彼はどうしようもなく阿呆だった為、当然の如く孤立した。
 「無邪気ではあるが邪悪であり、悪意はないが極悪」と言うのが残念ながら彼の妥当な評価なのではないか。少なくともわたしはそう思っている。
 彼が何故そうなってしまったのかは、残念ながらわたしの知るところではない。どうやら複雑な家庭環境らしいというのは聞いたが、その程度でトラウマだの何だのと言って性格が歪んでしまうこともあるまい。漫画じゃあるまいし。大体、そんなことを言い出したらわたしだって相当なものだろう。悲劇のヒロインを気取りたいこともあるが、それで立ち行かない現実は知っている。だから、わたしはわたしなりに普通に生きていると自負していた。

 まあ、非常に致命的なある一点を除いてだが。

 彼を見ていると本当に苛立つ。苛々すると言うよりは、やきもきする。たまに目が合うと落ち着かない気分になる。何故かと問われれば答えには窮してしまう。自分でも良く分からないというのが本音だからだ。
 あまり彼を気にし過ぎた所為か、何時まで経っても妹離れの出来ない不肖の兄からは色々と問い詰められた。彼のことをどう思っているのかと言うのがその主旨だが、その問いには答え辛い。口ごもるわたしの様子をどう思ったのか、あからさまに不愉快そうな兄には溜息が尽きない。

 「優しい人」と、わたしは彼を評した。嘘ではない。限りなく嘘に近いと自覚しながらも、兄に対して当たり障りなく返答するにはそれが最も適切だったからだ。曖昧な評価ゆえにどのようにも取れる。案の定、兄は困った顔で頭を掻いて、「もう少し、男を見る目を養った方がいい」と意味深な呟きを漏らした。
 男を見る目とは、良く言ったものだ。彼氏いない暦が年齢とイコールなわたしに、明らかに世間に顔向けが出来ない種類の男である兄がそんなことを、とは。

 思い出し笑いを強引に押さえ込んで、視線の先の彼をもう一度見つめる。
 無口無表情で、容姿は優れている。どこか冷たい眼差しは、馬鹿馬鹿しいと思いながらも憎らしいくらいにオトメゴコロとやらを刺激する。友達も居ない彼だったが、苛められている様子はない。噂によれば、不自然なほどに喧嘩が強いらしく、いわゆる不良連中も手出ししない様にしているようだ。
 本当に、何処の漫画なのかと眩暈がする。
 口を開いては、もっと酷い。これがまた、異常に苛烈でこれ以上ないくらいに格好付けなのだ。それで本当に結果が格好いいのだから始末に終えない。

 ここまで来ると、本当の本当にどうしようもないなあ、と思う。
 あり得ないというか、許せないと言った方が正確なのか。
 勿論、彼のことではなくて。

 瞼を閉じる。両手で額を覆う。
 頬が熱い。とても直視出来ない。

 ああもう、畜生。

 何でわたしは、こんなのに恋をしているのか。



くらの!


第四晶(T):Ghost [T]




 最早戦いとも呼べなかった。
 元より翠星石は性格的に戦いには向いていなかったが、能力的には決して弱い訳ではない。ただし、蒼星石を失い精神の平行を崩した状態に加え、契約者の居ないままでは余りに不利が過ぎる。まして黒曜は蒼星石のローザ・ミスティカを取り込み、更に力を増している。勝負にすらなりようが無かった。

 スィドリームを従え、心の樹を操って攻撃を繰り返す。
 十回、二十回、その度に翠星石だけが消耗していく。対峙する闇色の人形はただ漫然と立ち竦み、周囲を旋回する黒曜石の鋏が半ば自動的に枝を切り裂いていた。それもただ物理的に破壊するのみならず、紫色の炎を上げて燃え上がるそれから力を貪りつくし、攻撃を受ければ受けるほど力を強めるという理不尽。

