1776年4月18日
よく考えたら、今まで彼の名前すら知らなかった。
ああ、何のことかというと、もう二度と会うこともないだろうと思っていた彼に、今日会うことができたってこと。
そして、名前まで教えてもらえた。
とても嬉しい。嬉しくてたまらない。
ユーベル・ヴィルクリヒ。
ちょっと異国風の名前だな。
今日、久しぶりに城の書庫に行ってみた。
彼に会わなくても彼の面影は私の中で色褪せることがなくて、気持ちが落ち着かなかったから、あの時彼にもらったエイヴォン卿の作品を物色することで気を紛らわそうと思ったのだ。
目当ての作品をようやく見つけたものの、それは書架のはるか上方に並べてあった。
背伸びしても届かない。諦めかけたそのとき、私の上にすっと手が伸びた。
軽々と本を取り出して、その人は私の目の前に差し出した。
「これでよろしいですか?お嬢様」
胸がつぶれるかと思った。
人好きのする、やさしい笑みを浮かべて、彼はちょっと会釈した。
「またお目にかかれて光栄です」
城の書庫は図書室として城下に開放されている。とはいっても、利用可能なのは貴族か城に勤める者だけだけど…。
彼はヴァイス大臣と遠い血縁関係なのだとか。家そのものは禄の低い末端の階級だと言って彼は笑った。家柄なんて気にしてない感じだった。
彼に言わせれば、
「ヴァイス大臣は自分をかいかぶって、取り立ててくれた」
のだそうだ。
城の警護を任されていたけれど、兵士という柄じゃないし、どちらかというと学問のほうが好きだから。
「だからヴァイス殿に頼み込んで、文官にまわしてもらったんだ」
港の管理はわりに暇がある。そこで、こうして空いた時間は図書室で過ごすのが日課なのだそうだ。
私たちは、しばらくの間、閲覧室でいすを並べて語らった。
とても楽しくて、幸せなひと時だった。
相変わらず私は顔を見られるのがいやで、声もあんまり聞かれたくなくて、ずっとうつむいてばかりだったし、話だって相槌しか打てなかったけど。
でも彼はそれを気にする風もなく、静かな声で、いろんな話をしてくれた。
私がこの国の王位継承第一位の王女と知ったら、この人はどんな顔をするだろう。
そうしたら、きっと離れてゆくような気がする。
この人は、地位だとか、名誉だとか、権力なんかに魅力を感じない人だ。
彼の話に耳を傾けているうちに、だんだんそんな風に思うようになった。
それは、とても好ましくて――同時に、とても悲しいことだった。私にとっては…。
1776年5月20日
人目につきすぎるのはよくない。
そう思って、書庫に行きたい気持ちをずっと抑え続けていた。
でも、とうとう抑えきれなくなって、また行って見た。
彼はいつもどおりやってきていて、そして私を見つけてくれた。
にこっと笑って近寄ってきてくれた時、私がどれほど嬉しかったか。
でも、そばにヴァイスがいることに気づいて、私はとっさに踵を返し、逃げてしまったのだ。
こんなことになるなんて。
彼はきっと気分を害したに違いない。
なんて奴だと思っただろうな…。
彼はとても綺麗な人で、それに比べて私は醜い。
さすがに王女だから、誰も表立っては言わないけれど、みんなの目が――特に貴族の女性の目が、私を哀れんでいるような色を浮かべていることがよくあるのだ。
きっと、かわいそうに、とでも思っているのだろう。
一国の女王となるべき存在。神の寵愛を一心に受けるべき存在でありながら、その容姿だけは神の恩愛からこぼれてしまったらしい。
そう噂しているのも聞いたことがある。
でも鏡を見るたびに仕方がないと思う。
どんなにきらびやかに着飾っても――いや、着飾れば着飾るほど、衣装だけが浮いてしまう。
だから自然と、上質ではあっても地味な風合いのドレスを身に纏うようになった。
(そのせいでユーベルと出逢った時も、王女と気づかれずに済んだのだから、一長一短というところかもしれないけど)
この醜さを、私は引け目に感じたことなどなかった。
確かに容姿は劣る。でも、それが人間を決めたりしない。人間の質を決めるのはその人間の内面だ。
特に王位にあるものはそうだ。と、亡き父が教えてくれたから。
国民は容姿で国王に心酔するのではない。その国王がどれほど国民を愛し、国民のためによりよい統治を行うか、それが王の価値を決めるのだ。
だから、外側など1ギルの値打ちもないのだと、父は折に触れて私に話した。
それは、私に対する精一杯の励ましだったのかもしれない。
だが、その内容は真理だと、今でも私は思っている。
思っているけれど、なぜかこのごろそれが辛くてたまらないのだ。
もう少し綺麗に生まれつけばよかったのに。
美しい貴族の娘だったら、何の躊躇もなく彼に会いに行き、彼と語らうことができるのに。
今日みたいな事があっても、こんなに落ち込まなくて済むのに。
もう彼に会えないような気がする。
きっと嫌われてしまっただろう…今まで、こんな私に優しく親切にしてくれていたこと自体が、奇跡のようなものだったのだ。ほんのひと時だったけど、あんなに優しくて美しい人と共に過ごせて幸せだった。
そう思うことにしよう。
もう、諦めよう。