アルサーンスの空の下で                  
 
  第五章  
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 ディオは前に向き直ると、強くセシルアの腕をつかんだ。
「――い、いきなり」
 セシルアの声が跳ね上がる。
「何をする!」
「いました」
「それくらい、見れば分かる。というか、どこを見ている。ダルダはあそこに」
「そうじゃなくて」
 ディオはするりと手袋を外した。その手でもう一度セシルアの腕を取り、息だけで呟く。
「影です。あの……影」
 セシルアは沈黙した。その冴えた瞳は、二匹のダルダしか映していなかった。しかし、彼女の脳裏には、それとは全く別の情景が浮かんでいた。ディオの手を通して送られてきた、背後の闇が。
 暗闇の中で、漆黒が揺らめく。強大な魔力を内に秘めた襞が、音もなく形もなく、こちらを見据えている。じっと、その時を待っている。
 セシルアが、心だけで囁く。
『お前は右から行け』
『はい』
『ダルダが向ってくる、その瞬間に飛び出せ』
『分かりました』
『来るぞ』
 一際高く、ダルダが雄叫びをあげた。ぎりぎりと牙を剥き出し、突進する。唸り声と地を蹴る音が、すぐ目の前で騒ぐ。
「くらえ!」
 ダルダの腕が、大きく空間を抉った。その腕に引き裂かれでもしたかのように、ディオとセシルアの体が左右に散る。大きく横に弾けながら、身を翻す。五感では捉えきれない、闇の奥にある対象物に気を合わせる。一本の糸で繋ぐように、影と自分の手の甲とを結ぶ。
「ワルド・ラス!」
 閃光が走った。右から、そして左から。ディオとセシルアの放った魔法弾が、闇の深部を貫く。
「……な、なんだと?」
 二つの魔法弾は、互いに相手を呑み込むように重なり、丸く膨れて弾けた。残された空間には、ただの闇。影は消えていた。消したわけではない。手応えは、全くなかった。
「転移……したというのか? 一瞬で、莫大な魔力を必要とする自法転移を。あの無なる状態から、一気に魔力を高めて……そんな、そんな力を持つ者は」
 大きくセシルアが、首を横に振る。その勢いのまま、ディオを振り返る。
「転移先は分かるか?」
「分かりません」
 地に左手をつけ、ディオが答える。
「ここには何もありません。もともとあの影は、空間に浮いていましたから。地面に接触していたなら、何か少しは残ったかもしれませんが」
「浮いていただと?」
 セシルアの目が、また険しく闇を見る。
「どうやら……とんでもない相手のようだな」
「ええ」
 ディオは手袋をはめながら言った。
「それより、どうします? ダルダ、逃げていきましたけど」
「追う必要はなかろう。ダルダを操っていたのは、あの影だ。墓から何かを掘り出したとしても、それを持っているのはダルダではない。とにかく、ダルダの線から探るのは、もう無駄だ。撤収するぞ」
「そう――ですか。あっ、ちょっと」
 セシルアの頭上を飾る背の高い帽子が、もぞもぞと尻尾を出したのを受け、ディオは慌てて言った。
「あの、バジルさんだけ、呼んでもらえますか。ちょっと調べたいことができたので。あの影の」
 セシルアの顔色が変わる。
「影の? お前、何か分かったのか?」
「あ、いえ。分かったのではなくて、分かりそう、というか。分からなかったことがやっと分かった、いや、分かるかもしれない、ような」
「男のくせに、ごにょごにょとはっきりしない話し方をするな。明解に話せ!」
 腕を組み、憤怒の表情を浮かべ自分を見据えるセシルアに、そっちこそ、もう少し女性らしい話し方をして下さいよと、胸の内だけでツッコミを入れ、ディオは言葉を組み立て直した。
「さっきの影。なんというか、妙な違和感があって。現場で感じたものと、微妙にずれがあるというか」 「ずれがある? 別人ということか?」
「いえ、同質のものは、確かに感じました。間違いなく今の影は、あの日、ファルスの聖会にいた者です。ただ、それが完全に一致しない。というか、残っている記憶に、不可解な部分が出てきてしまって。だから、もう一度あの時の記録盤を確かめて――ひょっとしたら、読み取りの過程――いや、盤に移す途中で、何か大事なものを――」
「ディオ・ラスター」
 いつの間にか、セシルアにではなく、自身に向って話すかのように俯いていたディオが、顔を上げる。
「は、はい?」
「それで、明解に話したつもりか」
「えっと」
「さっぱり、分からんぞ」
「――ですよね」
 思わず漏れ出た言葉に、セシルアの眉が吊り上る。
「お前、ふざけているのか!」
「いえ、そうではなくて」
 ほとほと困ったという表情で、ディオは答えた。
「上手く説明するのが難しいのですが。一言で言えば、それが特心眼の特徴であると。署長も記録盤をご覧になられたと思いますが、ああいう風に目で見える形で残す場合、当然、目で見える範囲が記録の限界となるんです。でも、実際に特心眼を使った私には、映像には映らない、形の中にある本質みたいなものが見えていて。例えば今も、闇の中の影を捉えることができたのも、姿形ではなく、気配とでも言うべき記憶が残っていたからこそ、察知することができたわけなんです。ただ、これは逆にも言えることで。本質的に見抜く力はあっても、その場の微細な情景までをも読み取ることには限界があって。もし、自分が見えたままを映像化したなら、もっとあやふやで、情報として極めて不足な状態になってしまうのです。なので、ある程度、目で見て分かるレベルまで補足するというか、形のないものに形を与えるというか。そういう作業を行う過程で――うん、多分、あの時――」
「ディオ・ラスター」
 ディオは、また下がりかけた視線を上げ、セシルアを見た。
「はい?」
「やはり、分からんぞ」
「……ですよね」
 溜息と共に、そう吐き出す。そこに、セシルアの声が被さる。
「分からん以上、私も立ち会うしかないな」
「…………へっ?」
「要するに、今からもう一度、記録盤を見たい。そういうことだろう?」
「まあ、そうですけど。あの、ただ見るわけじゃないんです。新たに記録を取ってもらわないといけないし。朝までかかるかもしれないし」
「別に私は構わん。そうと決まれば、すぐに戻って始めよう」
「いや、この作業って、結構繊細で。できるだけ、こう、心穏やかに。気遣いのいらない人のサポートで」
「全署員に告ぐ。本日の任務は終了。撤収せよ」
 だから、あなたが一緒では、やりにくいんです!
 もこもこの尻尾に向って撤収命令を繰り返すセシルアを見つめながら、ディオは必死に心の中で訴え続けた。

 

 
 
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