 閉じたままの瞳には相変らず感情は宿らない。
 その眼前を薄い蒼色の光――レンピカが通り過ぎた。


「ああああああああああ! ぅああああああああああああああああああ!!」


 どうにもならない事くらいは翠星石にも分かりきっている。それでも、だからと言ってどうすればいいかなど分かるはずが無かった。
 言葉にならない悲鳴を上げ、顔を涙でぐしゃぐしゃにして喚く他は無い。
 その情景は癇癪を起こした子供と対応に苦慮する大人の対比にも見えなくは無いが、余りに悲痛過ぎる。

 新たな心の樹が生み出され、対応してレンピカから黒曜石の鋏が打ち出された。ほの蒼い美しい輝きが放たれる。
 その蒼い軌跡がこの上なくおぞましいものに見えるのは、一体何故だろうか。






――三ヶ月前――


「――で、誰にも見つからないまま彼女を連れて逃げ出し、通報して今に至る、と?」

「そうです」


 薄暗い取調室で、彼は刑事の問いかけに首肯した。
 刑事は酷く苦い顔をして、彼の表情を窺おうと身を乗り出し、その真っ直ぐな瞳に溜息を吐く。相変らず読めない。刑事の経験上、彼くらいの少年なら動揺して不必要なことまで喋ってしまい、必要な情報を抽出する作業の方が大変なものだが、彼は全く逆だ。

 これは知能犯、しかも筋金入りの確信犯の類だ。非常に厄介なタイプかも知れないと刑事は思わず憂鬱を覚えた。
 まあ、しかし。

(まだツメが甘い)

 刑事は机に置いた右手の人差し指でこんと音を立て、惚けたような口調で返した。


「なるほど。自供に一貫性はあるし、筋は通ってる」

「だから僕は嘘なんて吐いてないとさっきから――」

「だが、語るに落ちたって奴だな」


 その指先をぼんやりと見つめていた彼の視線が上がり、刑事のそれと交差する。
 この期に及んで揺るぎは無い。だが、自然な風を装って再び視線が逸れるのを見て刑事は勝利を確信していた。
 同時に、本当に嫌な仕事だと思った。


「何の話です? 誘導尋問ですか?」

「いいや、お前はとても頭が良いみたいだからな。そう言うのは無意味だろう。ただ、まあ、あれだ。警察を嘗めるなってことだ」

「……脅迫ですか、それ」


 彼が初めて見せた表情は、底冷えするような侮蔑だった。刑事は一瞬目を見開いて、誤魔化すように頭をぼりぼりと掻いた。「なんてガキだよ、全く」などとぼやきながら、咳払いを一つ。喉が渇いた。コーヒーが欲しい。煙草が吸いたい。残念ながら、時代の潮流と言う奴で、この取調室も禁煙になってしまったのだが。


「お前と彼女の服だ。ほんの僅かかも知れないが最初の被害者の血液が付着していた。科捜研が言うには、二次的にではなく一次的に――つまり、直接血液を浴びた痕跡が見つかったそうだ」

「……何が言いたいのか――」

「分かるはずだ。加えて言えば、お前の服の袖口から被害者のジャケットに使われているものと同一の繊維が発見された。おかしな話じゃねえか?」

「分かりませんね、さっぱり」


 ここに至っても冷静な声音に、刑事は場違いにも感心してしまった。政治家に向いているんじゃないかと馬鹿なことを考えた。
 さて、どうしたものだろうか。何となく天井を振り仰ぎ、ふと部屋が薄暗いことに気が付いた。それから腕時計に目を落とし、「ふむ」と呟きを一つ。
 昔ならこのまま何時間でも粘り、聴きたいことを聴けるだけ聴いてやるところだが、最近は何でも人権だ何だと煩いし、正直自分が疲れている。一旦休憩を入れるのも手だろうと判断し、書記官に目配せで合図をした。同様にうんざりしていたのか、書記官は軽く肩をすくめると、筆を置いて大あくびをする。


