蒼穹をわたる風2

ここには穏やかな風が吹く。
小高い丘を緑の草が覆い、周囲には潅木が生い茂る。
その茂みの脇に、丘を包むように小さな白い花が咲き乱れていた。
「いつきても心が和むわ」
「ここにはビビがいるからな」

もう二年以上前になる。
足踏みしていた自分の背中を押してくれたビビの幻。
あの優しい瞳の瞬きを、思い出さない日はなかった。
遠い目をして大切な仲間のことを想うジタンの姿を、ガーネットはやさしい瞳でくるむ。

ガーネットにとってはエーコがそうであるように、ジタンにとってはビビが、かけがえのない“同じ魂”の持ち主だったのだ。
いつかガーネットがそう言ったとき、ジタンはちょっと言葉に詰まって、それから柔らかく否定した。
『俺は、あんなに純粋で無垢じゃない。あいつは、空から遣わされた神様の涙の雫みたいなやつだったから』
その涙はきっと、溢れてこぼれ落ちた神様の慈愛にちがいない。思い出すたびに胸を軋ませる、ビビの切ないほどの儚さと、その中に同居していた強さが二人の脳裏に蘇る。
『俺なんかどう考えても、神様の涙、なんて柄じゃないもんなあ』
そう言って抜けるような青空を仰ぐ彼の蒼い瞳を見上げながら、ガーネットは思ったものだった。
あなたは自分を知らなさ過ぎるわ。と。
口には出さなかったけれど。
いつだって真直ぐにしか走れないあなたは、どう考えたって純粋としか言いようがないのに。
そして言葉の代わりに彼女は微笑んで彼の腕を抱きしめたのだった。


「あいつがいるような気がしないか?」
ジタンの声が、ガーネットを現実に引き戻す。
「ええ」
ふわりと、ガーネットのしなやかな黒髪を揺らして、心地よい微風が吹きすぎてゆく。
顔にかかった髪を指でかきあげながら、彼女は清らかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「きっと、いつも私たちを見守ってくれてるんだと思う」
そして、誰よりも今日の訪れを喜んでくれているだろう。
それは、確かめようのないことだけれど。でも、疑いようのないことでもあった。

ジタンは丘に登って、天辺の杭に掛けられた皮の帽子を手にとった。
右横がちょっと裂けていて、それを縫い合わせた跡のある、かつて見慣れた帽子。
宝物でも扱うように、彼は大切にそれを胸に抱き締める。
今の自分を満たす幸福な時間に反比例するように、ジタンの中に湧き上がってくる苦い想い。
あの頃は前に進むのが精一杯だった。
だから、この稚い少年の心を思いやってあげることができなかった。
その思いは、いつもジタンの心のどこかにくすぶっていた。
力づけ、励ますばかりで、ビビの孤独を癒してあげられなかった。
本当は、誰よりも近くにいたはずなのに。
全てを受け入れ、そして全てを受け止め、誰よりも強い心を持っていたビビ。
あんなに悲しい道を、それでもいつも前に向かって歩きつづけたビビ。
そのビビを最後まで一人で逝かせてしまって。なのに自分だけ、こんなにも幸せになることが、許されるのだろうか。
ジタンはビビの形見に顔を埋めた。

震えるその肩に、そっと優しい手が触れた。
「ビビは、感謝していたと思うわ。いつも。ずっと」
優しい声音で彼女は囁いた。まるで、ジタンの心を見透かしたように。
「定められた運命なんかないって。自分の運命は乗り越えられるって、あなたが身を以って示してくれたのだもの。それは私にも力を与えてくれたし、同じように、ビビにも力を与えたと思うわ」
言葉を選んで、彼女は一生懸命に自分に伝えようとしてくれている。ジタンは胸が熱くなる。
「思い出して。孤独だったのはビビだけじゃない。エーコも、そしてあなたも、孤独だったのよ。そしてそれを乗り越えられるのは自分自身でしかない。孤独なもの同士が寄り添い合って、傷を舐めあっても、決して癒されはしないでしょう?でも、その孤独に一人で耐える必要はないのだって、私たちに教えてくれたのも、あなただわ」
「もういい」
口調は柔らかだったが、しかしその奥にジタンの魂の叫びが横たわっているのがガーネットには分かった。
「ジタン…」
「もう何も言うな!」
そして彼は渾身の力を込めて彼女を抱き締めた。
これ以上ガーネットの言葉を聞かされたら、必死で抑えている感情が爆発してしまいそうだった。
「ねえ。覚えてる?マダイン・サリであなたが言ってくれたこと」
彼の制止を聞き流して、ガーネットは続ける。
「泣きたい時はいつでも胸をかしてやるって。それから、あなたが泣きたい時は、私の胸を借りるんだ、って」
彼女はたおやかな白い腕をジタンの頭に回した。そうしてそっと、優しく彼を自分の腕の中に呼び込んだ。為されるがままに、彼女の前に跪く格好でジタンは彼女の胸に抱かれる。
温かい鼓動が、ジタンの耳に響く。
「泣きたい時は、泣いていいのよ…。ううん、泣いて欲しいの。我慢しないで。哀しみも、苦しみも。私に、あなたを支えさせて」
柔らかな胸に熱い湿りが沁みてゆく。
赤子のように彼は力なく彼女の胸に寄りかかった。
声を押し殺して肩を震わせるジタンの金色の髪を、ガーネットは優しく撫でて、彼を抱く腕に力を込めた。

ビビ。ビビ。
お前は幸福だったろうか。
俺はお前を幸せな気分にさせてあげたことがあったのだろうか。
いや、そうじゃない。
この涙は、そんなことのせいじゃない。
いて欲しかったんだ。
俺が、お前にいて欲しかったんだ。生き続けて欲しかったんだ。
だから、悲しいんだ。

その時。
――ここにいるよ。
光が、駆け抜けた。
ガーネットも、そしてジタンも、一瞬閃いた眩いきらめきに、思わず顔を上げた。
――ずっと、ここにいるよ。あの時だって、ジタンのそばにいたでしょう?
「ビビ!」
真っ青な空に浮かぶ、透き通る影。
光を集めた優しい瞳が、二、三度瞬きする。
――ほら、やっとぼくに気がついてくれた。
「ビビ、俺は…」
――ありがとう。
ビビの影は、今にも消え入りそうに揺れながら、伝えた。
――ずっと伝えたかったよ。ジタンに。ありがとう、って。ぼくは、ジタンに会えて、すごく幸せだった。
ビビは笑った。
――ガーネットのおねえちゃん、ありがとう。ジタンを、お願い。ジタンはすぐぼくが見えなくなるんだ。
ガーネットは頷いた。微笑んで。
「まかせて、ビビ」
空に向かって手を差し伸べる。
その手にビビの小さな手が重なる。
と、見る間にその影は空に滲んで、風に溶けていった。
――おめでとう。
優しい呟きを残して。