Long Long ago  <7>

 

 


1794年9月17日

今朝、ユーベルはトレノに向かって出立した。
霧の濃い朝だった。
トレノでの滞在は一週間の予定だ。
そんなに長い間、彼と離れているのは、本当は耐えられない。
でも子供ではあるまいし、泣きごとは言えない。
口に出してしまえばそれが現実になるような気がして、どうしても言えなかったけれど、なぜか今回だけは、あの人に行って欲しくなかった。
何だか嫌な予感がしてならなかったのだ。
トレノには、王家に対して良からぬ感情を持つ貴族も大勢いる。
特にキング家の当主。
リンドブルムから密かに武器を購入し、不穏な動きを見せている。
その当主を相手に、税率の配分と建築の始まった南ゲートへの資材供給権分割の交渉をせねばならないのだ。
危険な土地だから、自分が行こうと言い出したのは、ユーベルだった。
「君を守るために、自分のできることをするだけさ」
いつものように穏やかに彼は言い、最後に私とガーネットを抱きしめてくれた。
アレクサンドリアの街の端、高原に抜ける門まで私たちは見送りに行った。
彼を乗せた飛空艇が見えなくなっても、しばらくの間私とガーネットはその場に佇んでいた。
不安に駆られてガーネットの小さな手をぎゅっと握り締める。
幼いガーネットは、その手を精一杯握り返してくれた。
私を力づけるように。


 1794年9月20日


ユーベル・ヴィルクリヒ・ティルス・アレクサンドロス
私の最愛の夫。
私の全てだった人。
私の名代でトレノに赴き、そして…
あの日の父と同じように、青白い頬をして、物言わぬ姿になって、アレクサンドリアに帰ってきた…。

あなたが…いなくなるなんて…。
私はどうすればいいの?
ユーベル…
私はどうやって生きていけばいいの?

ガーネットが私の傍らで眠る。
彼の面影を留めたその寝顔を見ていると、涙が止まらない。
ユーベル。
あなたと一緒に、私の心も死んでしまった。

ガーネット…ガーネットは覚えているわね?
父様とよく一緒に劇を見たわね?
役者よりずっと美しかったお父様。優しくて、温かくて、大きくて、皆から慕われたお父様。
お母様とガーネットだけが知っているお父様の姿を、思い出しましょう、お話しましょう。
でも…今は泣くことしか出来ないお母様を許してね。

お母様はお父様が大好きだった。
世界中で一番好きだった。
お父様がお母様の全てだった。
お父様がいなくなって…お母様の心も、世界も、崩れてゆく…。

 

 

「日記はここで終わってるわ」
顔を上げたガーネットの頬に、一筋の涙の後。
横たわったままのジタンは、そっと手を上げると、やさしくその涙を拭った。
「お母様は、優しい人だった。お父様と一緒に劇を見に行ったこと、まだ私、覚えてる。お父様も大好きだったけど、お母様も大好きだった。私を本当の娘のように愛してくれて、だから15歳の時まで、私は自分が本当のガーネットではないことすら忘れていたの」
溢れてくる涙を留めようがなくて、ガーネットはベッドの枕に顔を埋めた。
「お母様がおかしくなったのは、私の15歳の誕生日の時…クジャが、アレクサンドリアにやってきてからだった」
ためらいがちにクジャの名を口にしたガーネットは、慮るようにジタンの目を見上げ、そしてすぐに視線を外した。
「ほんとに、全く変わってしまったの。だけどね、今は、こう思うの。お母様は突然変わってしまったわけではないって。実の子どもを失って、ようやくその哀しみが癒えた頃に、今度は最愛の人を失った。それも、謀略によって。人はそんなとき、もしかしたら自分を壊すことでしか生き延びられないのかも知れない」
どん底の慟哭を乗り越えるために、ブラネの選んだのは自己破壊の道だったのだろうか。そう言えば、ブラネのとった行動は、権力への渇望というよりは、破壊衝動に他ならなかったような気もする。
クジャの言葉を借りるなら、彼はまさにその衝動の「背中を押した」に過ぎないのだろう。
「ダガー…」
「ごめんなさい、変なこと言って。でも」
がばっと枕から頭を外してガーネットはジタンを見つめた。
「私はやっとお母様の悲しさが分かるようになったの。命よりも大切な人がいなくなったらって思うと、心がひきちぎられそうになるって。あなたを――あなたを待ってた時に、ほんとに、そう思った。あなたが死んだら、私の心も死んでしまうって。勇気を出して、前に進まなきゃ、いつか別れる時は必ず来るんだから、だから頑張って前に進まなきゃって、ビビはその勇気を身をもって私たちにくれたのにって、そう思ったけど、でも、あなたがいなかったら私は生きていけなっ・…」
いきなり身体を引き寄せられて、ガーネットは言葉を遮られた。
少しの沈黙のあと、ジタンはゆっくりと唇を放した。そしてありったけの力で彼女を抱きしめる。
「ジタン…」
「約束なんて誰にも出来ない。人はいつかは死んでしまうし、それがいつ巡って来るか、誰にも分からない。でもだからこそ、今が愛しいんだと思わないか?君を守るためだったら、君に笑っていてもらうためだったら、俺はいつでも命をかけるさ。だから多分ダガーより先に死んじまうな」
悪戯小僧のようにニカッと笑って、ジタンは軽くウインクしてみせた。
「ジタン」
言い募ろうとする彼女の頭を、彼はぎゅっと胸に抱きこんだ。
「だけど、それは、俺がダガーと同じ気持ちだからさ。お前がいなくなるなんて考えられない。そうならないように、絶対、命を張って守り抜く」
多分、オヤジさんもそう思ってたと思うぜ。
胸の中で、ひとり呟く。
「でも俺は信じてる。たとえ俺が先にいなくなっても、ダガーはダガーでい続ける。ブラネのようにはならない。なぜなら、お前はブラネ女王の悲しい姿を知ってるから」

ジタンの心臓の鼓動が、聞こえる。
彼の優しさをそのまま表すかのように、それは静かに彼女を包み込む。
ガーネットは観念して、温かくて大きな胸に全てを委ねた。
二人の耳に、お互いの吐息だけが甘く響く――。

「それにしてもさ」
腕の中の滑らかな肌の感触に、なんとなく気分が高揚したのか、或いは我に返って照れくさくなったか。
ジタンはうっかり口を滑らせてしまった。
「こんな大泣きして、顔ぐちゃぐちゃにして鼻水たらしてるお前の顔なんて、俺以外の誰にも見せられないよな」

このあとのジタンの去就は定かではない。

ようやく日は傾きかけ、アレクサンドリアの尖塔は茜空に美しく輝く。
幾たびの戦乱を、数多の悲劇を、そして笑顔を――吹き過ぎて行く時をその身の内に湛えて。