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 ガイアの輝きを放つ蒼い月は、三十二日周期で暗いテラの月に隠れる。太古の人々はその日を月の始めとし、再び月が重なるまでを一月と定めた。そしてその基となる重なり月の日を、人々は新月と呼んだ。
明るいガイアの月の青い光輪が、テラの暗い月の縁に浮かぶ。
 それは一種幻想的な光景で、古来詩人が好んで詩に詠ったものだった。
 アレクサンドリアにおいて、年の初めの新月は言祝ぎの日である。近隣諸国の諸氏を招いて、王家も内輪での祝賀会を催す。それほど大きな規模の宴ではないために、そこに招待されることは非常な栄誉とみなされていた。そして今年もその栄誉に浴したのが、昼間の親父二人組みだったのである。
 無論、内輪とはいえその二人以外にも数々の客人が招待されていた。が、彼らは皆祝賀が終るや否や帰途についた。誰だって忙しく立ち働いているのである。のんべんだらりと休日気分で滞在し続けていたのはこの二人だけであった。
「ボスは分かるけどさ、シドは帰んなくていいのかよ」
 腰を落ち着けて一向に動こうとしない二人にジタンが問いかける。というより退去を促しているつもりなのである。
 が、彼の意向を知って知らでか、バクーは無視して窓辺に去り、シドはちらりと一瞥をくれただけで、平然と茶を啜っている。
「おっさん…!」
 いい加減にしろよ、と声を荒げようとしたところを、すかさずシドに遮られた。
「リンドブルムには有能な宰相と、有能な大公代理がいるのでな」
「エーコか…」
 うむ、とシドはひどく満足そうにうなずいた。14歳になったばかりの少女は、あの豪放な性格と果断な行動力とで、完全にシドの右腕となっていた。愛娘の成長ぶりが嬉しくてならないというその様子に、ジタンがまた毒づく。
「ったく、親ばか丸出し」
「ふっ」
 その台詞をシドは鼻でせせら笑った。
「何だよ」
 彼の意味ありげな視線を感じて、ジタンが身構える。
「お前のその減らず口がいつまで続くか見ものじゃの」
「ど、どういう意味だよ」
「ガキは、いいもんだぞ」
 横合いからバクーが口をはさんだ。
 彼は張り出し窓から身を乗り出して、天候と風向きを確認し終ると、光を背にして部屋の中に戻ってきた。
「女房がいない俺でもな、くそ厚かましい小悪魔のようなガキどものおかげで、まあ寂しくはなかったからな」
 言いながら床に放り出しておいた荷物をからう。
「ちょうど晴れ間が覗いてきたみてえだからよ、俺は一足先にリンドブルムに帰るぜ」
 本当に自分の都合しか考えていない親父である。ガーネットに一言くらい挨拶を、と口を開きかけたジタンを制するように、後ろから親父2号が声を上げる。
「そうか。ではわしももうそろそろ失礼するか」
 だからとにかく、ガーネットには挨拶を、と言いかけたら今度はバクーが
「じゃあ、お姫さんに挨拶してくっからよ」
彼の言いたかった台詞をとってしまった。
 結局何も言えぬまま、ジタンは親父二人が去ってゆく背中を見送った。
 なんなんだ、あのおっさんたちは…。
 彼ら二人が実は腹蔵あってここに長居していたことに、ジタンは全く気づいていない。だから、彼らがジタンに投げかけた言葉に含みがあろうなど、考えもしなかった。
 自分のその鈍感さを、ジタンはその後、いたく後悔することになった。

「起きて大丈夫なのか?」
 ガーネットの許にジタンが食事を運んできた。
 あの貧血を起こして倒れた日から、どうも彼女の体調は芳しくない。
 「俺が持ってく」と、渋る侍女から無理やり盆を取り上げて、手ずからここに運んできたのは、彼女の様子がかなり心配だったから。そして、
「俺が食べさせてやるよ!」
これがやりたかったからである。
 ベッドに半身を起こしたガーネットは、ぱっと頬を染めて、ふるふると首を振った。
「そんな、いいわ。自分で食べられるもの」
「とかいってさ、このごろ食ってないだろ。いっつも皿にいっぱい残してるからさ。いいって、たまには俺が食べさせてやるって!」
 とにかく「あーん」というやつがやりたくてたまらないジタンは、期待に満ちた眼差しでガーネットを見つめる。彼の可愛らしい尻尾がぱたぱたと跳ねているのに気付いたガーネットは仕方ないという表情になって、細い溜め息をついた。
「じゃあ、あの…お言葉に甘えて…」
「うん!」
 二十を超えて、落ち着きも逞しさも増してきた筈の青年は、すこぶる嬉しそうな笑顔になってベッドの縁に腰掛けた。
「普通、男の人はあーんって食べさせてもらう方が嬉しいんじゃないの?」
「もちろん!俺が病気になった時はしてもらうからな!絶対」
 いや、そんなに期待されても困るんですけど…とガーネットが苦笑する。
「俺さ、小さい頃一回だけすごい病気になったことがあるんだ」
 ガーネットの体を案じてクイナが用意した消化の良い食べ物。それをジタンがさらに食べやすいように少しずつ彼女の口に運んでやる。そうしながら彼は少し遠い目になって、昔語りを始めた。
「そん時にさ、俺、一人でアジトに寝ててさ。天井ばっかり目に入って…ああいう時って、妙にもの悲しくなるじゃないか。一人が寂しくて寂しくて…食欲もなくて。めそめそ泣いてたら、あのクソ親父がこうやって、食べ物を食べさせてくれたんだ。食欲なかったはずなのに、そうやって食わせてもらったら不思議に入って…妙にそういうの、覚えてるんだよなあ」
「…そうね」
 やさしく甘い相槌に、ジタンはちょっと胸をつかれたような顔になる。
「あの…さ」
「ん?」
「失礼」
 言うや否やジタンはガーネットに接吻けた。
 少し、長い時間。
 それから彼はちょっとだけ唇を放して、
「玉子の味がする」
笑った。
「まだ、食事中なんだもの」
 困ったような顔をして、でも首まで薔薇色に染めて、ガーネットは目の前の青い双眸を見つめ返す。
「だった!ごめんな」
 悪戯小僧みたいに笑って、それからもう一度、ジタンは唇を重ねた。深い深いキス。
息をするのも忘れるくらい長くて、ジタンの唇が離れた時、ガーネットははあ、と深呼吸しなければならないくらいだった。
「早く良くなってくれよな」
 彼は額をガーネットにくっつけて、そう囁いた。
「禁欲生活がこう長いとさ、辛くって」
「もう!ジタンったら!」
 どうしてもオチをつけてしまうジタンと、それにもはや慣れっこになってしまったガーネットは、他愛のないかけあいを繰り広げながら、幸せな食事時間を過ごしたのだった。
 気がつけば、食事はきれいに食べられてしまっていた。
 よし、きっとこれで明日の晩は大丈夫だな!
 と空になった盆を持って、ジタンは嬉しそうに立ち上がって言った。「晩」に、一番力を入れて。