春にそめし恋歌(7)   

潮の香りが鼻をつく。
いつか一度だけシドについてきたことがある海辺の街。
そのロンベルク卿の居城に、ヒルダはつれてこられた。
「いささかむさくるしい部屋ではありますが、ご安心下さい、水牢などではありませんから」
そう言って、ロンベルク卿はヒルダの頬を触った。
ぞっとする感触に、ヒルダは思わず顔を背ける。
「幾度か拝謁したことがございましたが、明るい日のもとで拝見するあなた様は、また格別にお美しゅうございますな」
育ちが良い割には下卑た笑いを浮べて、彼は無理やりヒルダの頬を掴んで自分の方へ向けた。
「あなた様のお父上には、大変お世話になっておりましてね。なんとかお返しをしたいと思っていたのですよ。」
後ろでに縛り上げ、しかも両脇から男達につかまれているヒルダには抵抗することもできない。
近づいてくるロンベルク卿の顔を避けようと、必死に首を横に向けるのだが、それも虚しく唇を奪われてしまう。背筋に悪寒が走る。とっさに、最後の抵抗を試み、彼女は男の唇を思い切り噛んだ。
「ぐっ」
くぐもった声にならぬ呻きを上げて、ロンベルク卿は顔を離した。唇に血がにじんでいる。
その血を手の甲で拭い、自分の血を確認すると彼は瞬く間に険しい悪魔のような表情になった。
「そうやっておられるのも今のうちですよ、ヒルダガルデ殿。貴女の身に危害を加えることはできないが、しかし貴女が誰にも言えぬ印を貴女に刻み込むことはできる。…それを知ったときの、シド大公の顔を、早く拝見したいものですな。知ったところで、シド閣下には何もできぬ。私を罰すれば、姦通のかどで奥方まで罰せねばならなくなるのですから」
ここまで醜悪な人間の顔は見たことがない。ヒルダは肌に粟を生じつつ、そう思った。
何をこの男が考えているのかなど、分かりたくもなかった。だが、どうにかしなければ、自分だけでなくシドにまで迷惑をかけてしまうことになる。
父親にあれだけ大見得を切っておきながら、こんなことになるとは。
ヒルダは自分が女であることを、この時ほど悔しく思ったことはなかった。
旅の疲れを癒すため、と称してロンベルクは自室に姿を消した。
ヒルダはそのまま尖塔の最上階に設けられた部屋に入れられた。見事な部屋ではあるが、幾重にもかけられた扉の頑丈な鍵を見れば、この部屋が何のために設えられたものか一目瞭然であった。
部屋の奥には張り出し窓がひとつだけある。窓は開かないように金具でしっかりと固定されていた。
とすると、正面から逃げるしかない。
いずれ誰かが自分を呼びにやってくるだろう。それまで体力を蓄えておかねばならない、とヒルダは思った。最近、本当に身体がだるいのだ。そして時折やってくる吐き気…。自分の身体の変調が、とある兆しであることを、この年若い妃はまだ気づくことができなかった。
シドと分かれてから二ヶ月…。
せめて夢の中だけでも彼に会いたいと彼女は痛切に思う。
だがベッドに横たわったヒルダは、夢を見る間もなく深い眠りに誘われてしまったのだった。

「フライヤ!」
矢も盾もたまらず、フラットレイは部屋にやってきたフライヤを抱き締める。
「無事でよかった…」
シドが咳払いをして知らせるまで、彼は彼女を放そうとしなかった。
「この子はさすがだ。俺など考えもつかぬタイミングで、上手くあいつらの手をすり抜けた。しかも、その身の軽さを存分に生かし、追っ手を撒いた腕などたいしたものだ」
結局、フライヤに追いつくことが出来ぬまま、シドもフラットレイの屋敷までやってきていた。
のんびりした口調ではあるが、その裏で彼は既にフラットレイを通してアジトの情報と近衛連隊の出動の要請を済ませていた。夜陰にまぎれ、人に見られぬよう行動したとはいえ、どこからどう情報が伝わるか知れない。行動は早い方がよかった。

