蒼き騎士の伝説 第五巻                  
 
  第十二章 信なるもの(3)  
             
 
 

 アラマツユスリという花には、まだお目にかかっていない。その前に、ギノウが足を止めてしまったのだ。瞬間、ミクの右手がレイナル・ガンを探す。しかしギノウの関心は、背後にいるミクではなく、前方のみに注がれていた。制するように、ギノウの右手が水平にあがる。木の陰で息を殺し、斜面を見下ろす姿に倣い、ミクも心持ち姿勢を低くして、下を覗き込んだ。
 ほんの十メートルほど先の窪地の底に、二つの人影が見えた。獣道と言っていいような、細く荒れた小道がそこから北へ伸びている。恐らく山の上の社に至る脇道であろう。しかし、ふもとに下る道は見られない。どうやら木々の生い茂る山肌を、二人とも強引に登ってきたようだ。
 薬草取り――にしては踏み入り過ぎだ。
 ミクの目が、強く細められる。
 一見、村人のように見える服装だが、どうにも様子がおかしい。一人は腕を組みすっくと立ち、もう一人はその前で片膝をつき、頭を垂れている。明らかに立場の違う二人、そして明らかに庶民の所作にはない形。
「では、全て順調であると?」
「はい、すでに我らの仲間は城への潜入を果たしました」
 かなり離れているにも関わらず、明瞭に声が聞こえてくる。このすり鉢状の地形のせいかと納得しながら、ミクはさらに耳を澄ました。
「よって予定通り、ユイヤヅキのコウイツに」
「うむ、期待しておりますぞ」
 立っている男が踵を返す。その袖を、跪く男がひっしとつかむ。
「お待ち下され。本当に、本当に約束は」
「我が主を疑われるのか。それとも怖気付かれたか」
「そうではありません。そうではありませんが、口約束だけでは誠に心もとなく」
 男の口調がそこで変わる。押し殺すような声に、気迫がこもる。
「レンエン宗復興は我等の悲願。そのために命を賭ける覚悟を決めたのは、何も城に忍びこんだ者達だけではない。必要とあらば、全てを明るみにし――」
「ウル国イグラタメを務めるキゼノサタが、現国王を失脚させるべく、シャン国王を暗殺した事実を世に知らしめすと?」
 ミクは、右手を口元に宛がった。思わず零れそうになった驚きの息を、それで塞ぐ。塞いだまま、さらに見据える。ぴくりと小さく揺れたギノウの肩越しに、立っている男が笑みを浮かべながら屈むのを見る。
「そのような御心配をなされているのか。レンエン宗の方々は」
「我等は……」
「御安心召されよ。そもそも何ゆえ密談の場をここに選んだのか、考えてみられよ。都でもなく、レンエン宗の方々が落ち延びられた南部の地でもなく。この山近くに有志の者を集めたのはなぜか」
「それは」
「もとよりこの山は、レンエン宗のもの。まずはここから始められよとの、キゼノサタ様の思いであられように」
「そこまで」
 跪く男が頭を下げる。
「そこまでお考えとあらば、もはや何も申し上げることはございませぬ。必ずや、シャン国王の首を落としてみせまする」
 深く礼をし、男が去る。追っていきたいが、今動けば立っている男に気付かれてしまう。だからといって、その男を捕えることもできない。キゼノサタの下で動いているのが、彼一人だけとは限らない。下手に仕掛けて、それを彼の仲間が知ってしまったら。事がより深刻な方向に動く可能性もある。
 それだけのことを一瞬で判断すると、ミクは自重を求めようとギノウに目を向けた。しかし王子は驚きのためか、あるいはミクと考えを同じくしたのか、ぴくりとも動かなかった。じっと、佇む男を見据える。その男が、大きなほくろのある特徴的な右の眉尻を引き上げ、何事かを独りごちるのを見る。
「――マルトユ、イヌ」
 ミクの耳にはそう聞こえた。意味は分からない。声が小さ過ぎて、言葉として捉えるには至らなかった。その一言を残し、ゆっくりと山を下る男を見やりながら、脳内の知識で補充を試みる。
 マクト・ム・イナなら「いろりの水」。アル・トヤイヌなら「蝿かぼちゃ」。いずれも全く意味をなさない。やはり、かなり多くの音を拾い損ねたようだ。そう結論づけたミクの耳元に、意味ある言葉が囁かれる。
「すみません」
 ギノウが振り返る。
「アラマツユスリの花を見るのは、諦めて頂けますか?」
「それは、もちろん」
 さすがに表情を強張らせたギノウを見つめ、ミクは言った。
「それで、これからどうなさるのです? あの男の後を追いますか。それとも」
「まず、事の次第を、急ぎ我が父に知らせなければ」
「そうですね。首謀者ははっきりとしているのですから、その方がいいでしょう。にしても、あのキゼノサタ様が」
「いいえ」
 すっと王子が歩き出す。その足を止めることなく、声を放つ。
「彼ではありません」
「彼では、ない?」
「マルトユ、イヌ。あの男は最後にそう言った」
「ええ、確かに」
 急な斜面を登るのに、手の助けを加えながらミクが答える。
「私もそう聞きました。でも、ウル国の言葉に不十分なため、私には意味が」
「あれは、ウル国の言葉ではありません」
 ギノウの足が止まる。顔だけを傾げて、ミクを振り返る。
「あれは、シャン国の言葉」
「シャン国?」
「愚か者め。そういう意味です」
 王子の足が再び動く。前より速くなったその歩みを追いながら、ミクは思った。

 
 
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