kiss
kiss kiss

second

 マダイン・サリで入り江に下りる道を見つけたとき、きゅっと胸を絞めつけられる感じがした。
 わたしは、ここを知ってる。
 遠い昔の記憶が蘇る。
 誰かに手を引かれて、ここに降りてきた。
 そのときも夕日がとても綺麗で…。
 そして大きな手をしたその人は、ふわりと私を抱き上げて、肩車してくれたのだ。
 エーコと同じような紫色の髪。
 その人が自分の名を呼んだ――ところで、ガーネットは目が覚めた。
 目を開けて一番最初に飛び込んできたのは、逆さまのジタンの顔。
 え?
 訝しげに目をぱちぱち瞬きさせると、上空のジタンの顔は逆さまのままで笑った。
「よかった。目が覚めて」
 その顔に安堵の色が差していることに、ガーネットは今更ながら気づく。
「え?」
 今度はその疑問符を口に出してみる。
 こうやってジタンの顔がこんな風に見えるって言うことは…。
 よほど頭のめぐりが滞っていたらしい。一つ一つ順序だてて考えていってようやく、自分が今どんな格好でいるのか思い当たった。
「ご、ごめんなさい、ジタン!」
 思わず顔を真っ赤にして飛び起きようとして――あえなく撃沈。眩暈がひどくて、すぐにまた彼の膝に頭を預けることになってしまった。
「無理だって。たった今まで気を失ってたんだからさ」
 どことなく嬉しそうにジタンが言った。
「私…どうしたの?」
 固く張った筋肉が、ガーネットの頭をしっかりと受け止めてくれている感触。やや首が疲れそうになるが、それよりもずっと強い安心感と、そして快感に似た幸福感が胸を満たしていて、ガーネットは自然に体の力を抜いてしまう。
「召喚壁から歌が聞こえてきたんだ。そのとたん、ダガーは気を失ったんだ」
「わたしが…?」
「うん」
 その後に見たのだろう夢の印象があまりに強くて、気を失った顛末を彼女はまったく思い出すことができなかった。
「えっと、で、ここはどこなの?」
 ジタンの顔がすっと視界から外れる。その後に広がるのは、ただ紫紺の薄明るい空だけだ。
「――空しか見えないわ」
「小舟の上だよ。なんだか、潮に流されちまったみたいだ」
「ええ!?」
 呑気なジタンの台詞に、ガーネットは真っ青になってちいさな悲鳴をあげる。
 外海に流されでもしたら、戻れないかもしれない。それより何より、こんなに遅くなってしまったら、エーコもビビも、スタイナーも、みんな心配するに決まってる。ガーネットは起き上がろうと体をねじった。
「まだ寝てないと無理だって言ってるだろ?」
 そのガーネットの体を優しくジタンが押しとどめる。
「だって、そんな悠長な事言ってたら、戻れなくなっちゃう!」
「ああ…」
 なんだ、そんなことか、と言わんばかりの風情に、ガーネットは業を煮やす。
 そんな彼女の心中を知って知らでか、ジタンは面白そうに笑った。
「嘘」
「え?」
「流されてるってのは、うそ。だってこの小舟、ちゃんと艫綱で結わえてあるんだぜ。それも覚えてないのか?」
「ジタン!人を騙すにも程があるわ!わたし、真剣に心配したのよ!」
 怒ってさえ麗しい頬を染めたガーネットの顔に、ジタンは身を屈めて顔を近づけた。
 息がかかるほど間近で…ジタンが目をしばたたかせる。
 ガーネットは今度は別の意味で顔を赤くしなければならなかった。
「な…何?ジタン」
 押しつぶされそうな沈黙に耐え切れなくなって、彼女は他愛も無い社交辞令的文句を口に上らせる。
「ガーネットの顔をこんな近くで見たのは初めてだな」
 もう殆ど日は落ちかけていて、辺りを包む薄暮の中ではお互いの顔立ちを確かめるのさえ難しいはずだった。
 なのになぜこんなにも、ジタンの青い瞳の美しさだけがはっきりと見えるのだろうと、ガーネットは思った。意識した途端、体が熱くなって胸がドキドキし始める。
