アルサーンスの空の下で                  
 
  第七章  
             
 
 

 男は、くすんだ黒い衣に身を包んでいた。足首の辺りまであるコートのようなデザインで、形だけなら聖使徒の衣と変わらない。白髪混じりの黒髪は、肩のところまで伸びており、細面の顔には、少なからずの皺が刻まれている。
 歳は四十、自分より少し上か。
 そう思いつつ、さらに男を注視する。
 体は中肉中背、顔立ちに、主立った特徴はない。いったん身に纏っているものを脱げば、次に町で会っても気付かぬほどだ。その印象が、マーチェスの脳内で警笛を鳴らす。
 単に凡庸な容姿というだけで、これほどまで己を消し去ることはできない。意図的に、気配を殺す。魔力を使って、自分の存在を無とする。そういう特殊な術を施しているからこそ為せる業だ。誰もができることではない。そんな術をマスターしているのは、バラザクス直属の極秘諜報部員。だが、どのような極秘任務であれ、聖務官に危害を与えてまで、遂行する特権を彼らは持たない。となると、残るは、
「大聖会の闇部(あんぶ)?」
 影を挟んで、ベッツの口がそう動いた。マーチェスが声を張る。
「我々は、アルサーンス聖務署のマーチェス・バズウ、ベッツ・グスタムです。現在、この部屋の人物は我々の管理下に置かれています。いかなる組織であれ、正規の手続きなくして彼女に面談することは適いません。然るべき書類を整え、その上で――」
 マーチェスはそこで言葉を切った。無表情な仮面を思わせる男の顔が、ゆっくりとこちらに向けられるのを見て、低く唸る。
「面談――を、お望みではないということですか。ならば、なおさら彼女を渡すわけにはいきませんね、アルス・ハナ・ダルト」
 マーチェスの左腕が風をはらむ。激しく渦を巻き、嵐の音を奏でる。
「はあっ!」
 一気に放たれた風が、通路の床を滑るように走った。影を貫く直前で、向きを変える。ぐるぐると下から上に、螺旋を描くように風が伸びる。中心に、しっかりと影を捉えたまま、天井まで達する。
 渦巻く風が、中にある者をねじ切るように身をよじった。が、寸前、その風が周囲に弾け飛ぶ。内からの炎と熱風に煽られ、粉々に散る。
「今だ!」
「はいよ」
 一瞬の、隙だった。マーチェスの風を振り払うため、影は己の魔力を全方向に放った。風船を膨らませるようにそれが広がる。薄く、延びる。
「ゾアッタ・エル!」
 魔法の施されたベッツの右腕が、影の薄い魔法防壁を難なく突破した。鋼と化した状態のまま、突き進む。振り向いた影の唇が呪文を紡ぐ前に、拳がそれを粉砕する。
「――っと」
「離れろ、ベッツ!」
 振り下ろした拳の先で、男の姿がぐらりと揺れた。空間の歪みに、右腕が取られる。引き千切られるような痛みが、ベッツを襲う。
「うわあああ!」
「ベッツ!」
「うううっ、くそっ!」
 ベッツは左手のガントレットを、歪んだ空間に翳した。そこに魔法弾を叩き込む。
「ワルド・ラス!」
 腕が、絞られる。反動が、全身を貫く。ボールが転がるようにもんどり打ちながら、ベッツは通路の端まで弾き飛ばされた。
「……ベッツ」
 近付いたマーチェスを、力なくベッツが見上げる。
「大丈夫ですか?」
「分からん」
 左腕で右腕を抱えるように持ったまま、ベッツは首を振った。
「まだ、確かめてねえ」
 その声のトーンに、マーチェスはいったん緊張を解いた。跪き、抱え込んでいる右腕の先を確かめ、ベッツを見やる。
「どうだった? ちゃんと手は付いていたか」
「ええ、しっかり付いています。良かったですね。異空に持っていかれたら、探すのが大変でしたから」
「――はっ」
 ベッツは抱え込んでいた腕を解放すると、大きく息を吐いた。
「あの野郎、いきなり異空に逃げやがって」
「いえ」
 マーチェスの顔に厳しさが戻る。
「逃げたわけではないでしょう。あの者は恐らく大聖会の闇部。公にできない秘密事や、表立って処分できない不祥事などを、裏で処理する組織です。その性質上、表向きは存在が否定されている。つまり、あってはならない部署なのです。それを我々は目撃した。このまま放っておくと思いますか?」
「それって」
 右腕を摩りながら、ベッツが言う。
「腕一本じゃ済まねえってことか」
「その可能性はありますね。まあ、しらばっくれるという手もありますから、見逃してくれるかもしれませんが。でも、目的の方は、諦めたりしないでしょう」
「目的?」
 そう呟いたベッツの耳に、びりびりと震えるような音が響いた。刺激に促されるまま、マーチェスの肩越しに視線を伸ばす。
 震えていたのは、コンパートメントの扉だった。車両の中央、ど真ん中にあるコンパートメント。その一つだけが、雷に打たれでもしたかのように、身を震わせている。
 ベッツが制帽に向って叫ぶ。
「ディオ!」
「――外です」
 上ずった声で、制帽が答える。
「窓の外!」
「くそっ」
「ベッツ、君は上へ」
 囁くような声で指示を出すと、マーチェスは手前のコンパートメントに踏み込んだ。ベッツとのタイミングを計る。五つカウントし、魔法弾で窓を破壊する。
「くらえ!」
 ガラスの砕ける音と同時に、ベッツが叫んだ。動力車から外れ、大きくスピードを落とした列車の屋根に両腕をつき、倒立する。その姿勢から、影の脳天目掛けて踵を振り落とす。マーチェスの放った魔法弾に、ほんのわずかだけ気を取られた敵の頭上を襲う。
 ふわりと、影が身をかわす。ベッツの踵が空を切る。そのまま列車を過ぎ、地に背から落ちる。痛みに喘ぐベッツの上で、影の手が赤く光る。
 とっさにベッツは体を返した。線路の脇を転がる。炎に煽られ、崖の縁ぎりぎりまで追われる。
 激しい爆音が、ベッツの鼓膜を打った。マーチェスがいたはずのコンパートメントが炎を吹き、それが車両全体を瞬く間に包むのを見る。火だるまとなったまま、彼方に走り去るのを見やる。
「……く、そ……」
 低く呻いたベッツの体が、新たな熱風によって弾かれた。その身が、何の支えもない空間に飛ばされる。

 
 
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  第七章・3