春にそめし恋歌(5)
ヒルダはその日の午後、懐かしい故郷に辿り着いた。
到着後初めて彼女は、父、プリングスハイム卿が病床に臥していることを知らされた。
取るものもとりあえず、真直ぐに父親の居室に向かう。
久しぶりに目にした父親は、ベッドから起き上がることもままならぬ様子だった。
かろうじて頭だけを娘に向け、力ない笑い声をたてる。
「どうした、ヒルダ。血相を変えて」
ベッドの脇に駆けより、ヒルダはその痩せた父親の手をとった。
「お父様、こんなにお痩せになって…。具合がお悪いことを、なぜ知らせてくださらなかったのです」
自然、咎める口調になる。
「これくらい、病のうちには入らぬ」
強がるプリングスハイム卿だが、その言葉とは裏腹に、たったこれだけの会話で息が上がっている。
「心労がたたったのです。それでなくともギザマルーク洞窟路の整備工事で疲労が溜まっておられた上に、先日元老院よりブルメシア騒乱の件についての戒告が申し渡されまして…」
執事のヒューベルトが事情を説明しようとするのを、プリングスハイム卿が強い口調で遮る。
「ヒューベルト!いたらぬことを申すでない」
あまりの勢いに、また咳き込む父親の背中をさすりながら、ヒルダの頭はめまぐるしく回っていた。
元老院には外交に関する問題を扱う権限はないはずだ。もっとも元老院は独立した議決機関であったから、君主シド九世の意向とはかかわりなく独自に決議をすることはできる。それを利用した何者かの企みに違いなかった。
「元老院の長老は…ベルンハルト・ロンベルク卿…でしたわね」
呟く娘の顔を驚愕の表情で見やるプリングスハイム卿は、慌てて彼女を押しとどめた。
「何を申しておる、ヒルダ。たとえ長老であろうと、単独で元老院の決議を行うことはできぬ。構成員すべての賛成あってのことじゃ。それに、確かにブルメシア騒乱による被害は、このアレクサンドリアにも飛び火しておる。責任を問われてもいたしかたないことじゃ」
「シドが、危険に晒されているのです」
そう言って、ヒルダは口を引き結んだ。青く澄んだ目が、清らかな強い意志を湛えて瞬いている。
「ブルメシア王からの書状が先日城に届けられました。彼は――シド九世はすぐさまかの地へ赴きました。私には詳しいことは分かりかねたのですが、これで、謎が解けました。ブルメシアの騒乱…恐らくはリンドブルム、いいえ、お父様の名を汚す誣告が溢れているのでしょう。そして、やはりその黒幕は」
「何をするつもりだ!ならぬぞ、ヒルダ」
昔からの娘の行状をよく知るプリングスハイムは、ヒルダの考えていることなどお見通しだった。この娘は、夫と父親の汚名を雪ぐために、敵地に単身乗り込もうというのだ。
「港町ですもの、新鮮なお魚が食べたくなったとでも理由をつけて、物見遊山に参りますわ。そうすれば、仮にもシド9世の妃である私に危害を加えたりはしないでしょう。後のことを考える頭があれば」
港町はロンベルク領ロシュウェクを指す。ロンベルク卿の居城がある街だ。
プリングスハイムは絶句して、言葉が継げなかった。
確かに頭のいい、行動力のありすぎる姫だったが、嫁いで四年たってもなおその性癖に改善が見られないのが情けなかった。
「いつまでも子供ではないのだぞ、ヒルダ。お前は自分を弁えねば…」
「弁えております。だいじょうぶですわ。子供ではないからこそ、行くのです。お父様、私は政略結婚でシド九世に嫁ぎました。婚礼の前日まで、泣きたいくらい悲しかった。懐かしいこの地を離れて、見も知らぬ方と、生涯を共にせねばならないなんて。でも、前夜、あの方を見て、ひと目で私は感じたのです。私はこの方と生きる運命にあったのだと。私のすべてはあの人のもの。ですから、私はあの人のためならば、この身の全てを捧げるつもりです。無論、あの人の足を引っ張ることのないように」
にっこりと、ヒルダは笑った。
春の女神が舞いおりたかのような、美しい、それでいて潔い笑顔だった。
「…船を用意させよう。お前はそれが望みでここに来たのだろう。リンドブルムからではひと目に立ちすぎるからな」
