蒼き騎士の伝説 第二巻                  
 
  第十三章 ビルムンタルの沼(4)  
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      四  

 暗闇だ。360度、見渡す限りの暗黒空間。その中で、テッドは水に浮かぶかのように漂っていた。頭を動かす。反動で、体が起きる。重力は感じない。が、身体は立ったまま苦もなくバランスを保っている。
 妙だな。
 不思議なことは他にもあった。光のない空間であるのに、自身の姿をはっきりと見ることができる。太陽の光が降り注ぐ中で撮った写真のように、鮮やかな色味だ。
 一体、何がどうなっているのか。
 テッドは首を傾げた。その拍子に、自分とは異なる色が目に入る。ここからは、かなり距離がある。にも関わらず、その一本一本の毛並みまで見て取れる。
「オラム」
 目に映る形を声にしながら、テッドはその方向へ一歩踏み出した。しかし、それは結局意味をなさなかった。すぐ目の前に横たわるオラムを見つめ、首を捻る。
 まるで、自分の声が見えざる鎖となって、オラムを手繰り寄せたかのようだ。
「オラム……。おい、オラム」
 テッドは、未だ意識を失っているオラムに手をかけ、ゆり動かした。その手が止まる。また別の色を知覚し、視線をそこに定める。否、定められる。心の中にある無の部分に何かが忍び込んで、コントロールされているかのような感覚を覚える。
 意識と無意識、半々の支配によって、琥珀色の瞳に小さな球体が固定された。球は外側に向かって強く発光し、輪郭が真っ白に輝いている。そのすぐ内側を薄く縁取るのは、澄んだ空の色。そして残りのほとんどの部分は、純正な青だ。ただしこの青の部分は、輪郭よりも透明度が高い。そのため、空間の闇を引き込み、色が重くなっている。特に中心部分は、それが顕著に現れて、
 いや、まだ何かあるな――。
 テッドは目を凝らした。途端、球体がズームアップする。ピンポン玉くらいに見えていたものが、テッドを包んであまりある大きさとなる。
 最初それは、靄のように見えた。多分、形があったように思う。色は分からない。きっとそれもあったのだろう。だが、テッドの神経の全ては、靄全体よりもその中の一点に注がれていた。毒々しいまでの、赤い光点。大きな二つの目に……。
 ――ガーダ――
 テッドはその短い言葉を、最後まで言うことができなかった。いや、そもそも声にはしていない。思っただけだ。そしてその思考自体が、寸断された。激しく全身を打つ衝撃。強い圧迫。無重力の状態から、急に何倍ものGが与えられたかのようだ。
 苦しい。足掻こうにも体が動かない。朦朧とする意識の中で、一つの色だけが領域を広げていく。覆い被さるように、支配していく。赤い呪縛が、テッドの息をそっと塞ぐ。
「くっ……おおぉ!」
 テッドはあらん限りの力を全身に込めた。ぴんと張った弦が断ち切れるように、大きく体を反らしてテッドは解放された。荒く肩で息をする。ねっとりとした汗が、額から滴り落ちるのを拭う。徐々に呼吸が落ち着き、それに伴い思考が戻る。五感で受けている刺激を、理解する力が蘇る。
 そこは、暗闇ではなかった。石組みの床、石組みの壁。壁には八つの窪みがついており、暖かな光を放つ燭台が納められている。部屋の形が円筒形であることと、その大きさをも考え合わせると、ここが塔の地下であるのはまず間違いないであろう。
 巡らしていた視線を、部屋の中央に据える。小さな円卓。これも石造りだが、塔を構成しているものとは種類が違う。色からして孔雀石のように思えるが、その手の知識は乏しいので確信は持てない。ただ、この円卓の上にも燭台が飾られ、その光によって、模様が羽毛のように揺れ動いて見えるので、テッドの目には、それ以外の想像を拒んでいるかのように映った。
 円卓から視線を、するりと下へ落とす。古びた分厚い布。煤けた色の端には、オラムの太い腕。床に大の字になって横たわるその胸が、穏やかに規則正しく波打つのを認めると、テッドはようやく意識的に背けていた方向へ、顔を向けた。この空間で、最も大きな存在感を示す者と対峙する。
 視線が泳ぎそうになる。避けたい気持ちがまた動く。が、テッドは踏み止まった。定めた視線を維持し続ける。
「そうだ、それでいい」
 円卓の傍らで、同じ素材の小さな椅子に蹲るように座しながら、しゃがれた声が言った。
「でなければ、また己の恐怖に押し潰されるぞ」

 
 
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  第十三章(4)・1