春にそめし恋歌(2)
婚礼は盛大に行われた。
天上の神が地上に遣わした天使かと見紛う美しい花嫁は、足元まで届く純白のベールを被っていて、なかなかその表情を窺い知ることができなかった。
その傍らで彼女の手を取る長身の若い大公は、かなり緊張した面持ちで、そっと彼女と向き合った。
祭壇の前…誓いの口付けを花嫁に贈る儀式である。
だが、向き合って、ベールを手に取った途端、昨夜の衝撃的な出来事がシドの脳裏をよぎった。彼はぴたりと固まってしまった。またもや拒絶されたり、逃げ出されたりするのが怖くて、動けなくなってしまったのである。
新郎の不審な挙動に、居並ぶ人々はざわめき出す。
退位した前大公も、気が気ではない様子で、椅子から腰を浮かせて正面の息子を伺っている。病の芳しくない前大公に代わって、花婿の付添いを果たしていたオルベルタは、苦虫を噛み潰したような顔つきでシドに歩み寄った。
(どうなさいました、若君)
ぎりぎりまで近寄って、シドに耳打ちする。
(う…動けねえ…)
正直にシドは心中を吐露する。(怖くて、動けねえんだ。また逃げられるんじゃないかって…)
オルベルタだけに聞こえるように呟いたつもりだった。しかしその声は花嫁にも届いていたらしい。
次の瞬間、またまたシドは度肝を抜かれてしまうことになった。周囲の人々も、だ。
驚いたことに、新婦は自らベールを取り払い――、いきなり新郎にキスをしたのだ。
彼の首に細い手をかけ、こちらに引き寄せながら、自分は精一杯背伸びして。
花嫁のキスを受けているシドの顔は、驚愕に目を見開いていて、とても幸福な結婚式を迎えた新郎には見えなかった…。
その可憐な唇が離れた時、彼はまだ瞬きもせず、やっぱり硬直したままその場に立ち竦んでいた。
そんな彼にヒルダは微笑みかける。少しだけ含羞んだような、少女の初々しさをとどめた微笑――。それが、やっとシドの心を溶かしたようだった。彼はふっと表情を緩ませると、にっこりと笑って、花嫁を引き寄せた。今更ながら恥ずかしくなったらしい幼い花嫁は、頬を染めて新郎の腕の中で俯いた。
まるで御伽噺の一場面のような、麗しい姫君と凛々しい若君の寄り添う姿を、人々は心からの祝福で包み、歓声を上げたのであった。
さて。
御伽噺ならここで幕を閉じるのだが、実は本題はここからである。
晴れて夫婦になったのはいいが、なんとシドはまだ幼い妻にそれから随分長い間指一本触れなかったのだ。…というのはいささか大げさに過ぎるだろうか。だがシドが彼に似合わず非常に我慢強く時の熟するのを待っていたのは事実である。
家臣たちが我が目を疑うほど、シドは変わった。
仕事の合間をぬっては彼女の遊び相手を務めるためにしげしげと帰ってくる。それはもっぱらカードゲームだったり、ダンスだったり、他愛のない話しの相手だったり…。今までの彼ならば、数刻もじっとしていられないようなものばかりだった。なのにこの体たらく。恐るべし恋心、である。
いとけない少女が頬を上気させ、楽しげに彼を見上げる、その仕草と表情を見ることがシドの至上の喜びと化していたのであった。
そんな平和で穏やかな日々が過ぎていたある日、リンドブルムの城に一人の使者が到着した。
ブルメシアの兵士である。
王の間に通された彼は、携えていたブルメシア王の書状をシドに渡し、その場に昏倒した。
不眠不休でここまでチョコボを走らせ来たらしい。それだけ火急の用件ということだ。
シドは兵士を休憩室に運ばせ、手当てを命じると共に、すぐにその書面に目を通した。そして顔色を変えた。
その報せが、リンドブルムのみなならず、ヒルダの運命をも左右する事件の発端になろうとは、まだ誰も知る由はなかった。
「どちらにいらっしゃるのですか?」
旅支度を整える夫に、やっと先日18歳を迎えたばかりの若い細君がたずねる。
彼女は知識が豊富で、年齢よりもずっとしっかりした女性だった。
彼の支度は必要以上の重装備だった。目ざとく気づいたヒルダは、何かあると察知したのだ。
彼女の気遣いをシドは痛いほど感じていた。
「ブルメシアまで足を伸ばそうと思っている」
シドももうすぐ25歳になる。街遊びが少し控えめになったせいか、このごろ物腰にも落ち着きがでてきた。余計な心配を若妻にかけぬよう、言葉を選んで慎重に答える。
「例の件ですの?ブルメシアの使者が持ってきた書状の…」
今度は彼は答えなかった。
霧の大陸には高地と低地が入り乱れて存在する。低地は殆ど霧に閉ざされる。いきおい人々は高地に住む場所を求めることになった。そのため、飛空艇のない庶民の生活は不便を極めていた。隣の町に行くにしても、一旦低地に降りて移動するしかないからである。しかも高山の連なる山脈が大陸を三つに分断している。これは同時に天然の要害ともなったが、その分三国の親交の妨げになった。
シドの父、前リンドブルム公はまずブルメシアとの交通の便を図るために、国境の山脈を穿つ自然洞窟の整備に着手した。
八世が退位した後はシドが引き継ぎ、つい前年、完成させたばかりだった。
このギザマルークの洞窟路を巡って問題が起きているらしい。
あの書状は、ブルメシア王からの懇請だった。
