アルサーンスの空の下で                  
 
  第七章  
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 ディオは……。
 ディオは、必死に耐えていた。結界を通してなお感じる強烈な熱の中で、マーチェスがどうなってしまったのか。闇に煙る深い谷底へ、吸い込まれるように落ちていったベッツは無事なのか。それを確かめる余裕は全くなかった。
 痛みがディオを圧する。絶え間なく結界を襲う魔力が、直に全身を打つ。信じられないほどの強大なエネルギーが叩きつけられる度、ディオの体から力が抜ける。抗う気持ちが薄れていく。無意識のうちに、心が跪く。
 敵わない。とても、敵わない。余りにも力の差があり過ぎる。もう、これ以上――。  ディオの膝が床に落ちる。荒い息をつく上体を支えるべく、両腕を目の前の座席に乗せる。視界に、淡く、白いものが入る。
 陽炎のような、幻のような、少女の姿。生きているのではなく、ただ生かされている、そんな存在……。
「ぐっ」
 内臓を鷲づかみされるかのような痛みを覚え、ディオは身をよじった。たまらず、吐く。血の色が、少女の白い肌と衣を汚す。
「…………あっ」
 朦朧とする意識の中で、ディオはそう声を漏らした。見間違いでなければ、勘違いでなければ。少女の睫が、その時ほんのわずかだけ揺れた。ぴくぴくと、二度。多分、痙攣かなにか。目覚める前触れでも、意図的に反応を示したわけでもない。意識の外での動き。恐らく、そういうことだろう。でも、だとしても――。
 ディオは両腕で、自らの体を支えながら立ち上がった。
 ローディアは、ただ生かされている。祈りの魔法が、彼女を生かしている。それがなければ、この少女は死んでしまう。だが、祈りの魔法で、死者をも生かすことができるのか? もちろん答えは否だ。どれほど立派な聖使徒であろうと、どんなに優れた魔力の持ち主であろうと、死者に命を与えることはできない。他者に命を施すことはできない。
 命は生者のものなのだ。そしてそれは、全ての者に平等に、一つだけ与えられたものなのだ。だからこそ人は、その命を懸命に生きるのだ。この少女のように、睫一つ揺らすことすら奇蹟と思える状態になってもなお、生きるのだ。祈りの魔法という差し延べられた救いの手を、必死でつかんでいるのは、紛れもなく少女自身。他の誰でもない、彼女の生の力。
「……まだだ」
 低くディオは呻くと、窓の外を見た。無機質な物体でできたような男の顔を睨み、呟く。
「俺はまだ――捨てはしない」
 今一度、精神を集中する。持てる魔力の全てを使って、空間を守る。結界を強める。
「この命、そう簡単に捨ててたまるか!」
 続けざまの衝撃が、ディオの体を貫いた。もはや痛みは感じなかった。ただ命が削り取られていくのを虚ろに感じる。削がれ、抉られ、剥ぎ取られ、徐々に弱まっていくのを覚える。
 それでもディオは、その命にかじりついた。衝撃に、恐怖に、自らそれを投げ捨てることだけは決してしまいと、歯を食いしばり立ち続けた。
 ディオの瞳の中で、影がわずかに俯く。男の顔に陰影が刻まれ、初めてそこに感情が乗る。憎悪と呼ぶべき炎を宿し、影の目が見開かれる。
 来る――。
 もう何度目になるのか分からなかったが、ディオは思った。身構える。来るべき攻撃に、これで最後になるかもしれない衝撃に、備える。
「うっ」
 ディオは、両腕を顔の前に翳し、低く呻いた。予想した痛みはなかった。代わりに別の刺激が、ディオの視界を塞いだ。
 窓の向こうに溢れた唐突な光。掲げた腕を通してなお感じる光。その光が消えてなお、世界を曖昧にする中、ディオは必死で目を凝らした。
 外には、影がいた。その直ぐ側に、別の人影があった。影の両腕をしっかりとつかんでいる男の長い衣が、風をはらんで翻る。薄闇の下、区別はつきにくいが、影とは異なる色をしている。
 深い青。聖使徒の衣。
 ディオの瞳の中で、その聖使徒がこちらを向く。
「……ベルナード……聖使徒様」
 呻くディオに合わせるように、ベルナード聖使徒が何事かを呟いた。しかし、窓と結界に遮られ、声は聞こえない。
「聖使徒様!」
 夢中でディオは窓に近付いた。手袋を外した手を、ぴたりとガラスに付ける。
「ディオ」
 優しい声が、ディオの心に落ちる。
「すまない」
 それだけで、涙が溢れる。宥めるように聖使徒が微笑む。
「悪いがディオ――後を、頼む」
「聖使徒様?」
「娘を」
 聖使徒の顔から微笑が消える。伏せた目が、寂しげに陰を湛える。
「……エルダを……」
「…………?」
「頼むぞ、ディオ」
 ベルナード聖使徒の輪郭が、闇に滲む。絶叫しながら、影が腕を振り解こうともがく。周囲の空間がねじれるように歪むのを見て、ディオはようやく聖使徒が何をしようとしているのかを知った。
「待って下さい!」
 声を限りに叫ぶ。
「だめだ! あなたがいなければ、ローディアは。誰か、誰か、聖使徒様を――ベッツ、マーチェス!」
 歪んだ空間の中に、聖使徒と影の姿が吸い込まれる。消え入る寸前で、それが引き千切れる。ばらばらに砕け、万華鏡のように煌き、広がり、そこに失せる。
 ディオは、すっかり冷えた空間を見据えながら、膝から崩れ落ちた。力なくその場に倒れる。そして薄れ行く意識の中で呟く。
「……ルダ……ルダ……ルダ……エ……ルダ……」
 ディオは、深い眠りに落ちた。

 

 
 
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  第七章・4