春にそめし恋歌(3)


シドは翌日の夕方、ブルメシアに向かって出立した。
バルコニーから夫の乗った飛空艇を見送って、ヒルダはいそいそと自室に戻ってきた。
それから彼女はしばらくベッドの下を探っていたが、やがて小さなトランクを見つけ出した。埃をはたいてそれをベッドの上に放り出す。口金をあけると、彼女が侯爵家から持ってきた本やら小さな玩具のアクセサリーやらが溢れ出てきた。
中身を全部、部屋の隅にある卓の引き出しにぶちまけ、トランクを空っぽにして彼女はやおら荷作りを始めた。誰にも気づかれぬよう、細心の注意を払いながら。


貴族のご婦人たちは噂好きである。
夜会や宴遊会などが催されるたびに他愛もない話に花を咲かせる。
どちらかといえばヒルダはそんな愚にもつかぬ話は嫌いだった。が、大公妃という立場上、彼ら上流貴族のご婦人たちの相手を務めないわけにはいかなかった。
ただ、ひとつだけ余得があった。やくたいもない彼女らの話の端々に、現在の貴族たちの思惑や状況が顔を出すのである。おかげで貴族たちの裏の動向に関しては、大公よりもヒルダの方が精通しているかもしれなかった。
その中で仕入れた一つの情報が、ヒルダの胸に引っ掛かっていたのだ。
ヒルダの実父、プリングスハイム侯爵は、盟主リンドブルム大公に忠誠を誓う大貴族である。元来不器用な堅物で、北部の自領では民衆から絶大な信望を得ていたが、南部の大公お膝元の諸侯からは少々煙たがられていた。歯に衣着せず、しかも私利に拘ることなく大公に苦言を呈することのできる侯爵の口から、いつ何時自分たちの立場を揺るがす真実が暴露されるとも限らないからである。しかもどんなおもねりも媚びへつらいも通じない。というわけで、彼にはかなり敵が多かった。中には、プリングスハイム候の失脚を企てる悪辣な輩もいた。
そのうちの一人、リンドブルムの沿岸地域の港町を支配しているベルンハルト・ロンベルク卿が、裏で良からぬ画策を施している旨の情報を得たのである。

船は最も確実に大量の物資を輸送できる手段であったが、大都市は全て高地に集中しているため需要はあまりない。またリンドブルム巨大城にも港は設置されていたので、ほとんどがそちらを利用していた。当然港町の人々は漁業で身を立てるしかなく、また霧のせいもあってか治安も決してよくない街が多かった。
そのためロンベルク卿は中央部への領土拡大を果たしたいのだが、リンドブルム大公の絶大な権力で統治されているこの国では、領域を侵犯することは不可能であった。
最後の活路として彼が見出したのが、トレノ=リンドブルム間を結ぶ南ゲートの建設計画だった。
リンドブルム城脇に居を構える侯爵は、地の利を生かして建設を一手に引き受けたかった。
しかし、どうやらリンドブルム公はプリングスハイム侯爵にその工事を依嘱する腹積もりらしい。
それは、ギサマルーク洞窟路の整備工事の経験を買ってのことだったのだが、ロンベルク卿はそういう風に受け取らなかった。
代々のリンドブルム大公は、妃の眷属を優遇したりすることは決してなかった。それが癒着を生み、利権を巡る争乱を生むことを知っていたからである。
だが、今度の大公は、それを無視して妃の係累を重用するつもりだ、と彼は思ったらしい。
そこで密かにプリングスハイム候とリンドブルム大公に対する叛逆を企てている――というのだ。
むろん力の差は歴然としている。
表立って彼が戦をしかけることは絶対にない。その代りに、彼は地下での蠢動を開始した…。
この情報の真偽の程はわからない。だが、確かめる価値はあるとヒルダは思った。
そこで荷物をまとめて、ひとまず実家のプリングスハイム家に戻り、そこから貨物飛空艇に同乗させてもらってロンベルク領まで赴くつもりであった。

その頃、ブルメシアに到着したシドは、王との会見もそこそこに、すぐ城下に潜り込んだ。むろん偽名を使い、変装しての潜入である。
大公自らそんな危地に飛び込むような真似をしなくとも良いのだが、これはシドの一つの趣味みたいなものだった。再三オルベルタが諌めても、一向に聞き入れようとしない。最近では宰相も諦め気味だった。
無論、この国では彼をとどめるものはいなかったから、好き放題存分に暴れられる!と、実はシドは内心ウキウキしていたのだ。

ブルメシアは低地に位置する数少ない城下街である。
元来打たれ強くて前向きな国民性だったから、少々の霧では精神を病むことがなかったせいだろう。
だが霧で太陽光はよく遮られた。その上雨が多く、為にこの街は「蒼の王都」と称された。

