春にそめし恋歌

シド9世が即位したのは16歳の時だった。
幼年から世にまたとない俊才と謳われた、非常に明晰な若者だった。
すらりとした長身で、無駄のない身体つきにすっきりとした端正な面立ち。リンドブルムはこのあまりに麗しい新大公の噂でもちきりだった。
しかもこの新大公は、前評判以上に切れ者だったのだ。
アレクサンドリアとブルメシアは先の戦役ではリンドブルムの介入によって事を収め、和平を結んでいたが、それでも関係は順調とはいえなかった。だがこの年若い大公はそれぞれの国に対して何度も働きかけ、両国の国交を復興させたのである。その過程で彼はアレクサンドリア王という友を得ることもできたのだった。

シド9世の治世は順風満帆だったが、しかし彼個人の人生となると、そうも言えなかった。
この若い大公は、ほかには欠点は何一つなかったのだが、ひとつだけ――稀代の女好きという悪癖の持ち主だったのだ。
尤も、理性にも富んだ若者だったから、不用意に手を出して取り返しのつかない過ちを犯すことは絶対になかったが、泣かした女の数は数え切れなかった。そしてそれをまた悪友と自慢しあうのだから始末におえない。…というわけで、すこぶる男前のハンサムな辣腕の立派な大公様なのに、嫁のなり手がなかったのである。それなりにつりあう家柄の貴族は、この問題行動しまくり大公に娘をわざわざ嫁がせようとはしなかった。それに嫁がせて姻戚関係を作ったとしても、代々リンドブルム大公はそんなものに囚われなかったから、あまり意味がなかったのだ。
かくしてシドは独身の侘しさをかこつことになったのだった。

彼が即位してから五年がたった。
二十歳を超えてから、彼自身より周囲の方が騒がしくなってきた。このまま放蕩を黙認していたのでは、いつ何時どこの娘に子を産ませてしまうか分からない。そうなったら、今までリンドブルムには縁のなかった世継争い問題だとか、血筋問題だとか、余計なことに頭を悩ませなければならなくなる。それはご免だと痛切に思った側近たちが、どうにかこうにか探し出してきたのが、北部一帯を支配する侯爵家の令嬢、ヒルダガルデだったのだ。
彼女は弱冠十三歳ながら、人口に膾炙する程の美姫として知られていた。
花に喩えればまだ蕾である。にもかかわらず、ぬけるような白い肌、波打つ黄金色の髪、そして澄んだ清冽な青い瞳は、見たものの心を一瞬のうちに虜にしてしまうのだ、と彼女を見知る人々は言った。
「馬鹿にするな!」
しかし、この知らせを聞いたシドは、開口一番そう言って怒鳴った。
「なんで俺の妃になる女が十三歳なんだよ!お前たちは世継が欲しいんだろ?十三歳じゃ世継もへったくれもねえだろうが!」
「そのような品のないお言葉を…」
下々の生活に慣れ親しんでいるせいだと、養育官はハンカチを目に当てる。
しどろもどろで応答できない養育官に代わって、大臣のオルベルタがシドの前に立ちはだかった。
「それもこれも、どなたのせいだとお心得ですか」
「俺のせいだって言うのか!?」
「その通り!あなた様のお年につりあう年齢の女性は、誰一人としてあなた様の妃にはなりたがらないのです。なぜだかお分かりか?あなたのその放埓な素行のせいですぞ。まことに嘆かわしい。ですがヒルダガルデ様はいまだ十三歳。事の次第はお分かりではない。ですから、早いうちに手を打って…」
「おい、それって詐欺じゃねえかよ…いいのかよ」
「お父上の侯爵には承諾を得ております。よろしいですか、これを逃せばあなた様の妃になってくれる令嬢は一人も現れませぬぞ。これが最後のチャンスなのです。だますことになろうが詐欺だろうが何だろうが、リンドブルム大公ファブール家の血を絶やさぬために、この縁談、絶対受けていただきます!」
日頃温厚なオルベルタのただならぬ剣幕に気圧されて、シドは仕方なくうなずいたのだった…。

