春にそめし恋歌(8)
リンドブルムに向かう途中、シドはプリングスハイムに寄ってみた。ヒルダがそこにいるかもしれないと思ったのである。だが彼女の姿はなく、かわりに彼女の乗った飛空艇が何者かによって奪い去られたことを知るはめになった。
「何てことだ…!」
リンドブルム巨大城に帰り着き、会議室にオルベルタと二人で篭ったシドは、手に血がにじむほど壁を叩いた。
「俺が…俺がヒルダをほったらかしたばっかりに…」
せっかく直った言葉がまた崩れているとオルベルタは思ったが、今はそんな暢気なことをいっている場合ではないので口にするのは差し控える。
「悲劇の主人公に浸るのは結構ですが、閣下。嘆いていても何も始まりませんぞ」
オルベルタは表情を変えず、冷静に結論を下す。
「…わかっている。その通りだけど…ほかに言いようがないのか、オルベルタ」
「失礼仕りました。この件に関しては私の方では元老院を抑える手立てを講じましょう。閣下はまた単身ロンベルクに乗り込むなりなんなり、お好きなようになさればよい。ですが、証拠がないうちは下手にうごけませんぞ。どうなさいます」
相変わらず切れ者である。
自分の範疇をよく弁えていて、できることはそつなく手早くこなす。
彼は最高の宰相だった。それは間違いない。
だがもうちょっと君主に対する態度はどうにかならないものかと、シドはよく思う。
「飛空艇の一個小隊を用意してくれ。それを率いてゆく。名目は南ゲート建設予定地の視察だ。ロンベルク城に厄介になる。その旨、早速先方に知らせてくれ。それからバクーを呼んでくれ。すぐに」
「かしこまりました」
いつもながらこの若い大公の命令には澱みがない。
オルベルタは舌を巻くのだった。
ちゃらんぽらんで、しょっちゅう街に出没するわ、女漁りはするわ、ちょっとおとなしいと思ったら部屋か工業区に篭って飛空艇の設計図を引いている、本当に放縦な若君なのだが、ここぞという時の決断力と先読みの鋭さは、完璧だった。
だからこそ、自分のような偏屈でも、この方にならついてゆけると思うのだ。
退出するオルベルタの口元には、微かな笑みが刷かれていた。
ロンベルク城。
最上階の部屋で眠っていたヒルダを、誰かがゆすった。
「ヒルダガルデ様。お食事の用意が整いました」
目を開けると、枕もとに召使らしき老人と、給仕のために付き従っている年若い娘が立っていた。
「申し訳ございませんが、お部屋でお召し上がりいただくようにとの主人の命でございまして」
本当に申し訳なさそうに老人は何度も頭を下げる。
娘の方は目を伏せたまま、食事を載せたワゴンを部屋の中に押してはいった。
「ありがとう。せっかくだけど、食欲がありませんの。下げてくださっていいわ」
確かにヒルダの顔色は悪かった。
事態がよく飲み込めておらず、ヒルダのことを主人の賓客だと思っているらしい老人は、慌てた。
「お薬を用意させましょう」
「いえ、いいの。もうすこし、寝させていただけるかしら」
起き上がりはしたものの、立てずにベッドの縁に腰を下ろしたヒルダは、眩暈を抑えようと頭に手を当てる。だが、一向に収まる気配はなかった。
その様子に心配そうな表情を見せた老人は、客人の意志を尊重して譲歩した。
「畏まりました。お食事と、この娘はここに残しておきますので、もしお目覚めになられましたら、お召し上がりください」
そう言って娘を呼ぶ。
「アリサと申します。ご用件がございましたら、この子にお申しつけください」
老人はまた頭を深々と下げ、部屋を出て行った。
残された少女はおどおどとしていたが、その視線や表情からなんとなく自分に対する同情のようなものを感じ取って、ヒルダはためしに聞いてみる。
「あなた、おいくつ?」
「じ…十五です」
「そう…。私のことを、ロンベルク卿からなんと聞いているの?」
娘は困ったような顔をして、余計に俯いた。
こんな少女をよこしたということは、周囲に監視の者を配置しているか、もしくはかなり侮られているかのどちらかだろう。もし侮られているのだとしたら、打つ手はある。