「そ…そうね…」
 我ながら何と間の抜けた返答であることか。でも他に言葉は浮かばない。
 ジタンは思う。彼女の白磁の肌の上には自分の影が色濃く落ちているのに、彼女の輝きは一向に褪せない。どうしてこれほどこの少女は美しいのだろう。
「さっき言ったことは、覚えてる?」
 彼は囁く。
「さっきって…」
 気を失う前の記憶を手繰り寄せる。
「めおと団」
「ああ」思い出した。あまりのネーミングセンスの悪さに、それだけは強烈な印象が残っていたらしい。
「二人で…めおと団を結成…って」
「うん」
「でもね、ジタン」
「うん?」
「やっぱり、あんまりだと思うの、その名前」
「だから名前はどうだって…」
「大切だと思うのよ。ね?末永く付き合っていくものだし、…その…名前って」
 なんだか言えば言うほど自分でも予期しない方向に話がずれていっている。ガーネットは焦って、話題を反対方向に向けようと画策する。
「だから、名前のことよ?名前の」
 暮れなずむ海の上。
 潮騒の音がやたら耳につき始める。
 ジタンの顔がさらに近づいてきたせいだ。
 もう、息がかかるどころではない。息遣いが聞こえるほど、だ。
 お互いの顔が逆さまなのが、せめてもの救いだった。
 彼女の頭はジタンの膝の上に固定されてしまっていて、上空は彼の顔でブロックされている。少しでも身じろぎすれば、彼の顔が自分に触れてしまいそうで、ガーネットは緊張の極に立たされることになった。
 一瞬、ジタンのまとった空気が、いつもの明るい脳天気な雰囲気から抜き身の刀身のような鋭い雰囲気に変わる。その瞳の光が刺すようにガーネットに注がれ――そして数刻後、ふっと緩んだ。
 ジタンも身を固くしていたらしい。
 ふうっと、長い溜め息をつくと、彼は顔を離してにっこりと笑った。
「屈みすぎたみたいだ。腰が痛いや」
「人の顔をじろじろ見たりするからだわ。お行儀が悪いのよ、そういうのって。知ってた?」
 ジタンの顔が遠ざかった途端、ガーネットの禁縛も緩んだようだった。ほっとした表情で、彼女はゆっくりと起き上がった。それとともに口も緩くなったのか、彼女らしからぬ口調でお説教を垂れる。
「よく言うよ!嫌がってなかったじゃないか。それどころか、照れてたくせに」
 からかうようなジタンの言い方に、ガーネットはかっと血を昇らせた。
「なっ!…照れてなんかいないわ!冗談じゃないわ、何で私が照れなきゃいけないのよ、ジタンの顔なんてどれくらい近寄ったって平気よ!全然意識なんてしてないんだもの!」
 売り言葉、その一。かなり過敏な反応である。なのにジタンの方もいつもの余裕はどこへやら、まともに受けてちょっとむっとした顔になる。
「強がるなって」
「強がりじゃないわ。ほんとのことです!」
「へえ、じゃあ、証拠を見せてみろよ」
 買い言葉、その一。ここまでくるとすでに幼児のケンカの世界である。
「見せてあげるわよ!」
「言ったな!じゃあ、見せろよ、今すぐ!」
「いいわよ!」
 勢いよく言い返してガーネットはジタンの顔に自分の顔をくっつけた。
「ほら、平気…」
と言いかけて、彼女はそのまま硬直する。
 風のように、ジタンの唇が、彼女の唇の上をすり抜けていったから。
 頭の中は真っ白。
 何が起こったの?
 今の感触は何?
 何かが起こったのに、――はっきり思い出せない!
 ガーネットは茫然として固まっていた。
 あまりに唐突過ぎて。そして、あまりに一瞬だったから。

 数年後、彼女は死ぬほど後悔して、そしてジタンに文句を言うことになる。

 私のFirst kissを返してよ。
 せっかくあなたとの一番最初のキスだったのに、何にも覚えてないのよ。

 そのせめてもの償いに、彼が何倍ものKISSを返したことは言うまでもない。