1776年3月21日
雪が降った。父が冷たくなって帰ってきたのも、こんな雪の日だった。
父がなくなってから、今日で丸6年が経ったことになる。
王は、常に命の危険に晒されている。父は生前よく語って聞かせてくれた。
ひとたび戦乱が起きたならば、己を安住の地において他者を危地に赴かせてはならない。
要であるがゆえに、いつ何時誰に命を狙われるかもしれないが、それは王たる者の宿命なのだ。
絶大な権力を有する者の努めだ、とも。命を張ってこそ、国の民は王に全幅の信頼を寄せてくれるのだ。だからお前も、王位を継ぐときは、覚悟の上でなければならない。いたずらに権力を貪る、愚かな支配者にだけはなるな、と。
雪を見るたびに、あの日の父の青白い頬と、その言葉を思い出す。
父が亡くなった後、母はすっかり気力を失い、それが元で病に伏した。
以降城から離れて、故郷のトレノ近郊で静養を続けている。母にはこの国を治める余力は残っていなかった。
私が担ぎ出されたのにはそういう理由があった。
僅か10歳だった私の後ろ盾になってくれたのが、リンドブルム大公だった。
父に対するアレクサンドリア国民の信頼は篤かった。庶民から大臣に至るまで、父の遺徳を偲び、私が王位を受け継げるまで手を尽くして支えてくれた。
私は自分が未熟なことを知っている。
そして、父の遺徳とリンドブルム公の後押しがなければ何も出来ない小娘だと言うことも、自分でよく分かっている。
とにかく、やれるだけやるしかない。
明日、16歳の誕生日。
リンドブルムからも、ブルメシアからも賓客がやってくる。
上手にもてなすことができるだろうか?
私の初の外交…ということになるのだろう。…とにかく、できるかぎりのことをやろう。
1776年3月22日
どうしよう。
非公式の式典も、その後の晩餐もうまくいった。
でも、私にとっては大変なことが起こってしまったのだ。
事の発端は、朝。
霧の具合を見てみようと、港に下りたのがいけなかった。
今朝は珍しく霧が薄くて、各地からの来訪者を迎えるには絶好の日和だった。
私は安心して、城へ帰ろうと門をくぐった。
そのとき、彼とぶつかったのだ。
散乱した書物の山を一緒に拾ってあげたら、彼はにっこり笑って、ありがとうございます、と言ってくれた。
私がこの国の王女であることに、まったく気づいていない口調だった。
この本の山は全部あなたが読むの、と聞いたら、もう読んでしまって、今から城の図書室へ返しに行くのだと答えた。
どうやら彼は、港の管理の一端を担っている、下級官吏らしかった。
でも、物腰は柔らかで、それに――びっくりするくらい美しい人だったのだ。
彼は本を拾うために屈んでいた私の手をとり、立ち上がらせてくれた。私より頭ひとつ半ぶんくらい、背が高かった。
すらりとした体つきで、黒い美しい髪を後ろで無造作に束ねていた。
何より印象的だったのは、常に微笑むような光をたたえた漆黒の瞳と、低く、よく通る、聞く者の心を暖かくするような声。
私は思わず馬鹿みたいにぼーっと彼に見とれてしまって、気がついたら目の前で彼がにこやかに、楽しそうに笑っていた。
「私の顔に、何かついていますか?」
優しい目と声が私に降り注ぐ。
声が出なかった。私の声なんか、恥ずかしくて聞かせられなかった。かぶりを振って、否定するのが精一杯だった。
「良家のご息女なのでしょう?こんなところをお一人で歩かれては、後でお供のものに叱られますよ」
そう言って、彼は私を城の入り口まで送ってくれた。
「今日は王女様の誕生日を祝う夜会が催されるとか。そのために、港もおおわらわなんですよ。本当はお屋敷まで送って差し上げたいのですが」
礼儀正しいお辞儀をして、彼は城の方へ歩き去る。
彼と二度と会うことはないだろうと思うと、私は胸が締め付けられるような気がした。
でも、だからといって、彼を召抱えたり、私の傍に侍らせたりすることはできない。私のプライドが許さない。
だから、それが彼と会う最後だと思うと、いてもたってもいられなくて、私は声をかけてしまった。
「あの…」
彼は、立ち止まってくれた。
かなり離れてしまっていて、私の声なんか届かないと半分諦めていたのに。
本の山を抱えて、ちょっと動きにくそうに彼は振り返った。
「送ってくださって、ありがとう――ございます」
深々とお辞儀を送る。
彼は目を丸くして、やおら本をその場に置いた。それから、私の方に戻ってきた。
「これ…、私の好きなエイヴォン卿の作品です。小品だから、持ち運びやすくて、いつも懐に入れてたんですが…あなたに貰っていただけると嬉しいな」
薄い冊子を彼は私に差し出した。
私は、文芸作品はあまり読まない。読むのはもっぱら政治や経済や帝王学についての教科書だ。だから、エイヴォン卿と聞いても、実はピンとこなかった。でも、彼が大切にしておいたに違いない、少々表紙の折れ曲がったその本は、なんだかとてつもない宝物に見えた。
多分、震えていただろうと思う。
恐る恐るその本を受け取って、張り付いた声で、小さくありがとうとつぶやいた。
「深窓のご令嬢って、もっと気取った人ばかりなんだと思ってました。あなたみたいな人もいるんですね。僕みたいな下級の役人に対しても、そうやって平等に接して下さった方は初めてです」
屈託なく彼は笑った。その口ぶりには、親近感すら漂っている気がした。儀礼を取っ払った言い方を、敢えて選んでくれてるのだと思った。
それ以来、彼の顔が…目に焼きついて離れなくなった。
どうしよう。
来賓の接待をしているときも、談笑しているときでさえ、ふと彼の面影が浮かんできてしまうのだ。
どうしよう。
私は自分の気持ちを持て余している。