「これで終わりですか? じゃあ、帰って良いですか」


 目聡くも弛緩した空気を感じ取ってか、彼は期待していない口調で問うた。


「一旦休憩だ。続きは――そうだな――18時15分からだ」

「それって何時ですか? ここ、時計とかないですから」


 いちいち煩い奴だ。嫌な奴だなと内心思いながら、刑事は「休憩は20分だ」とだけ短く答えて席を立った。






 翠と蒼の本流の只中で、黒曜は未だ一歩たりとも動いていなかった。
 滑稽にして残忍な舞踏は、まだ終わりそうに無い。






――九時間三十分後――


「だから、どうして分からないんだよ!」


 ジュンはもう何度繰り返したか分からない叫びを上げた。
 対峙する真紅は何故かとても遣り切れない表情をしていて、それがどうしようもなく許せない。

 もどかしさのやり場を見つけられず、ベッドに拳をぶつける。
 本当に簡単なことのはずなのに。どうして分からない。どうして分かってくれない。


「あの、ジュンくん、真紅ちゃんが困ってるわ」

「うるさいな! お前は黙ってろよ」

「やめなさい、ジュン。八つ当たりはみっともないわ」

「――っ」


 事情が分からないくせに口を出してくるのりも、他人事のようにそれを嗜める真紅も気に入らない。
 何かが狂っている。確かにジュン自身、冷静でないのも自覚はしている。だが、冷静になれという方が無理と言うものだ。

 あの黒い人形――黒曜と言うらしい――が去った後、ひと悶着はあったものの結果的に真紅は目を覚まし、真紅が倒れたこと自体が黒曜の仕業ではないらしいことは分かった。それはいい。けれど、だからと言って彼女のしたことは許されることじゃないし、真紅だっていい加減目を覚ましたはずだと思っていたのに。


「ジュン、怒りに支配されてはいけないわ」

「怒って何が悪いんだ? 真紅だって分かるだろ? あの黒曜って人形は水銀燈どころじゃなく酷い奴だって」

「それは――」

「どんな事情があったって、あいつは真紅を裏切ったんだ。それに一言だって、謝れなかった。それは、何ていうのか上手く説明出来ないけど、すごく怖くて気持ち悪いんだ。何か壊れてる。歪んでる」


 だからあれは怪物だ。
 真紅のことを呪い人形だ何だと言いはするが、結局のところジュンは化け物だなんて思っては居ないのだ。非常識な存在だとは思うし、こんなのに振り回されるようになったのは全く不幸の極みだろう。

 今だって分かり合えなくて苛立ちはしている。それは、分かり合える筈だと信じているからこそなのだ。分かってくれないと腹を立てるのは、分かって欲しいと望むからだ。

 怒りに支配される? そうじゃない。
 そう言うことじゃない。


「理解出来ない、気持ち悪いと断じて、ただ否定してしまうのは簡単だし、当然の感情なのだわ。裏切りを許せない気持ちも。でも、わたしは彼女の瞳を覗き込んでしまった。悲鳴を聞いてしまった。だから、義務と言うのではないのだけれど、何とかしてあげたいと思ったのだわ」

「それが! 分かんないって、言ってんだよ!」


 興奮の余りか、気付かないうちに涙声になっていた。
 さっぱり分からない。説得力が無いという以前に、意味が分からない。
 悪い宗教に騙されて洗脳されてしまった信者と話をしているみたいだ。話の前提が噛み合わない。

 だってそうだろう? どうして真紅が、あれを助けないといけないのか。


「ジュンくん、その、つまり……真紅ちゃんの友達の黒曜ちゃん? と喧嘩をして、仲直り出来ないって――」

「っ! そんな話じゃない! ややこしくなるからお前は黙ってろよ。だから、クソッ、頭がおかしくなりそうだ」


 百人に聞いたって百人が同じ結論になるとジュンは考えている。あの危険な人形とは関わる意味が分からないし、間違っても助けるなんていう不可解な結論には至らないはずだ。

 ジュンはベッドに腰をかけ、無理やりに填められた薔薇の指輪を忌々しく掻く。舌打ちをもう一つ。
 ああ、認める。今、自分は怒りに支配されている。感情が制御出来なくなりつつある。
 目を閉じて深呼吸をする。余り効果は無かった。