情報収集はまず盛り場から、というのはもはや常識である。
例に漏れずシドもまず歓楽街に足を向けた。…とはいうものの、生来の女好きの虫がムズムズ動き出しているだけ、と言えなくもない。
酒場の女たちを手玉に取るのなんてシドにとっては朝飯前だった。たとえネズミ族の女性相手でも。
それにしても、人間の姿が多い。
ブルメシアはリンドブルムに比べれば閉鎖的で、しかも陸地の孤島のような場所に位置していたから、どちらかといえば単一民族的な人口比率だったはずだ。ネズミ族がほとんどを占め、何人か仕事でこの街に訪れた人間がいる――それが従来の様子だった。
だが今シドの目の前の街は、半数近くを人間が占めているように見えた。

「あんたも仕事かい」
開き戸を押して突然現れた人間の男が、酒臭い息をシドに吐きかける。ジョッキを持った片手を高く差し上げて、彼はリンドブルムに乾杯、と大声で喚いた。
「あんた、リンドブルムの人か」
シドは酔っ払って足元もおぼつかないその男の身体を支えて、なんとか店の中に連れ戻し椅子に座らせた。
「ああ、そうよぉ、リンドブルムのヤーコプっていやぁ、ちょぉっとは知られた名よぉ〜」
「すまないねえ、お客さん」
年嵩のネズミ族の女が、流し目をくれながらシドに近寄ってくる。どうやらこの酒場の女らしい。彼女は酔っ払ってテーブルに潰れている男を虫でも見るような目つきで見下ろし、
「最近この手合いの人間が多くて困ってんのさ」
唾棄するように言った。
「一体どうしてこんなに人間が流れ込んでるんだ?」
「ギザマルークの洞窟のせいだよ。あそこが開通してから、人間が増えて困ってるんだ。まったく、リンドブルム大公は余計なことをしてくれたんもんさ。あそこを使うのは人間ばかりだ。この国の人間は、この国から外に出やしないんだから」
それは確かにそうだった。
ブルメシアの民は閉鎖的だし愛国心――というか愛地心が強い。なかなか郷里を出て異郷に行こうとはしない。だからこそ、ブルメシア王と前大公はあの洞窟を開通させたのだ。少しでも、物と人間の流通を図るために。だがその思いは裏目に出ているようだった。
「こいつのこと、あんたよく知ってるのか」
女があまりにも嫌悪感を露にして酔客を見下ろしているので、思わずシドは訊いてしまった。
「よく知ってるも何も、こいつらが…」
言いかけて、女は疑わしそうな目つきを今度はシドに向ける。
「あんたも仲間で、あたしに探りを入れてんじゃないだろうね」
「まさか。俺がそんなに悪人に見えるかい?」
自信満々でシドは女にウインクする。だが、女の表情はピクとも動かない。値踏みするように上から下まで睨めつけて、
「わかんないね。人は見かけに寄らないから」
素っ気無く言うと、店の中に引っ込んでいった。
自慢の「ウインク一発可愛い青年攻撃」が功を奏さなかったことに、シドはちょっとショックを受ける。
だが落ち込んでいる暇はない。気を取り直して次の店を当たることにした。
その時である。
目抜き通りの雑踏に、絹を引き裂くような女の悲鳴が響き渡った。
シドはその声の方に駆け出した。
広場の中央。ネズミ族の少年が、背後にネズミ族の少女を庇って槍を構えている。
柄の悪そうな人間の男連中が、手に手に得物を携えてその二人を取り囲んでいた。よくもまあこれだけ取り揃えたと感心するくらい、全員が見るからに悪人面している。そのうちの一人が奇声を上げながら長剣で少年に斬りかかった。
少年は慌てる風もなく、長槍で軽くそれをいなす。勢いをつけすぎていたせいで、男の身体はつんのめって前に倒れた。見物客から笑いが漏れる。それが男達の感情を逆撫でしてしまった。
「やっちまえ!」
その声を合図に、一斉に襲い掛かる。
衆寡敵せず、多勢に無勢である。すわ手助けすべしと走り出しかけて、シドはふと足を止めた。
次々に、男達が切り伏せられていっているのだ。切り結ぶ、といった段ですらない。男達の無駄に大きな得物をかいくぐって身軽に立ち回る少年は、その槍の柄を使って実に手際よく、相手を殺さぬように叩きのめしてゆく。
追い詰められた男たちは、苦し紛れに少年の背後に庇われていた少女を捕らえた。
少年の顔色が一瞬変わる。
「槍を捨てろ!」
いかにも悪人の台詞である。それが同じ人間族だと思うと、シドは何だか恥ずかしくなって見ていられなかった。