もはや娘をとどめることは適わぬと感じたのだろう、卿は傍に控えていた執事に飛空艇を用意するよう命じた。
「ありがとうございます、お父様」
ヒルダは、深々と頭を下げた。
ブルメシアの地では、シドが場末の飲み屋でいっぱい引っ掛けていた。横にネズミ族の少年を一人従えている。
「飲むか?」
杯を差し出すと、少年は慌ててかぶりを振った。
「とんでもありません」
「けっこううまいもんだぞ。それに、このブルメシアの酒は格別だしな」
諦める風もなく、シドは少年にグラスを押し付ける。中には、ブルメシア特産の蒸留酒が入っている。
「瑞々しく、軽い口当たりだからな。お前みたいな子供でも十分飲める」
そう言われて、少年はしぶしぶグラスに口をつけた。
「おいしい…」
意外なほど爽やかな味だった。舌に残る微かな甘味が絶品だ。
「だろ?ブルメシア人のお前がこれを知らないなんて、ブルメシアの恥だぞ」
変な理屈をくっつけて、シドは少年のグラスに更に酒を注いだ。
注がれるままに少年はグラスを空ける。きゅうっと、一気に飲み干して、「はあ」と溜め息をつきながらグラスをテーブルに戻した次の瞬間、その子はコテっとテーブルに突っ伏して、すやすや寝息をたて初めた。
それを見届けるとシドは急に厳しい顔つきになって立ち上がった。
酒場の奥でこちらを伺うようにうずくまっていた人影に近づく。
目つきの悪い大柄な男だった。
「酔っ払って寝ちまったぜ。これであいつをアジトに隠せば、あのフラットレイとかいう小僧をおびき寄せられる」
「お手柄だったな、ザックス。じゃあ、そいつを連れて、後についてきな」
シドをザックスと呼び、その男はのっそりと立ち上がって店を出た。
その姿を見送って、シドは完璧に寝入っている――ふりをしているフライヤを担ぎ上げた。
実は十二歳にして少女は酒豪だった。これくらいの酒では、足取りすら乱れないのだ。人間族には到底想像できないことだったが。
こうしてシドとフライヤは、タンタラス団のアジトへの潜入を、とりあえずは果たしたのだった。
ヒルダは用意された飛空艇に乗り込んだ。
万全を期して、貨物、それも家畜飼料を輸送する運搬船をプリングスハイムは準備してくれた。
リンドブルムの北の端から南の端までの旅になる。飛空艇でも、丸一日半かかる行程である。
あまり体調がよくないヒルダは、早めにベッドに入っていた。と、なにやら甲板の方から騒がしい音が聞こえる。
起き上がり、ガウンを羽織って様子を見に行こうとベッドを降りた途端、ヒルダは吐き気を催した。
その波が治まるまでベッドの脇に座り込む。
「…変ね。飛空艇に酔ったことなど、今まで一度もないのに…」
それほど揺れが激しいわけでもない。首を傾げながら、彼女は部屋を出た。
甲板に上がる階段に差し掛かったとき、上空の月光を背に浴びた黒い人影が数人、下の船室になだれ込んできて、ヒルダの前に立ちはだかった。
「曲者!?」
ヒルダは丸腰である。例え懐剣を身につけていたとしても、彼女に身を守る術はなかったが、それでもないよりはましな筈だった。無防備に船室を出てきたことが悔やまれた。
「リンドブルム大公妃とお見受けする」
賊の頭格とおぼしき男が前に進み出た。
「…だとしたら、なんなのです」
「この船は我らタンタラス団が頂いた。あなたごと」
「な…!なんですって!」
確かに海賊ならぬ空賊とも呼ぶべき輩が出没することは知っていた。
だがそんなに数はなかったし、それにその輩がこういう家畜飼料の貨物船を狙うなんてことは、まず考えられなかった。抗う術もなく数人の男に手足を捕らえられ、縄打たれたヒルダは、登口から漏れ来る月明かりの中に浮かぶ人影が、こちらに近づいてくるのに気づいた。
「シド大公の最大の弱点が向こうから飛び込んできてくれるとは。我らが行く手を天上が祝福してくれているようですな――」
タンタラス団の頭格がそちらを向いて彼に言った。
「ねえ、ロンベルク卿」
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