Long Long ago  <4>

 




1776年6月1日

諦めなきゃいけない。そう思って、仕事に精を出していたら、倒れてしまった。
情けないけど、でもそのおかげでとんでもないことが起こった。
熱を出してベッドでうなっていた私の元へ、彼が駆けつけてくれたのだ。
最初、誰だかわからなかった。熱のせいで視界はぼやけていたし、それに、彼はヴァイスの後ろに隠れるように佇んでいたので。
ヴァイスが口上を述べて部屋を退出してから、彼はそっと私の傍にやってきた。
「ばれちゃった」
私を覗き込む彼の青白い顔を見上げて、私は言った。
彼の顔色が悪いのは、私の正体を知ってしまったせいだと思っていた。
だが、彼は形のよい唇を歪ませ、泣き笑いのような表情を浮かべて言ったのだ。
「知ってたよ」
びっくりなんてものじゃなかった。そしたら最初から彼は私が王女だと知って近づいたのか――。
「嘘をついてすまなかった。だけど、城に出仕していながら、仕えてる主の顔を知らない人間なんていないよ。だから君が僕の嘘に気づかなかったとき――なんて純粋な人なんだろうと思った。そして」
いったん言葉を切って、それから意を決したように彼は口を開いた。
「なんて自分を過小評価している人なんだろうって思った」
「過小…評……価?」
そんな風に言われたのは初めてだった。
彼は頷いた。
「自分のことを誰も知らないと思ってる。自分の容色は人に劣ると思ってる」
「それは…事実だもの」
彼は笑いながら頭を振った。
「だけど君はちっとも卑屈じゃなかった。そんなこと、君にとっては重要じゃないみたいだった。そんな女性、初めてだったんだ」
「ユーベル」
いつになく饒舌な彼に不安が募る。
「君が図書室に姿を見せなくなって、会えなくなって、僕は気づいたんだ」
――君が、大切な存在になっていたことに。
静寂の降りる部屋の中に、彼の静かな囁きがゆっくりと満ちてゆく。
「思ったより元気そうでよかった」
その空気を断ち切るように、ユーベルは明るく言って、そして私の上にかがみこんだ。額に彼の唇を感じて、私は頭の中が真っ白になる。
「さよなら」
真っ白で埋め尽くされた頭の中に閃光のように飛び込んできた言葉。
彼の口から発せられたそれは、きっとほんの小さな囁きだったに違いないのに。
彼はゆっくり身を起こすと、数歩下がって跪き、深々と頭を垂れた。
礼に則った正式な挨拶。
王女という事実が私たちの間で露になってしまえば、彼としてはこうして臣下の礼をとらざるを得ないのだ。
「王女様にはひとかどならぬご厚情を賜り、恐悦至極に存じます。この度、私ユーベル・ヴィルクリヒはヴァイス閣下よりリンドブルム駐屯の任を拝命し、明日赴くことに相成りました。つきましては王女様のお見舞いとともにご報告いたしたく、まかりこしました次第です」
凛とした、よく透る声で彼は滔々と口上を述べた。
でも、そんな言葉なんて私の耳には入ってなくて。
ただ、彼が行ってしまう、いなくなってしまうという思いだけが頭の中を駆け巡っていた。
ユーベルが立ち上がる。
ドアのノブに手をかける――。
私はたまらなくなって、ベッドから身を起こした。
「ユーベル!」
どんな声で叫んだのかなんて、まったく覚えていない。
妙な絶叫だったかもしれない。
でも、私は必死だった。身を大きく乗り出した瞬間、彼が振り向き、目を大きく見開くのが見えた。そして――目の前が真っ暗になった。

気がついたとき、私は彼に抱きかかえられていた。
多分そんなに時間は経ってなかったのだと思う。私を軽々と抱き上げて、ベッドに横たえようとする彼の首に、私は懸命にかじりついた。
行かないで。行かないで。
うわ言のように、ただそれだけを繰り返していた気がする。
私にはこの人が必要だと思った。
王女ではなく、私自身を見つめてくれる人。理解し、受け止めてくれる人。この人を、放したくなかった。

今考えると、顔から火が出そうだけど。
でも結局彼のリンドブルム行きはなくなり、もとの職務に戻ったのだから、よしとしよう。
それに、退出する折、ヴァイスが私に耳打ちしてくれたし。
彼を、近々自分の養子にしようと考えている、と。