 真紅はジュンのその姿を見て、苦しげに眉を顰めた。彼女だって、自分の言葉が如何に理不尽かを知っていたからだ。
 これ以上は誤魔化せない。真紅はおろおろとするのりに向き直ると、出来るだけ平静な口調で告げた。


「のり、貴方はもう出ていなさい」

「え、でも」

「少し、複雑な話になるわ。事情はきっと説明するから、今は外してくれるかしら」


 納得の行かない様子で見つめてくるのりから視線を逸らす。
 のりは暫く躊躇したものの、結局は踵を返した。

(そう、複雑な話だわ。わたし自身、荒唐無稽だと笑ってしまう程度に)

 さて、今からととても馬鹿げた話をしよう。






 もう涙も枯れた。
 胸の中を駆け巡る感情は巨大過ぎて得体の知れない何かになってしまった。
 自分が何のために何をしているのかも分からなくなりそうだ。


「うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 翠星石はそれでも殺意を振り絞り、無謀な突撃に止む気配は無い。






――三ヶ月前――


「さて、休憩は終わりだ」

「はあ、いい加減に帰らせて貰えませんか? お腹とか空いたし」


 彼はわざとらしく大声で返すと、盛大に溜息を吐いた。
 刑事はいかにも面倒そうな彼の瞳の色に小さく苛付きながらも、手のひらの中央部分を揉みながら何とか聞き流した。休憩中に後輩からリラックスのツボを聞いたので試してみたのだ。

 彼はその様子を何とはなしに眺めている。


「リラックス出来そうですか?」

「たった今失敗した」


 このガキは何で無駄に雑学に詳しいのか。


「はあ、まあいい。いい加減埒も明かない訳だから、そろそろクライマックスにしたい。あれだ、名探偵が、犯人はお前だとか言いつつ推理を披露して、犯人があっさり動機から何から自供してくれるとか言うあれ」

「はあ」

「だから黙って聞いとけ」

「ところでタバコ臭いですよ、刑事さん」

「お前マジうるさいな」


 いや、ここで反応すると相手の思う壺だ。
 実は気にしていたのか、刑事はポケットから煙草消臭スプレーを取り出すとひと噴きして、それから厳しい表情を作った。

 こほんと、咳払いを一つ。


「じゃあ俺の推理だが、最初の殺人は新條桜子の仕業だな」

「――っ」


 空気が凍りついた。


「……何を根拠に」

「何度も言ってる。お前らは返り血を浴びてる。動機は充分過ぎる。ついでに言えば、アリバイも無い」

「それだけで――」

「不自然な点は他にもある。凶器は――鋭い杭のようなものだと科捜研は言ってるが、何故かそれが見つからない。その後直ぐに始まった銃撃戦で死んだ他の連中とはどうも毛色が違う。加えて言えばだ、お前はさっき嘘の自供をした」

「……」


 一息に告げた刑事の言葉に、彼は何も答えなかった。
 相変らず表情は読めないが、刑事にはほんの僅かの動揺が感じられる。

 刑事は彼に考える間を与えるまいと、更に追求を重ねた。


「半分想像になるが、あの夜、黒澤組の連中に拉致られた新條桜子は港沿いの倉庫で暴行を受けた。兄と違って普通の、どちらかと言うと育ちのいいお嬢さんだったと言うから、相当のショックを受けたのは想像に難くない」

「……」

「ああ、睨むな。それで、事が終わった後、女一人と気が緩んだのか一人を残して全員が食事に出たらしい。残った一人も、検死から明らかだが酷く酔っていて、大方眠りこけてたんだろう。さて、あの倉庫には直径四ミリ長さ四十センチの手ごろな鉄筋がそこらに合った。女の細腕でも充分振り回せるサイズだろうな」

「……それで?」

「新條桜子は復讐を実行した。酔って眠りこけた野郎の一人くらい、刺し殺すのはそう難しくないからな。で、そこで五島会のチンピラどもを引き連れてお前が到着した――まあ、一目瞭然の状況にお前は大層怒り狂っただろうな、黒澤組の連中が帰ってくるのを待って五島会をぶつけたって所か」