「私は、監視されているのかしら…」
アリサという少女は首を横に振った。
「この塔は、本館から外れていて、本館に行くには兵舎の前を通らなければなりません。ですから、ここには…」
「もともと幽閉されていた方がおられるのね」
こくんと少女は頷いた。
「見張りの兵士をつけなくとも、ここからは出られないと、よく侯爵様は言っておいでです。でも…」
「あなたは、ここで何人もの人のお世話をさせられたの」
「はい。私、私…」
多分少女にはもう耐えられないのだ。この部屋に住まわされたものの末路は必ずひとつだったのだろう。それはこのいたいけな少女には辛すぎる結末だったのかもしれない。
「あなたは、ここから抜け出せる方法を何か知っているのね?」
先ほどの口ぶりからそう判じとって、ヒルダはかまをかけてみる。
はっとした少女はとっさに頷いてしまう。それから慌ててかぶりを振るが、それが遅すぎることは少女にもよく分かっていた。
「あなたには、絶対に迷惑はかけなくてよ。私はヒルダガルデ・ファブール。シド九世の妃です。私にはここの主は手は出せないわ。大丈夫。私がここを脱出する時には、必ずあなたもともに助ける手立てを講じます。あなたを危険な目に合わせたりしないわ。だから教えて。私をここから逃がして頂戴」
少女の目は怯えていた。だが、もう辛い役目はイヤだという思いが、恐怖に打ち克ったようだった。
しばらくの逡巡のあと、彼女は初めて、顔を上げた。
「わかりました。お助けします。私についてきてください」
そのころシドは飛空艇の上にいた。
妻の安否が気遣われてならなかった。
彼女が突拍子もない行動にでることは、これまでだって多々あったのだ。なのになぜそれを失念してしまったか…自分の迂闊さが悔やまれてならない。
何も考えず、彼女を二ヶ月もほったらかしにしてしまった自分が悪かったのだ。
やっと、お互いの気持ちを確かめ合えたと思ったはずなのに。その彼女の気持ちを最優先で考えてやれなかった自分が情けなかった。
だが悔やむばかりではどうしようもない。
とにかく今は一刻も早くヒルダを救出すること、それしかなかった。
アリサが案内したのは、恐らく昔、敵に攻め込まれた時用に設置したのだろうと思われる、抜け穴のような通路だった。塞がれていたらしいが、兵舎の前を通らなくてよいことと、若干塔の上まで近くなること、そして登りやすい階段だったことから、使用人たちがこっそり使っていたのだそうだ。
ドレスが汚れますけれど、とアリサは気遣ってくれたが、ヒルダはそんなことに構っていられなかった。そこが泥沼だろうと海の底だろうと、とにかく今は、ここを脱出すること、それしかなかった。
本館まで辿り着いた時、通路の向こうを警邏の兵士が通った。
アリサは緊張してすぐさま横の廊下に入り込んだ。
「私、この先を見てきます。御妃さまは、ここでお待ちください。この廊下は、ご主人様の私室につながるもので、滅多に誰もとおりません。ご主人様が許可なさらないのです。ですから、ここならしばらくは大丈夫だと思います」
言って、様子を見に行こうとするアリサの手をヒルダはとっさに握った。
「ありがとう、アリサ。このご恩は決して忘れないわ。そして、あなたを助けるわ。絶対に」
娘は頷いた。しかし、その目はもはや自分が助かることを望んでいない目だった。
人を助けることは困難なことで、しかし困難だからこそ、自分の存在に自信が持てるようになるのだ。少女は図らずもそのことに気づいたのである。
駆け出してゆく少女の白いエプロン姿を見送って、ヒルダは柱の影に身を隠した。
だが、その時、ふと彼女の脳裏に先ほどアリサの洩らした言葉が蘇る。
ご主人様の私室につながる廊下――。
動かない方がいいと分かっていつつも、ヒルダはその誘惑に勝てなかった。
私室にならば、ロンベルク卿が画策していたことの証拠があるかもしれない。