確かに通行の便はよくなった。が、それとともによからぬ連中もブルメシアに進入し、跋扈している。そして、それがブルメシアの撹乱を狙ったリンドブルムの差し金ではないか、と考える者も出始めている。その疑懼を独力で収めることはもはやかなわない。故にリンドブルム公の助力を求むものである。という内容であった。
だが最も気がかりなのは結びの言葉だった。
――先日、嫡子パックが、何者かにさらわれた。幸いなことに、三日後に彼は洞窟の脇の村で発見されたのだが、パックは自分をかどわかした者の名を耳にしたと言う。その名はバクー。彼らはタンタラス団と名乗り、その頭領に向かってバクーと呼びかけていたというのだ。ブルメシア国内で狼藉を働いているのも、どうやらその者達らしい。大公にはその名にお心当たりはないだろうか…。
バクー本人でないことは、問わずともシドにはわかる。柄ではないし、第一彼の率いる劇団(と称した盗賊団だが)はここ数ヶ月どこにも巡業していない。それは、ドックを一手に掌握しているリンドブルム公には自明のことであった。
とすれば、何者かが暗躍しているのだ。
そしてその背後に、それを動かしている黒幕がいるに違いない。
ブルメシアにあらぬ誣告が蔓延せぬうちに、なんとかバクーの、そしてリンドブルムの濡れ衣を晴らさなければならない。そのためにシドはブルメシアに赴こうとしていたのである。
だが、この事件の首謀者は明らかにリンドブルムに対する敵意を剥き出しにしているとしか思えない。
そして、もっと言えば、バクーの名を出したことによって、その人物は自分がシドに近しい――またはシドのことをとてもよく知っている存在であることを証したも同然だった。
ということは、シドの周囲に敵が存在するということだ。
シド、或いはリンドブルム大公への敵愾心をもって。
つまり、この旅程で彼の身に危険が迫る可能性は極めて高いと思われるのだ。故に彼は重装備を整えていたのであり、最愛の妻に詳細を語らなかったのである。
だがヒルダは、手を拱いて黙ってみている娘ではなかった。
「手紙を、見せてくださいまし」
「…ならぬ」
「そのような装備をみせられて、見過ごすわけにはいかないではありませんか。それほどわたくしがお気に召さないのですか?それほどわたくしには真実をお隠しになるのですか…」
どこまでが手練手管か判じかねるところはあるものの、結婚して四年経っても未だに妻にベタ惚れのシドは、泣きつかれただけで弱ってしまう。だが彼は迷いはしなかった。
「真実を隠すわけではない。そなたにいらぬ気遣いをさせたくないだけだ」
「あなたがお隠しになるから気遣いするのですわ。わたくしは、貴方のお役に立ちたいのです。少しでも」
「その心だけ受け取っておこう」
そう言い置いて踵を返そうとするシドの前に回り込み、両手を広げてヒルダが立ちはだかる。
「貴方はいつもそう。わたくしを、まだ妃だと認めていらっしゃらない」
「戯言を…」
「戯言ではありません!」
語気荒く、ぴしりとヒルダが言い放つ。
「認めておいでにならないから、わたくしに真実をお話になれない。わたくしを頼っては下さらない。あなたはいつもご自分ばかり矢面に立たれて、いつもその背中でわたくしを守ろうとする。でも、貴方の背中しか見られないわたくしの心を考えて下さったことがありますか」
「ヒルダ…」
彼女の言葉は揺れない。しっかりとした語調で真直ぐにシドを見据えている。
だがその白い頬を涙が零れ落ちているのに気づいて、シドは言葉を失う。
「あなたはわたくしをいつまでも子ども扱いなさって、わたくしに指一本触れようとなさらない。わたくしを大事にして下さっているのは分かるわ。でも、愛してくださってはいない。それでもよいのです。貴方がどう思ってらっしゃろうと私には関係のないこと。でもわたくしは、自分の思いに正直でいたい。わたくしは貴方が好きです。初めて貴方にお目にかかったときから、貴方が好きです。ですから、せめて――あなたのお役に立ちたいのです。なぜその気持ちまで踏みにじろうとなさるの」
目に涙を溜めながらもよどみない彼女の言葉が、抑えに抑えてきた彼女の真実を語っていた。
シドは応える言葉をもたなかった。
結婚して四年が経った。いつの頃からだったのだろう、彼女がこんな風に思い始めていたのは。それに気づかなかったのは、まさに彼女の言う通り、彼女を子供だと頭のどこかで思っていたからだ。いや、思い込もうとしていたのかもしれない。彼女はシドにとっては眩し過ぎた。手を触れたとたんその花が散ってしまうような気がして憚られた。
だが、心の中で思っていただけでは、当然相手には伝わらない。そのことを失念していた自分が歯痒かった。
「ヒルダ」
手にした荷物を彼は床に置いた。
それから手を伸ばし、自分の前に佇む妻を抱き寄せる。
言葉をいくら重ねるよりも確かに、気持ちのすべてを伝える方法を彼は選んだ。
出立は少しばかり遅れるだろう。
しかし、今は彼女の方が大切だった。
静謐な空間に切り取られた丸い天窓からのぞく蒼と赤の双子月。
これから二人の先行きに立ち込める暗雲でさえ、今この瞬間の深く、静かな歓喜を妨げることはできなかった。幾年月もの時の降り積もった想いを、二人は全て、瞬きの刹那に燃やし尽くそうとしているかのようだったのだから…。
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