「……」

「顔色が悪いぞ? で、幾らなんでも新條桜子をその場に残すのはまずいってんで、お前が倉庫から連れ出した。凶器もそのとき処分したと俺は見ている。それから新條桜子の様子がおかしいのに気付いたお前はやむなく救急車を呼んだってところだろう」

「……」

「どうだ? 当たらずとも遠からずってところか?」


 ここへ来て漸く彼の様子が変わったことに刑事は気が付いた。尚も表情は無いとは言え、注意深く見れば青褪めているのが分かる。何よりも顕著なのが、左右に忙しなく動き回る瞳だ。

 額には薄らと冷や汗が浮いているようだった。


「そんなもの、全部想像で」

「もう一度言おう、だったら何故お前は嘘をついた?」


 彼が息を呑む音が聞こえた。
 刑事は敢えてそれ以上は言葉を重ねず、彼をじっと見据える。いつの間にかこつこつと机を叩いていたことに気が付き、両手を組み直した。最近はこう言うのでも自白を強要した根拠にされるらしい。弁護士もご苦労なことだと思う。

 耐えかねてか、彼が両の瞳を閉じる。刑事は勝利を確信した。
 彼の口元が緩み、何かを語ろうとするのを見て刑事は身を乗り出しかけた――ところで。


「ウンザリだ。タバコ臭い口でそれ以上喋るな」


 彼の唇は右肩上がりの三日月に歪んだ。






 無尽蔵に力が発揮出来る訳でもなく、翠星石は力尽きるのが近いことを悟った。そのことに気が付く程度まで彼女は落ち着いたのだ。
 いつの間にか嵐のような感情は胸の中を巡るうちにじっとりと彼女の深い部分にこびり付き、ただ静かで冷たい憎悪だけが残った。最早言葉は必要ない。ただ、眼前の敵を排除する事だけを考える。

