アルサーンスの空の下で                  
 
  第七章  
             
 
 

 こうして息をしているのが、未だに信じられない。肌の色はただ白く、赤味というものがまるでない。痩せた棒のような体は、触れると木でできたからくり人形のような、硬い感触を返してきそうだ。作り物のような雰囲気は顔も同じで、眺めていると、ビヤンテ区国のアーラフエルド美術館に展示されていた、大理石像と重なる。いや、生気という点では、石像の方が上だ。隆々とした筋肉を誇示する男性像も、柔らかく丸みのある曲線を魅せる女性像も、今にも動き出しそうな躍動感と、豊かな表情があった。だが、この目の前の少女にそれはない。静と彼方を見据える眼差しすら、ない。
 ディオは軽く体を屈めて、少女の顔を覗き込んだ。
 まだほんの子供の頃、一度か二度だけ、少女の姿を遠くから見かけたことがあるが。こんな風に、間近でじっくり見るのは初めてだ。よく、娘は父親に似るというが。彼女の中に、ベルナード聖使徒の面影はない。鼻筋、唇、顔の輪郭、どれも違う。恐らく、少女が産まれて直ぐに亡くなったという母親似なのだろう。そう思いながらも、似ているところを探す。
 耳、髪の色、これも違う。後は……。
「あの、澄んだ緑の瞳……」
 ディオは固く閉じた、少女の瞼に視線を落とした。
 このくすんで落ち窪んだ瞼の下に、あの輝く瞳があるのだろうか。アルサーンスの山を覆う、豊かな緑。あの色と同じ瞳が、ここに。深く、優しく、底に信じられないほどたくさんの光を含む瞳が――そう、アンジュも。アンジュも、そんな目をしている。瞳の色は違うけど、質感はそっくりだ。そう言えばアンジュ、今頃どうして――。
 くうううぅ。
 意識外で奏でられた音に、ディオは赤面した。繰り返し鳴る、空腹を知らせる音を諌めるように、両腕で下腹を摩る。確かに、旅に出てからというもの、あまり食事には恵まれていない。日に三度、どうかするとそれ以上、エマの作る料理を懐かしく思い出し、現実を嘆く日々が続いた。
 だからって、アンジュの顔を思い出したとたん、腹が鳴るってのもな。
 あまりにも原始的な条件反射に、ディオはまた独り、恥じ入った。誰が見ているわけでもないのに、頭をかき、照れる。この旅の間中、装着することが義務付けられた、ガントレットを意味なく弄る。それら一連の動作で少し落ち着くと、ディオは真っ暗な窓の外を見やった。
 仮眠をとる前にはあった町の灯りが、随分と遠くなっている。奥に、そして下に、沈んでいる。夕陽に照らされた小さな湖のような煌きに、しばし感嘆の息を零す。しかし、それももうすぐ見えなくなるだろう。すでに列車は、トラント山の谷間に差し掛かっていた。
 この先、峡谷に沿って、大きく左にカーブを取れば、窓からあの煌きを望むことは不可能となる。後はただ、闇ばかり。星は出ているはずだが、車内の明かりが邪魔をしているので、よくは見えない。
 月は、どっちだろう?
 心地よい揺れをその腕に感じながら、窓枠に肘をつく。ぴったりとガラス窓に頬をつけ、一度空を見上げてから、視線を下に戻す。最後尾の車両が、目に入る。
 カーブだ。
 するするとそれ自体が伸びていくように見える列車を眺めながら、ディオは思った。七両目、六両目、五両目、そして、
 四両目……って、え?
 跳ねるように、ディオは立ち上がった。徐々に引き離されていく四両目を見据えながら、制帽の尻尾に向って叫ぶ。
「ベッツさん、マーチェスさん。後ろの車両が――」
「分かってる! 前もだ」
「え?」
 その声に、ディオは反対側を顧みた。窓越しに、先頭の二両を引き連れた動力車が、三両目以下を残して走り去っていくのを認め、声が上ずる。
「これは、敵? 敵はどこに?」
「連結部分にはいない! 車両に誰か入った様子もない! 近くにいるのか、それとも遠くから破壊したか」
「にしては、衝撃がありませんでしたね。離れたところからの攻撃は、考えられません」
 荒々しいベッツに対し、いつもと変わらぬ抑揚のない口調で、マーチェスが続ける。
「上か、下か。それともいったん異空に逃れたか。相手があの影だとすると、十分可能でしょう。いずれにせよ、この形はこちらにとっても好都合。他の乗客を気にすることなく、思いっきり戦うことができます」
「そうだな」
 マーチェスの言葉に、ベッツの声が少し落ち着く。
「来るなら来やがれだ。ディオ、お前はしっかりそこを守れ」
「は、はい」
 と返事をして、ディオは唇を噛んだ。
 自分の役割は、この狭い空間を守りきることだ。それが分かっていてなお、共に戦えないことを悔しく思う。ただ、せめてもと気を張る。手袋を外し、そっと左手を床にあてる。
 無数とも思える雑然とした意識の残りカスを、ディオは意図的に感度を下げて排除した。その分、索敵範囲を広げる。液体を染み込ませるように、床に意識を配る。車両全体をくまなく覆い、直前に残された気配を探る。そこに、新たな異変がないかを探す。
 何も残っていない。何も感じない。やはり、いったん異空に姿を隠したのか。だとしても、仕掛ける瞬間は、その時は――。
 ディオは、自分の感覚の表面を、可能な限り均一に、滑らかにするべく意識を集中させた。イメージとしては、鏡。しかしそれは見た目であって、感触は違う。柔らかさは液体のまま。仮に羽毛一枚そこに舞い落ちたとしても、波紋が広がるしなやかさを維持しつつ、ぴんと張る。羽毛よりも微細な振動を、それで捉える。
 ――あっ。
 ふわりとディオの気が、揺らめきを感じた。さらさらと、砂時計の砂が落ちるように、空間の一部が窪んでいく。異空が広がる。
 この車両の上空で。このコンパートメントのすぐ上で。
「――上です!」
 ディオの叫び声が、衝撃音に打ち消される。直接鼓膜を震わせる音と、制帽から聞こえる音とがクロスしながら辺りに響く。コンパートメントの扉が、そして結界が、姦しく打ち鳴らされる。耐えきれず、ディオは床から手を放した。放す直前、見えた残像に呼びかける。
 天井が裂け、影が直ぐ目の前の通路に落ちた。左からマーチェス、右からベッツ。二人が同時に魔法弾を撃つ。一直線に飛んだ光の弾は、ぶすぶすと影の体にめり込んだ。瞬間、影の両腕が炎を纏う。水平に広げ、それを解き放つ。
 火は、まるで蛇のようにするりと伸び、マーチェスとベッツを襲った。すかさず二人が魔法防壁を張るが、勢いに押され、そのまま通路の両端まで吹き飛ぶ。強く体が打ちつけられたことを示す、どしりという鈍い音。そこに、空気を切り裂くような音が重なる。影の体にめり込んだ魔法弾が、ゴムまりのように弾かれ二人に迫る。
「ベッツさん、マーチェスさん……」
 掠れた声を出し、ディオは口を噤んだ。息を殺し、返事を待つ。ほんの三秒。無限とも思えた時を経て、声が返ってくる。
「大丈夫だ、ディオ。それより」
「決してそこを、離れないように。何があっても」
 マーチェスはそう言うと、制帽の通信回路を切った。改めて、影を見る。

 
 
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  第七章・2