本人にも分かっちゃいないが、とりあえず言い訳をしようと試みる。
「何が、ね?なのよ」
当然、まったく受け入れてもらえない。それどころか氷片まで舞い出しそうな気配である。
「じ、じゃあ、俺、物見山のおっさんに挨拶してくるわ…」
文字通り尻尾を巻いて、ジタンはこそこそと逃げ出した。
村の通りを駆け抜けてゆく彼の背中を眺めながら、ガーネットはしょうがないわと溜め息をつく。こう言う人を好きになっちゃったんだもの。
そして彼女は踵を返し、村はずれの畑を抜けて、物見山への近道を辿った。
向こうでジタンと顔を合わせたら、まずこう言って困らせてあげよう。
今までの誰よりも、一番たくさんkissをして。
…って。
駆けてゆくジタンは、ガーネットがなぜそんなくだらないことに拘るのかちっとも分からなかったが、それでも彼女と今度顔を合わせたら、こう言ってあげようと心に誓っていた。
俺が一番たくさんkissしたいのは、世界でお前一人だけだから。
…と。