 冷静に見て攻撃は後一回。
 その無意味さに気が付いていながらも、翠星石は一歩を踏み出した。

 対照的にますます輝きを強める蒼――【庭師の鋏】の悪質な模造品を眺め、枯れたはずの涙が一筋零れるのを知る。


「蒼星石……ごめんなさいです」


 約束を守ることはもう出来ない。






――十時間後――


 のりが部屋を後にしてから、二十分ほどが過ぎた。
 その間に幾らか冷静になったのか、ジュンは閉じたままだった瞳を開き、打って変わって穏やかに呟いた。


「真紅、あいつはおかしい」

「そうね」

「平気な顔で人を殺そうとするのは怖い」

「そうね」

「だけど、あいつは僕を刺し殺そうとして失敗した後、酷く傷ついた顔をしていたんだ」

「そう」

「謝りもしなかった」

「ええ」

「まるで自分は悪くないとか、被害者みたいな感じで。真紅が倒れた後も、僕に何も言い返さないで逃げた」

「そう」

「あいつ、本当に、自分が何をしたのか分かってないのかも知れない」

「わたしも、そう思うのだわ」

「真紅は、それに同情と言うか、可哀想だって言うんだろ」

「……」

「僕は、そこが一番怖い」


 ジュンはそこまで言い切ると、疲れたような溜息を漏らした。
 同時に、何故か真紅は思いつめたように視線を逸らす。


「ジュン、落ち着いて聞きなさい」

「何だよ」

「黒曜のお父様――Tarot(タロー)は……お父様とは、わたし達なりの呼び方で、製作者、人形師のことなのだけれど」


 要領を得ない真紅の物言いに、痺れを切らしたジュンがベッドから身を乗り出す。
 その姿をぼんやりと眺めながら、真紅は自分が誰を悲しんでいるのかと自問していた。

 それが実は、自分なのだと自覚した時、吐き気がするような自己嫌悪と共に声を絞り出していた。


「Tarot(タロー)とは、ジュン、貴方かも知れない」

「は? な、何言って――」


 彼女は薔薇乙女に似ていると思った。
 ただ、エスプリが違うと感じた。

 そして、そのエスプリと同じものを見た。


「黒曜は貴方の娘なのかも知れない、と言ったのだわ」

「わ、訳が分からない。真紅、それはどう言う」


 そしてその原型も予想出来ている。

 そうだ、白状しよう。
 最初から彼女は直感していたのだから。
 あの時、黒曜を前に心中では確かにこう叫んでいたのだ。


 ああ、本当に。
 こんなものを、一瞬でも似ているなどと思ったことが赦せない。
 この、真紅の ”レプリカ” 風情が――っ。


 と。


「つまり、黒曜は、ジュンが作ったのだわ」






――三ヶ月前――


「――ああ? 何だと?」


 刑事の怒りの声に、僕は憎たらしく鼻で笑って答えた。
 閉じていた瞳を開き、少しだけ低い位置のある刑事のそれを見下すように見据える。


「臭いって言ったんだ。べらべらと得意げに煩い」


「――っ、ほお、そうか、悪いなそりゃあ。それが本性って訳か、ええ?」


 これまでだ。
 刑事の推理は完璧でないにしろかなりの部分で正しい。
 正しいが故に、僕は償いをしなければならないのだろう。
 言い訳はある。けれど、結果として犯した罪は間違いなく僕のものであって、僕が背負うべきものなのだろう。

 本音を言えばこのまま認めてもいい。
 碌な人間じゃないことは、僕自身が知っている。その所為で桜子さんが酷い目に遭ったのだから、一番僕を赦せないのは僕だ。

(だけど)

 あの時の吐き気を催す情景と言葉が脳裏を離れない。
 このまま僕が捕まってしまったとしたら、彼女はどうなってしまうだろう。

(だから、最低でも、最悪でも、何でもいい)

 そうだろう? 何時だって僕はそうして来たのだ。だからそれをもう一度繰り返すだけのことだ。


「長々と素晴らしい推理をどうも。素晴らしすぎて笑いを堪えるのに必死でしたがね」

「てめえ、何がおかしい」

「そりゃおかしいでしょう。そもそも何で僕があの女の殺しを庇うんです? あの女の所為で妙な疑惑まで掛けられて僕は迷惑な訳です。意味不明ですけど」


 さっぱり分からないと言う風に頭を振る。
 その態度が余ほど腹に据えかねたのか、刑事は机を殴りつけた。


「迷惑? 意味不明だと? 悪趣味なビデオは俺も見せられた。あの娘はずっとお前に助けを求めてたんだ、それをお前――」

「……っ」


 思わず声を漏らしかけ、無理やりに下卑た笑みを浮かべる。


「はっ、下らない。刑事さんも家に帰ってそれで抜いたんでしょ?」

「てめえ!!」


 机越しに胸倉を掴まれる。


「何だそりゃ。何だそりゃあ? 何言ってんだてめえは、それじゃ余りにあの娘が救われねえだろうが」

「だから僕が何であの女を救わないといけないのか」

「っ、このクズ野郎が――っ、ああ、分かってるよ、畜生」


 流石に興奮しすぎだと思ったのか書記官が刑事を僕から引離した。
 刑事は「畜生」と何度も吐き捨ててから、改めて僕の正面にどかりと腰を下ろした。


「じゃあ、いいぜ、クズ野郎。もう一度聞いてやる。あの夜、何があった?」


 僕は背筋を伸ばすと、努めて面倒そうな声で語り始めた。


「あの夜は元々、僕はただ教科書を取りに行っただけです」

「教科書? 何の話だそりゃ」

「だから教科書を取りに学校の最寄り駅まで来たんです。そしたら何かチンピラがたむろってましてね、何故か絡まれて、僕が教科書を取りに行くって話をしたら車で送ってくれるって言うんです」

