「どうやら、かなりの相手みたいやな」
ルウは辺りを見渡しながら呟いた。
「念のため張っておいた魔法壁を、こうもあっさり打ち破るとは」
杖を左手に持ちかえる。
「ええ加減、出てきたらどうや? そこにおるのは、もう分かっとるんやから」
ルウの声が、霧の中に吸い込まれる。十分に染み渡ったのを受けて、それが割れる。まるで扉が開くように、霧が左右に分かれていく。
ルウは、一瞬、顔を強張らせた。しかし、すぐにその口元から笑みを零す。
なるほどな。精神系の魔法、ちゅうことか。
近付く者の、衣が揺れる。ルウと同じ青い聖衣。だが、襟のところがほんの少し違う。金の帯線が二本入ったルウとは異なり、縫いつけられた線は三本。聖都の魔法師の最高峰、わずか三名の賢者と呼ばれし者のみが、着衣を許される衣。
その、青い衣の動きが止まる。
「ルウよ」
重く豊かな響きの問いかけに、ルウはまた表情を固めた。瞼を閉じる。時を少しだけ遡る。
何でや……何で、僕と違うんや……。
聖都ゾーマ。
都と名は付けられているが、大きさはその辺の小さな町と変わらない。だが、そこに集まる者の数は多い。いや、集まるのではなく、集められるのだ。都の中心に聳え立つ、白亜のリュラルス魔法院。その外観と高名を汚さぬ、並外れた魔力を有する、ルウのような天才達が。
魔法院では、総勢三百余名の魔法師達が、己の力を磨き、新たな魔法の研究に励んでいた。だが、彼らが最も時間を費やし、日々鍛錬していたことは、技術よりむしろ、心のあり様であった。
強大な力を持つ魔法は、正しく使えば多くの者達のためとなり、幸福をもたらす。しかし、使い方を誤れば、国をも滅ぼす凶器となる。魔法の才は、誰にでも与えられる物ではない。その才に恵まれ、その才を使うことが許されるのは、ごく限られた存在なのだ。ならば当然、その心も特別でなければならない。強く、清く、しなやかな心。己を律し、他者を愛し、真実、正を為す心。
試練は、過酷であった。乗り越えられぬ者は、ことごとく魔法院から追放された。二度と魔法が使えぬよう、その力を封印されて……。
「ルウよ」
重々しい声が、また響く。
その日、魔法院は朝から慌しかった。三名の賢者、テオ・レンドル、アトパス・ストーク、イゼム・アーベン。彼らの中で、最も高齢のアーベンが、老体を理由にその座を退くことになったのだ。そのための後継者選びが行なわれ、この日、その名が発表された。
ギューム・ダナファト。
魔法師全員が見守る中、新たに賢者となったこの男に、アーベンから聖なる衣が手渡された。拍手と歓声が沸き起こる。新しい賢者への期待、輝かしい未来への確信。
式典が行なわれた広間から、それらの熱気がすっかり消え去った空間で、ルウはまた胸の内で呟いた。
なんで、僕と違うんや……。
「ルウよ」
振り向くより先に、ルウは腰を屈め、頭を下げた。その声を聞き間違える者など、この魔法院にはいない。偉大なる賢者、いや、元賢者であるアーベンの声を、知らぬ者などいない。ましてや自分は、直々にその指導を仰いだ身。個別に弟子を取ったことのなかったアーベンから、「この者はわしが育てる」と、過分なまでのお言葉を賜った身。
ルウよ……。
声の代わりに、師は弟子の小さな肩に手を置いた。そして、穏やかな声で諭す。
「お前は、まだ若い」
「それが……理由や言いはるんですか」
きっと顔を上げ、ルウは畳み掛けるように言った。
「それだけで、僕は」
筋違いであることは分かっていた。分かっていたのに、言ってしまった。深い藍色の師の瞳が、哀しげに揺らめくのを見て、ルウは項垂れた。
「すみません。申し訳……ありません」
肩に置かれたアーベンの手に、少しだけ力が込められる。
「かまへん」
そう小さく呟いた師匠の言葉が、ルウの心を溶かす。溶けた心が、外に溢れ出る。止めどなく涙が頬を伝う。
