もし、セシルアもそう思っていたのなら、不幸はなかったに違いない。だが彼女は自分の生きる道として、オルデアを選択しなかった。それがそのまま受け入れられる組織なら、彼女も力を隠したりはしなかったであろう。聖会の決めた人事に逆らうことは、下手をすれば、罪人同然の扱いを受けることに繋がる。まさか、牢に放り込まれるようなことはないだろうが、あらゆる権利に制約がつけられ、自由を失うことは確かだ。そしてそれは、家族にも及ぶ。いかなる職に就こうとも、いかなる場所に住もうとも、常に監視され、周囲の者に白い目を向けられ、社会の片隅でひっそりと生き、死んでいく。そういう未来が待っている。
「俺の、俺のせいで……俺を助けるために」
「自分を責めるなと、今言ったばかりだろう」
バジルが肩を竦める。
「あの時、署長が祈りの魔法を使われたのは、署長の意思だ。祈りの魔法を施す力があるのに、今まで隠していた。それも、署長のお考えでそうなされたことだ」
「でも」
「何より、あの署長のことだ。心配はいらんよ」
何の根拠もないが、妙に説得力を持つバジルの一言に、ディオは思わず苦笑した。確かに、あのセシルアならば、来るべき運命に際して、後悔をしたり、誰かを恨んだりはしないであろう。そういう質の感情は、彼女の中にはない。強い人だ。その強さにしばしば閉口し、反発し、圧倒されたが。自分は今、その強さに助けられ、生かされている。
「それじゃあ、私はそろそろ。後片付けが残っていてね。今頃ベッツが悪態をついているだろうから」
よいしょと小さく掛け声を零し、バジルが再び立ち上がる。
「お前達が苦労している間、こっちもいろいろ調べたんだが。結局、全部無駄に終わってしまったな」
やれやれという風に首を振りながら背を向けるバジルに、ディオが声をかける。何気なしに、特に考えもなしに、尋ねる。
「何か変わったこと、出てきましたか?」
「いや、何も……ああ、一つだけ」
扉に手をかけ、バジルが振り返る。
「ほら、ベルナード聖使徒様に関係のある墓を洗え、という命令があっただろう? 記録を頼りに、墓地を掘り返してみたんだが。一つだけ遺体がなかった。ソルドノート墓地に埋葬されたものだから、ダルダにやられたのかとも考えたんだが。荒らされた様子は全くないんだよ。ただ、棺の中が空だった。赤い布の中には、綿が包まれていた。もっとも、その子の出身はキッパルの町ということだったから、そっちに転送された可能性もある。実際どうだったのかは、キッパルに問い合わせれば直ぐに分かることだが、今更そんなことをしてもな」
「その子、ということは」
ディオは、上体をベッドに沈めながら呟くように言った。
「子供だったんですか?」
「ああ、十六歳の少女だ。名前は確か、エルダ・リテーストだったかな」
扉が閉まる。かつかつと、足音の遠ざかる音が響く。
ルダ――ルダ――ディオ、娘を、エルダを――。
「バジルさん!」
ディオはベッドから飛び起きた。部屋のドアを、ぶつかるようにして押し広げる。勢い余って、右足が滑る。ノブをつかんだままの手に体重を預けながら、また叫ぶ。
「待って下さい!」
「お、おい……ディオ」
慌てて駆け寄るバジルの腕を、ディオは強く持った。
「俺の扱いって、今、どうなっています?」
「扱い?」
「通常勤務扱いですか? それとも休暇扱いになってるんですか?」
「ああ」
そのことか、という風にバジルは頷くと、ディオを支えながら言った。
「職務中の怪我による休職、ということになっているから、ちゃんと給料は出る。だから安心して、今月いっぱいはゆっくり休んで――」
「今月いっぱいってことは、後二週間、俺は自由なわけですね」
「ん? まあ、そうなるが」
「じゃ、俺、キッパルの町に行ってきます」
きっぱりとした声を放つと、ディオはバジルの手を振り解き、歩き出した。バジルがその肩を押える。
「おい、ディオ、どういうことだ?」
「終わってないんですよ、事件はまだ」
「終わってない? どういう意味だ」
「一体どういう意味なのかは、これから調べるんです。ただ、全てはきっと、キッパルの町にある。エルダ・リテーストという少女が、その鍵となる。最初の現場に残された謎の言葉、ルダ、ことエルダ。最期の瞬間、ベルナード聖使徒様が呟かれた言葉、エルダを頼む、その、エルダ」
「ベルナード聖使徒様が、そのようなことを?」
「はい。ですから俺は」
「分かったディオ、直ぐにフラー副署長に報告しよう。休暇は取り消し。これは任務だ。我々も一緒に」
「いえ、これは俺にやらせて下さい。俺、一人に」
「ディオ」
「聖使徒様に頼まれたのは、この俺です。それに、できれば勤務外扱いのままにして欲しいんです。署員全員で動いては、目立ってしまう」
「目立つ?」
「影はまだ、一つです」
怪訝そうな目を向けたバジルに、ディオは言った。
「ドーレ聖使徒を殺害した影は、ベルナード聖使徒様の手によって葬られました。でも、まだあの現場で、成り行きを見守っていた影が残っています。ダルダを操り、墓を掘り返した。エルダ・リテーストが眠っているはずだった、ソルドノート墓地を襲った」
「それなら、なおさら」
バジルの顔が、蒼白となる。
「一人で動くのは危険だ」
「大丈夫です」
ディオが明るく言う。
「動くのは一人ですけど、逐一、報告を入れますから。何かあったら、直ぐに助けを求めますから」
バジルの眉が、なお一層寄せられる。じっとディオの顔を見つめ、そして深く溜息をつく。
「分かった」
表情が、和らぐ。
「バックアップは任せてくれ」
「はい!」
踵を鳴らし、ディオは敬礼した。そして、駆け出すように廊下を進んだ。
その背を見送るバジルの心に、ベルナード聖使徒の姿が浮かぶ。
聖使徒様、どうか、どうかディオを――。
優しい微笑みを返す脳裏の聖使徒に向って、バジルは祈るような気持ちを捧げた。