「だから、てめえは何の話を――」

「そしたらどうも行き先が学校と違う。山じゃなくて海のほうへ行く。で、倉庫の目の前まで来て、ここだ、なんて言う訳ですよ。それで――」

「そんで巻き込まれたとでも言うのか、てめえは」

「そうですよ、そのあとは何かあいつらが勝手に盛り上がって勝手に死んだだけです」

「ふざけるなよ、てめえ。何人死んだと思ってるんだ!!」

「さあ? それは不幸なことですが、僕と関係ないで――」


 僕は最後まで言えず、衝撃を感じたと思えば床に倒れ付していた。
 頬が少し痛む。殴られたのだろう。

 大した痛みでもない。半分は大げさにする為に自分で倒れこんだ所為だ。
 それよりももっと胸の辺りが痛い。
 最低を自覚しながら、その最低さに耐え切れずにじくじくと何かに浸食されている。つまりそれが最低だ。
 僕は最低にもなりきれない程度に最低なのだ。

 のそりと身を起こすと、刑事は書記官に取り押さえられていた。
 書記官の言葉を聞くに、気持ちは分かるが、まずいと言うような主旨のようだ。
 残念ながらまずくは無い。僕はむしろあり難くさえ思った。

 鼻の奥を突くつんとした刺激の結果が、殴られた所為で誤魔化すことに成功したのだ。


「ちょっと撫でられた程度で涙目とは軟弱だな、おい」


 ありがとうございます、と僕は場違いな礼を心中で刑事に返した。


「次は無いぞ、ふざけるのはやめて説明しろ」

「……そもそも、一介の高校生の僕がやくざを引きつれて、って言うのに無理がありません?」

「一介じゃないからだろう」

「一介ですよ、ただの土建屋の息子ですよ、僕は」

「土建屋だ? いい加減警察を嘗めるなって言ってるだろうが。てめえの親父が会長をやってる土建屋は、要するにフロント企業だろうが!」


 その通り。警察は全く優秀だ。
 罵倒が酷く心地良い。マゾじゃないつもりだけど。
 単に罵られる方が気持ちが楽だと言うだけだ。

 僕は改めて居住まいを正すと、胸の前で両手を組んだ。
 さあ、一世一代の大嘘を始めよう。


「ええ? 黒澤曜一ぃ!! 黒澤組組長の息子がカタギか、ああ!?」


 ご期待に応えて、僕は、悪党の笑みを浮かべた。






 最後の一撃は当たることなく、残酷に結末は訪れた。

 翠星石の放った世界樹の槍は、”彼女”の喉を貫く寸前で止められていた。
 ただし、”彼女”の胸は背後から黒曜石の剣に貫かれている。


「……っ、うぅ、あぁ」


 翠星石は再び荒れ狂う感情に言葉にならない呻き声を上げた。

 涙は枯れ果て、怒りも悲しみも絶望も全て静かに憎悪へと昇華したはずだった。
 けれども、まだ足りない。そんなものですらまだ足りない。


「ぅ……ひっく、うぇえ、うぁぁ」


 最終的に残ったのはそうではなく、悲痛なまでの虚しさだったのだから。


「ああ、危ないな」


 悪魔が艶めいた声を上げた。


「もう少しで、蒼星石に当たるところだった」


 自ら再び串刺しにした”彼女”――蒼星石の亡骸を、黒曜は開いた方の手で、不自然なまでに丁寧な手つきで撫でる。


「……ひっく、ひっく、ひぅ…………て、下さい」

「……」

「もう……嫌ですぅ……ぅぅ、返して」


 地べたに座り込み、翠星石は両手で顔を覆って泣きじゃくった。


「蒼星石を、返して……返して、下さい」

「……」

「返して……返して……返してぇ……」


 直後、どさりと蒼星石の体が滑り落ち、翠星石はそれにすがり付いてもう一度泣いた。





 それから暫く。
 翠星石が次に顔を上げた時、黒曜の姿はもう失せていた。




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後書き by XIRYNN

 大変長らくお待たせしました。いやすみません、マジで。
 伏線回収の会の始まりですね。

 ネタだけは考えていたものの、上手く表現する方法が思いつかなくて大変時間が掛かってしまいました。

 まあ、今回だけでは正直、意味不明だと思いますので、次回はなるべく早く書き上げたいと思います。


Presented by XIRYNN:
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