アーベンは跪き、ルウの肩をそっと引き寄せた。長く白い顎鬚に、ルウは顔を埋めた。震える肩が静まるまで、アーベンは彫像のように動かなかった。それで、終ったはずだった。はずだったのに……。
「ルウよ」
寒々とした師の呼びかけに、ルウはようやく時を戻した。鋭いアーベンの視線を見返す。白い髪の、白い髭の、その先端まで怒気が満ちている。刻まれた皺の一本一本が、険しく深い溝を刻んでいる。ゆらりと背後で揺れる白銀の尾が、稲妻のように打ち震える。
「お前は……ほんまに、お前は」
師の声が、いまだかつて聞いたことのないほどの、荒々しさを含む。
「なんちゅうことをしてくれたんや!」
ルウの周りで風が起こる。強いうねりが景色をも押し流す。消えた情景の代わりに、真っ白な壁が辺りを囲む。また、過去の中に立つ。
選ばれたギュームより、自分の方に才がある。自惚れではない。師も、他の誰もが、それを認めていた。では、魔法師の核となる心はどうであろう。自身で判断するのは難しいが、少なくとも劣っているとは思えない。実際、他者からも高く評価されていた。ゆえに、賢者に最も近い者は、自分であると思っていた。他の者がそう思ったように、自分自身でもそう信じていた。
悔しい思いが募る。もっと強く、もっと確かな才と心を持っていれば、年齢などで落とされることはなかったであろうと、悔やむ。
「これでもう、転命の法は、一生学ぶことができへんようになった……」
自室に戻り、不毛な悔恨を続けていたルウの唇から、そう声が漏れた。
ルウが賢者になることに拘ったのは、地位そのものに執着していたからではない。別に、誰かの上に立とうとか、支配しようとか、そういう気持ちは微塵もなかった。彼の興味は、純粋に魔法のみ。一つでも多くを習得し、それを磨き、その力で誰かを助ける。誰かのために役立てる。それが、彼の夢であり喜びであった。そのためだけに、賢者になりたかった。特別な魔法を手にするために。
滅死の法、相殺の法、転命の法。これら三つの究極魔法は、三賢者、それぞれが一つずつ持つことを許されていた。ルウの師、アーベンが備えていたのは転命の法。それは今、ギュームに引き継がれた。魔法院の奥深くにある紺碧の間で、その呪文が記された魔法書を開く、彼の姿が頭を過る。
転命の法の他にも、まだ二つ、賢者の法は残っている。ルウの力を持ってすれば、将来、それを手にすることは十分可能であっただろう。だが、その時彼は、つかめそうでつかめなかった転命の法に、心の全てを奪われていた。後悔だけが、彼の心を占めていた。
夜の闇が、弱った心の隙間に忍び込む。そっと、ルウを誘う。
ルウは、紺碧の間に立っていた。気がついた時には、そこにいた。
瑠璃色の石が敷き詰められた空間の中央に、白く輝く円卓がある。そこに、古びた書物が一冊、置いてある。
ルウの手が、その書物に伸びる。夢中で読む。綴られた文字がそこから浮き上がり、体の中に流れ込んでくるような感覚を覚える。まるで、自分のことを待っていたかのように、自分のことを望んでいたかのように感じ、心が歓喜に満ちる。
「ルウよ……」
ルウの手から、書物が落ちた。辺りを見渡す。誰もいない。だが、耳に師の声が残っている。
ルウは震えた。そして、そのまま逃げた。どこまでが現実で、どこまでが幻なのか、よく分からない。本当に自分は、あの紺碧の間に行ったのか。それすらも虚ろだ。部屋の情景も、魔法の書も、そして呪文も。どれも曖昧にしか残っていない。はっきりと記憶の中にあるのは、師の戒めの声。ただ、それだけ……。
「お前は」
師の顔が怒りで激しく歪む。
「なんちゅう、愚かなことを」
これは幻や……。
ルウの右手がぴくりと動く。
幻や、幻やけど……。
ルウは唇を強く噛んだ。はっきりと、師ではない者の気配を感じる。感じていながらも、体を動かせない。自らの心が、自らの罪に怯える。自らの良心が、自身を解放しない。許さない。
「ルウよ!」
闇がまた迫る。為す術もなく、ルウはそこに呑み込まれていった。