対する少年は、いかにも颯爽としていて、凛々しくて、カッコいい。ふっと笑って、仕様がないという風に槍を手放そうとする、その仕草さえ絵になるのである。
「フラットレイ様!だめです!こやつらの言うことなどきいてはなりませぬ!」
羽交い絞めにされた少女が泣きそうな声を上げた。つぶらな、青い瞳を縁取る長い睫が涙に濡れている。
少年が少女を見る。
心配するなと、笑みを含んだ目が語っている。
敢えて形にはせぬその想いを少女はしっかりと受け取って、彼を信頼する証にうなずいた。
その少女に頷き返すと、少年は槍を手放した。
槍が少年の手を離れたと見るや、残った男数人が一斉に彼に襲い掛かる。
その刃先を閃光のような剣の軌跡が払い落とした。
「な、何奴!?」
定番の台詞で誰何する悪人たちに、ここぞとばかりシドは格好をつける。
「あいにく、お前らに名乗る名前は持ち合わせてねえんだ。悪いな」
言うや否や斬りかかってくる男達の剣を弾き落としながら、彼は素早く少女を捕らえている男に駆け寄り、その喉元に剣を突きつけた。
「その娘をどうにかしてみろ。この剣がお前を貫く。俺はその娘とは関わりがねえ。だからお前がその娘を殺そうがどうしようが痛くも痒くもねえんだ。かえって、殺す大義名分ができて嬉しいかもな。さあ、やれよ。どうした?」
脂汗を流しながらのけぞる男の手が緩む。その隙をついて逃れた少女は、地面に転がった少年の槍を拾い上げて少年に投げ渡した。少年の手に槍が戻ってくるのと、シドの背後をついて悪人の一人が剣をつきたてようと走りこむのがほぼ同時――。
ひゅっ!
空気を切り裂く鋭い光と音が走った。
瞬き程の間のあと――。
シドの背中の一寸前で刃は停止し、男の身体も凍りついたようにその場に固まっていた。
しゅっと、風を切って槍が一回転する。少年が慣れた手つきでその槍を背に戻すのを合い図にしたように、男の体がゆっくりと傾いで、地面に倒れた。
一瞬の沈黙の後、大歓声が沸き起こる。
「さすがフラットレイ様だよ」「いやあ、お強いとは聞いていたけど、あれほどとはねえ」
観衆が口々にフラットレイという少年を賞賛するので、シドは内心ちょっと不服だった。俺だって活躍したのにさ。などと胸の中で愚痴っていると、先ほどの酒場の女が腕にしなだれかかってきた。
「あんた、カッコいいじゃない。見てたわよ。正義の味方みたいだったわ」
「そう?やっぱり?見る目がある女は違うよなあ」
この調子の良ささえなければ立派にカッコいい男なのだが、本人は全く自覚がない。
そのシドに、くだんの少年フラットレイが、少女を伴って近づいてきた。
彼の目がかすかに急いている。
「ありがとうございました。おかげで助かりました。もっときちんとお礼を申し上げたいのですが…」
言葉を切って、彼はちらりと辺りに倒れた男達に目をやった。
「少々面倒なことになるかもしれませんので、早々に失礼します。その方が多分貴方にとっても良いでしょうから」
少年は微かに目を和らげた。
確かにどうも面倒くさいことになりそうだが、言葉とは裏腹に、少年には少しも困った様子が見られない。
例えて言うなら初夏の風だ。と、シドは思った。
この少年の身に纏っている爽やかさといったら、男の自分でも惚れてしまいそうだ。
「これも何かの縁だ。手助けしたい。だいたい、何で君達のような子が絡まれてたんだ?いや、その前に、なぜこんな場所にいる?」
どう見ても目の前の少年少女は市井の者ではない。物腰といい、着ているものといい、先ほどの立ち回りといい…。矢継ぎ早なシドの質問に答えたものかどうか、訝るように少年はシドの目を見た。が、彼は最終的に自分の直感を信じることにしたらしい。
「ここではあなたのご質問にはお答えできないな。でも、せっかくのお申し出です。お力を、お借りすることに致しましょう」
その言葉に、慌てて少女が少年の袖を引っ張る。
「確かにこの方にわれわれは救われました。だからといってそのようにむやみに信じてよいのですか?フラットレイ様…」
「フライヤ、見たところ悪い人ではなさそうだし、それにわれわれにはいずれ人間の力添えがいる」
優しく少女を見下ろして少年が言った。それから顔を上げ、シドに向かって
「ひとまず私の屋敷へいらしてください。ここではひと目につきすぎる」
と口早に囁いた。