元老院を動かしていたのは事実なのだ。そして、ヒルダにとっては噂の域を出ない情報ではあるが、ブルメシア騒乱の首謀者も彼なのだ。
その動かぬ証拠があれば、シドはロンベルク卿捕縛に踏み込める。
その証拠がほしくて、彼女は廊下に一歩を踏み出してしまったのである。
私室を探り出すのは簡単だった。
この棟の2階には、ロンベルク卿の私室と使用人の部屋しかない。それだけ彼の私室が巨大だ、ということになる。扉の鍵は、かかっていなかった。この時、気がつくべきだったのだ。
警邏の兵士すら回らせない私室に、鍵がかかっていないことのおかしさを。
だがこのとき、ヒルダは自分の幸運を感謝するばかりで、罠かもしれないことに気づかなかった。
中に忍び込み、怪しいところを片っ端から調べる。が、それらしいものは片鱗も見当たらない。
次の間は寝室である。今度はそこを調べようと、部屋に入ったとたん、後ろから抱きすくめられた。
「こんなところで何をしておいでです、ヒルダガルデさま。あなたは自ら進んで私の手の中に落ちることを望んでおられるようだ」
絡みつく手を外そうとするが、軟弱な貴族とはいえ男の力、ヒルダにはどうしようもない。
懸命に抗うヒルダを押さえ込もうと、ロンベルク卿は彼女の身体をベッドに押し倒した。
その瞬間に出来た隙をヒルダは逃さなかった。思いっきりロンベルクの股間を蹴り上げると、ベッドから転げ落ちる。床に転がった瞬間、怪我の功名というべきか、ベッドの下に隠された小箱が目に入った。手を伸ばしてそれを取ろうとしたヒルダの足を、激痛に顔をしかめながらロンベルクが掴んで引っ張った。引きずられそうになって、ヒルダはまた足でその手を蹴り解くと、身体を起こした。そのけりは今度は彼の顔面にヒットしたらしい。鼻血をたらしながら、満身創痍の侯爵は、悪鬼の如き表情でヒルダの身体を蹴った。ヒルダの下腹部を激痛が走る。
立ち上がれない彼女の身体にまたがって、そのドレスをひきちぎろうとヒルダの襟元に侯爵が手をかけた、その時――。
がす!っと、鈍い音がして、侯爵の動きが止まり、そのまま彼の身体はヒルダの上に倒れ臥してきた。
汚らわしいものに触れてしまったような顔でヒルダは男の身体を自分の上から突き落とす。
その背後にぬっと立った人影に気づいて、彼女は一瞬泣きそうな顔になった。
「バクー!」
そして彼にすがりつく。
タンタラス団の本当のボス、バクーである。彼はシドの密命を受け、(というより懇願に負けて)シドより一足早くこの城に忍び込んできていたのだ。
目的は、ヒルダの居場所を探し出すこと。そして、できるならば速やかに助け出すこと。
この先の門のところで兵士に捕まってしどろもどろに弁明している侍女がいなかったら、こうも早くこの部屋に辿り着くことはできなかった。
「まったく、シドといい、お前さんといい、人騒がせなのにツイてやがる。さ、行くぞ!」
自分にすがり付いているヒルダを離すと、その手を引いて脱出を促す。だが、ヒルダは彼を少し待たせて、ベッドの下にある小箱を引っ張り出した。
鍵がかかってて開かない。時間はない。焦って小箱を無意味に回し見る彼女の手から、バクーがひょいとそれを取り上げた。
「かしてみろ」
彼が何か細い針金のようなもので鍵穴を探ると、カチッと音がして、簡単に小箱が開いた。
「すごいわ、バクー!ありがとう!」
ちょっと得意げな表情で箱を差し出すバクー。受け取って、中身を検分する。ヒルダの感は当たっていた。中から出てきたのは、ブルメシア軍総司令官からの書状と、元老院各長老に根回しのために送った品物の数々の覚書であった。
これさえ手に入れば、もう怖いものはない。
ヒルダはその小箱を抱いて立ち上がり、バクーに言った。
「行きましょう!バクー!」
だが、彼女の意識はそこで途切れた。
突然目の前が真っ暗になり、血の気が引いていく感じがして、ヒルダガルデはその場に崩れ落ちたのだった。
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