しかし確かにオルベルタが必死になるのも無理はないのだ。
あっちこっち手を尽くして探し回って、なぜ最も地位の高い存在である筈のファブール家が頭を下げなければならないのだろうかとやや屈辱を感じつつも、主君のために懸命に花嫁候補を当たって…。しかし、当たるところ当たるところ全部断られたのだ。もちろん、女癖の悪さを指摘する、身の程を弁えない者はいなかったが、だが裏ではそれが断られる原因なのだとまことしやかに囁かれているのだから、オルベルタにしてみれば、屈辱の二乗である。
「くれぐれも、申し上げておきますが」
まだ実感が湧かず、このうるさいじいさんたちが部屋を出て行ったら、早速街に繰り出そうなどと考えていたシドの出鼻をくじくように、オルベルタは付け加えた。
「今後、夜遊びは禁止です。街に繰り出すのも、ご遠慮いただきます」
げ……。絶句するシドを尻目に、オルベルタはかすかに嬉しそうな目になって言う。
「婚礼は、ヒルダガルデ様が十四歳になられます三月後に執り行なわれる予定ですからな。それまで、十分身を清めていただきます」
「清めたって、十四歳相手じゃ何もできねーだろーがよ!」
人差し指をたてて、大臣はチッチッチっと舌打ちする。「ご存知ありませんね」
「何がだ」
「女性は十四歳にもなれば、お体のほうは立派な大人なのですよ」
「すっ…」シドは柄にもなく首まで真っ赤にして怒鳴った。
「すけべじじい!何考えてるんだよ!!変態!出てけ!変態じじい〜!!」
楽しそうにオルベルタは笑う。
女遊びが激しいと噂される若い大公殿は、実はまだ女性を知らないらしい。意外に初心で純真な一面を見て、彼は安堵に胸を撫で下ろしたのだった。

ヒルダガルデがリンドブルム城へやってきたのはそれから二ヶ月ほど後である。
婚礼の用意のために、彼女は殆ど彼女専用の特別室に篭っていた。
このところ外出を極端に制限されて不貞腐れていたシドの前に、彼女が初めて姿を見せたのは、なんと婚礼の前夜であった。

衣擦れの音だけが、響く。
足音も何もせず、緊張感の漂うしじまの中、静かに彼女は姿を現した。
ひと目見て――シドは息を呑んだ。
麗しいと言う言葉を人間にしたら、こうなるのではないか、と思った。
神々しいくらいの金髪。凛として、澄んだ瞳。固く引き結ばれた小さな薔薇色の唇。すらりと伸びた長い手足。(といっても足はドレスに隠れて見えないが)
すべてが完璧なくらい整っていた。
対するシドの方だって、丈高く、引き締まった体躯の立派な威丈夫なのだから、まさにお似合いの二人なのだが、シドにはそうは思えなかったようだ。
心臓が、口から飛び出そうだとシドは思った。生まれて初めて、彼は軽口を叩けない女性を前にしたのだ。
――緊張の一瞬。
シドの正面に立ったヒルダガルデは、臥せていた目を上げて、目の前の夫になるべき人を見た――途端、彼女は何を考えたのか身を翻して部屋を飛び出した。
呆気にとられる一同。そして誰よりもショックを受けたのは言うまでもなくシド9世その人である。
「何が起こったんだ?」
事態が掴めない彼は、茫然とその場に立ちすくむのみだった。

王子様だ。
後年、ヒルダが語ったところによると、彼女はその時こう思ったのだそうだ。
夢にまで見た、本の中の王子様がいる、と。
だから恥ずかしくてたまらなくなって、その場を逃げ出してしまったのだ。

だがこの時のシドに、そのことを知る術はない。
実は俺はモテないのかもしれない。今までモテてると思っていたのは、とんだ勘違いだったのか。
と、考えていること自体がどうも微妙にズレてる、とんだ勘違いなのであるが…ともかくも、彼は真面目に悩み、ただひたすら傷ついた胸を抱えて、人生最悪の夜を過ごしたのだった。