古時計は夢を紡ぐ。―2―

忌まわしい記憶が蘇る。
ジタンに泣きついたものの、彼がしょうがないなと苦笑いしながらトレノに旅立っていった後、ガーネットは深い自責の念に囚われていた。
彼女の養父は、トレノに赴き、物言わぬ姿になって還ってきたのだ。
ガーネットは輿に乗せて運ばれてきたその躯を、母ブラネと共に迎えた。その記憶は、幼かったにも関わらず彼女の脳裏に刻み込まれている。
「せめて護衛の者だけでも連れて行って」
懇願したが、ジタンは軽い笑みでやんわりと拒否したのだった。
「かえって足手まといになる」
「じゃあ、スタイナーだけでも」
「おっさんを連れて行ったら、アレクサンドリアの警護の統率を誰がするんだ」
「ベアトリクスがいるわ」
「将軍は近衛の総大将だろ。兼任させちゃ可哀想だ。それに彼女はお母さんだろ?」
先年、彼女は子供をもうけたばかりだった。
「無理させるな。――それから、お前も」
すっと、ジタンの顔がガーネットに近づき、彼は軽く妻の唇に触れた。
「俺のことは大丈夫だから。心配するな。お前は、自分のことを心配しとけば、それで十分なんだから。俺がいなくなったらすぐ無理するからさ。俺が心配なのはそのことだけだ」
それからもう一度、彼は唇を重ねた。想いを込めて。
なおも眉を顰める表情を崩せないでいる彼女の頭を、ジタンはぐりぐりと荒っぽく撫でた。まるで、小さな子供をあやすように。
「二、三日で戻ってくる」
彼を乗せた飛空艇を、ガーネットは見送ることができなかった。
本当はアレクサンドリアの市街門まで行きたかったが――過去が彼女の心に圧し掛かって、足が竦んでしまったのだ。
ごめんなさい。
頭に来たからと言って、動揺して彼にすがってしまった自分の短慮が情なくてならなかった。
執務室に戻ってからも、彼女の心は不安に捉えられたままだった。
ごめんなさい、ジタン。
神様――ビビ、どうか彼を守って。
暫くの間、彼女は床に跪き、空に祈った。
当分は、安らかな眠りにつけそうになかった。

ジタンはトレノの街に寄る前に、クヮン洞まで足を伸ばした。
相変わらず深い森に囲まれていて、そしてここにもまだ魔獣は出没している。
この森を切り開くとなると、ちょっとやそっとの手間ではない。
確かに飛空艇から望むには絶景だ。しかし、地上はまだ危険すぎる。
もし現地を視察しているなら、あの業突く張りのキング公をはじめとする四公のことだ、きっと躊躇していることだろう。
ならば打つ手はいくらでもあった。

夜の帳がそこまでおり始めていた。
薄暗い夕暮れの明かりの中で、やっとクヮン洞の入口まで辿り着いたジタンは、居間を通り抜けて海岸線に突き出した岩場に出た。
右手の山越に、今にも海に沈もうとする巨大な夕日が見える。
以前、トレノからここまでビビを迎えにやってきたときの事を、ジタンは思い出していた。
ビビが「おじいちゃん」に会い、そして別れを告げた場所。
足の長い光に背を押されながら、ジタンは居間に戻ろうと踵を返した。と、岩場の端に取り付けられた古時計が目に入る。
そういえば、針が止まったままだった。あの時も、そう話したっけ。
硝子を開けて、文字盤の針を動かしてみる。
3時。
傾いた西日に照らされた仄明るい居間のテーブルに、ぼんやりと、人影が二つ浮かびあがった。
――背がなかなか伸びないアルな。
クイナに似た人影は、隣にちょこんと座っているとんがり帽子の男の子の頭に手を置いた。
――背丈って、伸びるものなの?
――そうアル。この世のものは全て変わりゆくアルよ。
――なのにボクは変わらないの?
少し、心配そうな声。
クヮンは長い舌をゆすって首を振った。
――変わり方はそれぞれアル。おじいちゃんも、ゆっくりとしか変わらないアル。人間から見たら、きっと全然変わっていないように見えるアルよ。
――人間って、なあに?
――そうアルな。ビビは、おじいちゃんしか見たことがなかったアルな。今度、ビビをトレノの街に連れて行くアルよ。
――街?街ってなあに?
――ほっほっほ。ビビは何でも「なあに?」アルな。
――ごめんなさい。
――謝ることはないアル。それどころか、分からないことを人に尋ねるのはとてもいいことアルよ。ただし、一番いいのは、まず自分で探すことアル。
とんがり帽子が上下に揺れる。男の子が一生懸命大きく頷いていたから。
二人の幻影を浮かび上がらせていた日差しが、収束するように細くなり、ぷっつりと絶えた。
太陽の傾きが変わったのだろう。
暗くなった洞窟の中には、もう人影はなかった。
ジタンは目をこすった。
幻影には間違いないが、なぜ突然それが現れたのかが分からなかった。
ためしに、時計の針をまた回してみる。
5時。8時。10時。
だが、再びビビとクヮンが現れることはなかった。
あまりにも美しい夕日が見せた幻だったのだろうか。
彼ら二人が共に過ごしたこの空間。
ここには彼らの思いが残っているのだ。まだ、色濃く。
ジタンは守ろうと思った。この場所と、彼らの思い出を。
それはガーネットが呼び覚ましてくれた想いと言っても過言ではなかった。
ビビの面影を黒魔導士の村に求めていたジタンの中で、ここは忘れられかけていたから。
だがここもまた、大切な記憶の場所だった。
いつかまた、気が向いたときに夕日は――いや、もしかするとこの古い時計かもしれないが――幻を連れてきてくれるかもしれない。
できるならば、彼らに再び見えたい。例え幻に過ぎなくても。
そんなことを考えながら、ジタンは洞窟を後にした。
一路、トレノに向かって。