summer snow-2-

ジタンが二日ぶりに城に帰ってきた。
なにくわぬ顔で部屋に入ってくるなり、自分を抱きしめようとした彼の腕から、ガーネットはするりと逃げ出した。
「どうしたんだ、ダガー?怒ってんのか?」
彼女の反応が理解できないジタンは、びっくりしたような顔でガーネットの前に回りこんだ。そして顔を覗き込む。
平生と変わらぬ仕種。だがその目はどこか落ち着きがない。
ガーネットは顔を背けた。
ついぞ見せたことのない彼女の激しい拒絶の意思表示に、ジタンは唖然とした面持ちを隠せない。
「二日も黙って城を空けたから寂しかったとか?」
少しでも明るい雰囲気にしようと試みる。だが彼の努力は徒労に終った。
ガーネットは毫も表情を動かさなかったのだ。
「えっと…、もしかして、具合が悪いんじゃないか?」
彼女の額に手を当てようとしたジタンの手を、とっさにガーネットは振り払った。
「!ダガー…?」
今度こそ、ジタンは信じられぬように目の前の女性をみつめた。
こんな手痛い拒否を彼女が自分に示すとは、まさに青天の霹靂だったのだ。
「もう、いいのよ」
やっとのことで、ガーネットが口を開いた。
だがその唇は薄紫に曇り、そして瞳は苦渋の色を浮かべている。
「――何が?」
恐る恐る、ジタンは訊ねる。
彼には事の次第が全く飲み込めていないのだ。
ガーネットが自分の秘密に気付いているなど、思いも寄らぬのだろう。

いつもなら仕方ないわね、の苦笑で終らせるところだ。
ジタンもそれをそこはかとなく期待しているのが分かる。
けれども、ガーネットの脳裏にはあの美しい少女をやさしく見つめるジタンの姿が焼きついて離れないのだ。もう、二度と、笑ったり出来なかった。
「私の傍にいてくれなくても、いいのよ」
絞り出すように、言った。
「な…突然、何を言い出すんだよ!?」
ジタンがガーネットの腕を掴む。ガーネットはすぐ振りほどこうとしたが、ジタンは今度は放さなかった。ぎゅっと手に力をこめる。
「…放して」
「いやだ」
「もう、やめてよ」
「だから、何をだよ!お前、何言ってんだよ!?訳わかんねえだろ!」
「見たのよ!あなたを!」
「どこで!?」
と口に出した途端、ジタンの頭の中で「思い当たる節」が弾けた。
「まさか…」
ガーネットは隈のできた死んだような大きな瞳をジタンに向けた。
「アレクサンドリア城下の外れの屋敷で。あなたと…」
「ちがう!」
咄嗟に、ジタンは否定した。
何を否定したのか、それはジタンにもガーネットにも分からなかった。
「お前は勘違いしてるんだ」
「何を勘違いしているというの?あなたはその腕に彼女を抱いてたわ。とても綺麗な女の子だった。白い薔薇が咲き乱れる庭園で、あなたたちは、まるで一枚の絵のようだったわ」
金色の髪が揺れる。
二人の顔が近づく。
可憐に笑う少女。
フラッシュバックする情景が、ガーネットの心を引き裂く。ずたずたに。
「ダガー」
「やめて!その名前で呼ばないで!もう放して!私をほっといて!」
「いやだ!」
放ってなどおけない。ジタンの頭の中を、それだけが駆け巡る。彼はやみくもに彼女の体を抱きしめた。力いっぱい。それしかできることが思い浮かばなかった。今までなら、これで万事済んだのだ。どんなことも、彼女はいつも最後には笑って、受け流してくれた。だが、今度ばかりはそう上手くはいかなかった。
ガーネットはなおも必死に抗ったのだ。
そしてとうとう、彼の腕から飛び出してしまった。
ジタンが、腕を緩めたから。
その「ジタンが腕を緩めた」という事実が、さらにガーネットを打ちのめした。
彼は、自分をついに手放したのだ。
今更ながら、涙が溢れた。
「もう、いいの」
潮が退くように、激情が消え去ってゆく。
自分の中に残ったのは、もはや空っぽの形骸だけだとガーネットは思った。
「私は独りでもやっていけるから。どうぞ、あなたは好きなところへ行って。そして自由に生きて。今まで、ひきとめて…ごめんなさい。わかってたの。あなたは鳥みたいな人だって。翼を持っている人が一番幸せなのは、空を飛んでいるときなのに、私が重荷になってあなたを地上に引き止めてたんだわ。もう私のことは心配しないでいいから。あなたの思うままに生きて」
信じられないくらい滔々と言葉が流れ出た。
涙は滂沱と溢れているのに、少しも嗚咽は漏れなかった。
どうして自分の頬は熱く濡れているのだろうと、遠いところでぼんやりとガーネットは思った。
「――お前は、思い違いしてる」
苦々しくジタンが言った。吐き出すような突き放した口調だった。
何を思い違いしているというのだろう。彼はこの期に及んでもまだ申し開きをするつもりなのだろうか。いったいどんな言い訳で私を納得させようというのだろう。
蹲って動かない心の隅で遠い自分が自分に言問う。
「俺は、別にお前のためにこのアレクサンドリアに戻ってきたわけじゃない。ここにいるのは、別にお前を幸せにしてやるためじゃない」
ひどく冷たい言い方だった。
凍るようだとガーネットは思った。
これ以上は傷つかないと思っていた心が、完膚なきまでに叩きのめされた瞬間だった。もう、跡形もない。
彼は言い訳をするつもりなどなかったのだ。
ガーネットをぼろぼろにするために、最後通牒を突きつけてきたのだ。
なぜこんなにも傷つけられなければならないのか、それがガーネットには分からなかった。
つい一週間前まで、あんなにも二人は仲睦まじかったのではなかったか。
二人の間にあったあの熱い想いは、こんなにもあっけなく潰えてしまうものだったのか。
愁嘆よりもむしろ訣別の言葉を口の端に上らせようと、ガーネットは血の気のない唇を動かした。が、先んじてジタンが口を開いた。
今度は、しっかりとガーネットを見据えて。
「ここにいるのは、俺が、お前のそばにいたいからだ。俺が幸せになりたかったからだ。俺の幸せは、お前の上にしかないからなんだ」
口ぶりは穏やかだったけれど、それはまごうことなく、彼の心の叫びだった。
「幸せにしてやるなんて俺には言えない。だってさ、俺はいつだって、心配でしょうがないんだ。お前を幸せにしてやれるだろうかって。現に今だって――こうしてお前を苦しめてる」

バラバラに砕け散った彼女の心の鏡に、光が射した。
そんな気がした。