アルサーンスの空の下で                  
 
  第五章  
             
 
 

 ダルダの右腕が、ディオを鷲づかみにせんと風を切り裂いた。爪の先が、顔面を撫でるように、上から下に落ちる。とっさに後ろに倒れ込みながら傾けた、ディオの体を掠める。
 前髪を数本奪い取り、制服の胸元を細く裂いたダルダの腕が、目的を達することなく、地に突き刺さった。
 しかし。
「くっ」
 ディオの体が、仰向けとなる。その背が土で汚れるより早く、ダルダの体が舞う。強く蹴った両足と、つかんだ地面を抉るようにして掻いた右腕の力で、空を飛ぶ。倒れ伏す、ディオの体の上に圧し掛かる。
 ディオの指先が、引っかくような微かな動きを見せた。
 衝撃が、ディオを襲う。したたかに、背を地に打ちつけ、呼吸が止まる。だが、痛みはそれだけだった。残る衝撃は、ただ不快なもの。空を滑空することだけを余儀なくされた魔法弾が、大きく旋回し、真横からダルダを襲った、という事実からくる現象。
 頭の先から足の先まで、降り注ぐダルダの残骸に塗れ、ディオは思わず呻き声を上げた。
「大丈夫か」
 かけられたセシルアの声に、即座に答えることができず、また呻く。
「ディオ!」
「は――はい。大丈夫」
 ――です。
 最後の言葉をダルダの血と共に呑み込み、ディオは軽くむせた。
 上体を起こす。口の中にあるものを吐き、膝を立てる。その直ぐ側に、セシルアが立つ。
「また、来るぞ」
 ディオにもそれは分かっていた。唸り声は、まだ聞こえる。一つではない。二つ、いや、三つはある。それが遠く、あるいは近く、揺らぐように響いてくる。あたかも空間を瞬時に移動でもするかのように、鼓膜を震わせる。
「先に、この空間を何とかせねばな」
 セシルアが低い声で呟く。
「次もまた、まぐれが出るとは限らんだろう」
 まぐれじゃなくて、実力です、実力――。
 なんてことを言い返すほど、ディオには余裕がなかった。セシルア以上に、今、自分が生きていることが不思議だった。正直、魔法弾の扱いには自信がない。あれだけ遠く離れてしまったものを、よくコントロールできたものだと、自分で自分に感心するほどだ。セシルアが考えている以上に、次も上手くいくなどとディオは思っていなかった。外れてしまう分には、まだ罪は浅いが。狙い損ねでもしたら、接近戦を強いられているだけに、とんでもない被害を出す恐れがある。
 一発で、当てていかなきゃ。ダルダが飛び込んでくる瞬間を逃さず。でも、どこから飛び出てくるか、見当もつかない状況では――。
「光波結界は張れるか?」
 セシルアの声が、ディオの思考を中断させた。言葉ではなく音としてそれを捉えたディオは、もぞもぞと口を動かした。
「……え、ええと」
「聞こえなかったのか? 光波結界は張れるかと聞いている」
「は、はい。できます。でも」
「では、しっかり頼むぞ。何、一分持たせてくれればいい。その間に、私がこの空間を丸ごと切り裂く」 「はい」
 と返事をしてから驚く。
 空間を丸ごと切り裂く? そんな強大な魔力、どうやって?
「何をぐずぐずしている!」
「はい、ええと、バスバ・フェル」
 勢いに押されるまま、ディオは呪文を紡いだ。二人を中心に置いた形で、薄っすらと地面に輪が刻まれる。指でなぞったかのような輪郭に、光が走る。あっという間にそれは溢れ、青白い炎のように燃え上がった。高く、低く、光の先端を揺らめかせながら、ディオとセシルアを守る壁となる。
「よし」
 短く頷き、セシルアは、自分の右手首を左手でつかんだ。
「これで長い呪文が組める。唱え終わるまで、持ち堪えろよ。ベルナ・エス・ドマール――」
 言葉の終わりが、低く唸るような響きとなる。魔力というより気の全てが、一点に注がれていく。セシルアの右の掌、その先端に……。
 光の壁に衝撃を感じ、ディオは思わずよろめいた。続けざまに二回、ダルダが体当たりをかましてくるのに耐える。さらに後ろ、そして側面。両方とも別のダルダだ。セシルアに一分持たせろと言われた時は、あまり馬鹿にするなと反抗心を持ったが。
 マジで一分、持たないかもしれない。やっぱりこいつら、おかしい。
「――トル・エンダ」
 セシルアの声が、徐々に高くなる。それに合わせるように、壁を打つ衝撃が激しくなる。正気を失った目で、ダルダが突進する。
「ウナ・レドラス!」
 その言葉と、光の壁が打ち破られるのとは、同時であった。ダルダの太い強靭な腕が、壁を超え、セシルアを打ち倒さんと振り翳される。ディオがガントレットを翳す。
「ワルド・ラス!」
 ディオの放った魔法弾が、狙い通りにダルダを貫く。巨体が散り散りに砕け散る。
「やはり……思った通りだったな」
 軽く肩で息をしながら、セシルアが言った。
「ここら一帯、意図的にいくつもねじれが作られていたようだ。形としては、魔力を一本の紐状にし、空間に絡めるように通すことで、あちらこちらを歪めていた。まあ、そんな感じだな」
「一本の、紐?」
「ああ。だから、今の一撃だけで断ち切ることができたのだ。もし、空間を歪めるポイントがそれぞれ独立している形であったなら、その一つ一つを破壊していくしかなかったからな。ともかく、空間は元に戻った」
 ディオは、改めて周りを見た。目の前に、突然現れるまで姿が見えなかったダルダを、はっきりと認識する。斜め前、十メートルほど離れた所に一匹。そこから左に外れる位置に、もう一匹。それで、全部。
 ――じゃ、ない。
 不意に、背後に寒いものを覚え、ディオは後ろを顧みた。暗闇の中に点々と浮かぶ、蒼白い墓石。空間に、もう歪みはない。見えている物が、そこにある全てのはず。
 なのに、感じる。何者かの気配を。しかも、これは――。

 
 
  表紙に戻る         前へ 次へ  
  第五章・3