古時計は夢を紡ぐ。―1―

アレクサンドリア城の書庫で、ジタンはトット先生の研究を手伝わされていた。
テラの文字――ガイアで言うところの『古代文字』が解読できるのは、この辺りでは彼しかいなかったから。
この世界各地で蒐集した古文書・文献を机の上に広げて、トット先生が一つずつジタンに確認してゆく。彼は古代文字を解読し、テラの言語を翻訳しようと試みていたのだ。それは膨大な時間のかかる作業だった。そのため、彼らはここ数日間というもの、この書庫にこもりきりだった。
そこへ、ガーネットが駆け込んできた。
いつになく険しい表情を浮かべている。
「ジタン!」
部屋に飛び込むなり、彼女は夫の手を引っ張った。
「ごめんなさい、トット先生。少しの間、ジタンと話をさせていただきたいの」
どうしたんだ、とジタンが口をさしはさむ間もなく、口早に彼女はそう言い、了承したトット先生がその場を外す。
二人きりになってもガーネットの表情は変わらなかった。
「大変なの」
「落ち着けよ、ガーネット。どうしたんだ?何があった?」
そっとジタンはガーネットの肩に手を置く。そして敢えてゆっくりした口調で、訊いた。
「トレノ四公が、また無体な計画を立ち上げたの」
「無体な計画?」
頷くことすらもどかしげに、ガーネットは続ける。
「トレノ東部の森林を切り開いて、そこに一つの村を作るのですって。暇に飽いた有閑貴族の気晴らしのための別荘地にするって言うの」
彼女が血相を変えていた理由が、ジタンにもやっとわかった。
トレノの東部には、クヮン洞がある。
高山の山麓にある、奥深い森林に包まれているクヮン洞を知る人間は、今のところほとんどいない。彼らと共に旅した仲間たちを除いては。
だがあの森林と夕日に映える白い連峰は、アレクサンドリア屈指の景勝の地と言われているのだ。しかもそこには温泉が湧く。その地を開発しようという動きが、今まで表面化しなかったことの方が、むしろ奇跡に近かった。
「あそこには、ビビの家があるでしょう?」
黒魔導士の村が、ビビの帰る場所だとしたら、クヮン洞はビビの生まれた場所と言えた。
ガーネット自身は、あの場所を訪れたことは一度しかない。だがそのときに姿を見せたクヮンのことを、彼女はたまに懐かしく語っていたのだ。
あの清らかなビビの心を育てたのは、クヮンだったから。
「あの場所を荒らされたくないの。だから、手を回して買い取ろうとしたのよ。そうしたら、あの人たち、とんでもない値段を吹っかけてきたのよ!?」
それが一番彼女の逆鱗に触れたらしい。あったまにきたわ!と、本当に珍しく激怒する妻をみやって、ジタンは小さな笑い声をたてた。
「なあに、何を呑気に笑ってるの!?ジタンは平気なの?」
「いや。だけど、足元を見られてるよな、俺たち」
「だから頭にくるの!私たちには買えやしないって、高をくくってるのよ」
と、そこまで一気にまくしたてて、それからがっくりと彼女は肩を落とした。
「…だけど一番頭にくるのは、それが本当だってこと。提示された額のお金なんてないんですもの」
それまでの勢いはどこへやら。己の不甲斐なさを嘆くように、ガーネットは溜め息を洩らした。
「それが聞いて欲しくて俺のところに来たのか?」
返ってくる答えはわかっていながら、わざわざジタンは訊ねた。
ガーネットは肯定の色を目に浮かべて、そして付け加える。
「ジタンなら、何か名案が閃かないかしらって、思ったの」
ジタンは肩をすくめた。
「手品の小箱みたいだな、俺は」
「そんな…言い方、しなくたって」
じわっと、ガーネットの眸が潤んでくる。それを見てジタンは慌てて、
「うそっ!うそだって、冗談だって!な?いつものやつでさ…おい、ガーネット…」
懸命に彼女の涙を止めようとする。
こうなることは分かっているのに、ついつい至らぬ事を口走ってしまって、後悔する羽目になるのだ。
「お前の気持ちは分かってるし、ありがたいと思ってるよ。ほんとだって。だからさ、泣くな!いいな、泣くなよ!?クヮン洞のことは俺がなんとかするから。な?」
既になりふり構わず状態である。
あんまりジタンが焦っていて、そしてその慌てふためく姿があんまり可愛かったので、ガーネットの涙はいつのまにか引っ込んでしまった。
でも笑い出すのも癪なので、彼女は照れくささを隠すように、ジタンにあっかんべーをくれてやる。
「泣いたりしないわよーだ」
それから年端も行かぬ少女のような仕種でドレスの裾を翻した。背を向ける間に漏れた微笑がジタンの目に映る。
自分の表情がジタンに見取られていることなど気づかぬガーネットは、つんとした表情を装って
「後は、頼んだから!」
捨て台詞をはいてみせた。が、いかんせん正直者の彼女の顔は、ちゃんとジタンへの信頼を浮かび上がらせてしまう。
ジタンの方も慣れたもので、言葉とは裏腹な彼女の想いを、しっかりと胸に受け止める。
駆け去ってゆく大切な女性の姿が階上に消えてゆくのを見届けて、ジタンは苦笑と共に溜め息をついた。
何とまあ次々に厄介ごとを運んでくるのだろう、あのトレノに巣食う貴族の連中は。
徒に悦楽ばかり貪っているから、くだらない事しか思いつかないのだ。と、ジタンは嘆息を禁じえなかった。
有閑貴族のために森を切り開き村を建てるのに、一体どれほどの民衆が無駄な労役を課されることか。そしてその憤懣はアレクサンドリアの王家に撥ね返って来るのだ。尤も、あの貴族連中にそんな頭があるとは到底思えないから、そこまで見越していたわけではないだろうが…。
女王陛下の夫としての最初の公務が、こんな形で回ってこようとは、さしものジタンにも予想のつかぬことであった。
だが起こってしまった事態は収拾するしかない。
それに甚だ不謹慎ではあるが、ジタンにとっての一番の関心事は、国事ではなくガーネットの気持ちなのである。

彼女が守りたかったもの。それは、ジタンの中の「ビビ」だった。
ジタンの大切にしている心の奥の宝物を、彼女は必死に守ろうとしてくれたのだ。
その気持ちがわかるから。
ジタンは彼女に応えたかった。
というわけで、気乗りはしないながら、彼はその日のうちに、トレノへ飛ぶ手はずを整えたのだった。