「俺は連隊と一緒にアジトへ行く」
「なぜです?そんなことをすればあなたまで巻き添いを喰いますよ」
フラットレイの中の疑問が膨らんでゆく。
「まだあいつに確かめねばならんことがあるのでな。君には世話になった。――そしてそのお嬢さんにも。もしまた会う機会があるなら、その時はもっときちんと礼を述べよう。それまで恙無くお過ごしあれ」
「待ってください!あなたは…なぜタンタラス団を壊滅させようとこの地にやってこられたのですか?そして、何を確かめに行かれるのですか。あなたはもしかしたら…」
「おっと、その先はなしだぜ!」
これがいっぺんやってみたかったんだ!
と、胸の内で思いながらシドはフラットレイに片目をつぶってみせた。
「俺はしがない流れ者よ。語る名前も持ってやしねえ。あばよ、おふたりさん!」
物語なんぞというものがあまり好きではなかったシドが、唯一好んで読んだのが「痛快時代劇」ものであった。その主人公の中で一番好きだったのが架空の国、エドの将軍。彼が市井のものに紛れて悪漢を倒す物語はまさに痛快で、最高に面白かった。自分も長じたらそうやって悪者を退治するんだ!と、いとけない少年シドは胸に刻んでいたのである。
その主人公と同じ台詞を吐き、思いっきりカッコをつけたつもりなのだ。
そして彼は風のようにチョコボにまたがって去っていったのだった。
「彼は一体、何者だったんだろう?」
「さあ。でも結局あんまりあの方って、ご自分では何もなさっていない気がしますが…」
「…それもそうだな。最初から最後まで運が良かっただけって気もする」
「はい。」
「だけど、それにしても何かいわくはあると思うんだ」
「それは賛成です」
こうしてシドの正体について、彼らは仲睦まじく夜が明けるまで語り合った。別段何になるわけでもなかったが、それでも彼の登場が、運を引き寄せたようにも思えるのだ。
少しの間離れ離れになって、少女の身が心配でならなかった少年は、少しだけ賢く、大人になった。
大切なものは、離れて初めて分かるのだと知って。

本当は同じことを感じておらねばならぬはずのシドは、しかし頭の中をタンタラスの黒幕のことで一杯にしていた。
彼を心配した妻が単独で行動していようなどとは想像だにできなかったせいもある。

近衛兵より一足早くアジトに帰り着いたシドは、真に迫った演技で血相を変えて頭の部屋に飛び込んだ。
「大変だ!」
「何だ、ザックス。やっと帰ってきやがったか。で、首尾は?」
「そんな暢気に構えてる場合じゃねえぞ!あのガキ、近衛連隊に注進しやがった!」
「何ぃ!?」
近衛連隊にはタンタラスのバックの息はかかっていない。彼らに踏み込まれたら一巻の終わりだ。
偽バクーは真っ青になり、慌てふためいて指示を出す。
「お前ら、とにかく手に入れたお宝を全てまとめろ!チョコボに載せて運び出すんだ!早くしろ!!」
偽バクーの怒号一下、手下どもが一斉に散った。
後に残された偽バクーも、部屋にある金目のものをまとめ始めた。
シドはそっとその背後に忍び寄り、突然首を締め上げた。
「くぁ!な、何をするっ!ザックス…」
喉笛を絞り上げられて、息が詰まる中、必死にバクーは抵抗を試みる。
だが、横はともかくとして体格にも勝る若いシドの力に、いかな盗賊の頭でも太刀打ちできなかった。
「あんたを動かしてる黒幕を教えてくれ。教えてくれたら逃がしてやる」
「な、何だと。それはこの間話したじゃねえか…」
締め上げる腕に力を更にくわえる。偽バクーの太い体が宙吊りになりかかる。恐るべき力に、バクーは恐怖し、「や、やめてくれ!話す!話すから…この手を緩めてくれ!」と懇願する。
「それは話してからだな」
その手にのるシドではない。力を緩めぬ相手にバクーは観念したようだった。
「ロンベルク卿だ」
「!?」
信じられぬ人物の名に、シドは驚きを隠せない。
「もう一度言ってみろ。誰だと?」
「ベルンハルト・ロンベルク卿だよ!」
漠然と、シドの脳裏にロンベルクと彼が敵視しているヒルダの父、プリングスハイム卿の姿が浮かんだ。
ギザマルーク洞窟路の利権…南ゲート建築に対する執着…。
偽バクーに思いっきりみねうちを食わせると、気を失ってその場に倒れこんだ彼をほったらかしてシドはブルメシアの城に向かった。
飛空艇はあそこに停泊したままだ。
一刻も早く、リンドブルムに戻らねばならぬと思った。
嫌な予感が、彼の全身を駆け抜けていった。