何でも屋キャンディのお仕事ファイル                  
 
  第四章 喪失の森  
             
 
 

 

 四方を取り囲む霧に向かって、キャンディは忌々しげに言葉を放った。
「何なんだ? これは」
 瞬き一つ、する間があったかどうか。そんな一瞬のうちに、辺りは霧で埋まった。とっさに伸ばした手の先に、すぐ後ろを歩いていたはずのニコルの体がない。その名を呼ぼうとして、止まる。
 これがただの霧でないことは、まず間違いない。おそらく、何者かの意図によるものであろう。無論それは、好意ではない。悪意なり、敵意の現れだ。だがそれは今、誰に向けられているのか。もし、誰かの方に危険が迫っているとすれば、すぐさまその者を呼び寄せた方がいい。逆に、この自分こそが敵の狙いであるとしたら、誰かの名を呼ぶことは、その者を危険に巻き込むことになる。
「……誰だ!」
 迷うキャンディの背後で、かさりと小さな音が響いた。鋭く声を放ち、振り返る。
 白濁した、濁り酒のような空間が、少しずつ澄んでいく。閉ざされた視界が、徐々に遠くまで伸びる。
「……久しぶりね。キャンディ」
 そこに立つ少女の姿に、キャンディは驚いた。驚くと同時に、張っていた気が緩む。
「リア……ラン?」
 懐かしさが、胸に溢れる。
「リアランじゃないか」
 花々が咲き乱れる草原。
 輝く湖水。
 深い緑の森。
 キャンディが生まれ育ったその小さな村は、奇跡のように美しい所だった。穏やかで優しい時に包まれていた、子供の頃を思い出す。時には友達と、取っ組み合いになるような喧嘩をしたことも、先生に悪戯をこっぴどく叱られたことも。少し成長して、切ない恋をしたことも、ほろ苦いはずの想い出までもが、愛しさを伴って心を満たす。
 空間だけではなく、そこに住む者達にも恵まれていたと、今にして思う。そしてこの目の前のリアランも、キャンディにとって大切な存在だった。友達は多かったが、親友と呼べる者は、そういない。リアランは、そのかけがえのない親友だった。
 どちらかというと、いや、はっきりと男勝りのキャンディに対して、リアランはどこまでも女らしかった。キャンディと同じく、純白のふわりとした耳と尻尾に、細く小さな体。その容貌を裏切らぬ、どこまでも愛らしい仕草と言葉遣い。ただ、これだけなら、キャンディはそう強く、彼女に関心を寄せなかったであろう。いかにも男が好む女らしさは、キャンディの苦手とするところだ。だが、彼女はそれだけではなかった。
 月の光のような清楚な佇まいと、絶やすことのない聖母のような微笑。その両方を支える、凛とした心。キャンディは、その芯の強さに、限りない賞賛を覚えていた。
 そんな彼女が、一度だけ弱々しさを見せたことがある。それは、村の若者、ようやく少年の域を越えたばかりといった青年に、恋をした時だった。思ったままを口にしてしまうキャンディと違って、リアランは、なかなか心を言葉にしない。自分よりもまず他者の気持ちを考え、思いやる彼女らしい行動だが、こと恋に関してそんな態度では、実るものも実らない。お節介だと知りつつ、キャンディはその橋渡しを買って出た。
 それとなく、何気なく。
 などと小細工することは性に合わないので、かなり無粋な方法であったかもしれない。それでもその甲斐あって、リアランと若者は付き合うようになった。残念ながら、後に彼らは別れてしまったが。もちろん、そうなってしまったものを、自分がどうこうすることはできない。
 ただ一つ悔やまれるのは、その時、彼女の側にいてあげられなかったということだ。彼らが別れたことは、村を出た大分後に、風の便りで知った。リアランが一番悩んでいた時に、それを聞くことができなかった。彼女のことだ。きっと誰にも胸の内を打ち明けることなく、思い苦しんだことだろう。言葉にして、それを誰かに伝えるだけで、心の重荷は随分と軽くなる。そういう時に、一緒にいることができなかった。それが、あの村での、唯一の心残り……。
「キャンディは、優しいものね」
 銀の鈴を振るような声が響く。
「そして太陽のように明るい。でも……私は月。明るい日差しの中では、輝くことができない。夜の闇の中で、ひっそりと生きるしかない」
「リアラン? そんな……そんな風に、自分のこと」
「あら」
 リアランは、口元に微笑を浮かべた。記憶にあるものと、少し違う。薄く、毒の含んだ微笑。本来なら彼女の可憐さを引き立てる、真紅の衣まで黒ずんで見える。
 キャンディは顔を強張らせた。リアランの笑みが、さらにはっきりとその意を示す。
「私は、自分を卑下したりしていないわ。むしろ、誇りに思っている。太陽のように、傲慢でないことを」
「傲……慢?」
「そうよ」
 リアランの柔和な目が吊り上がる。
「太陽の光が、全てを照らすと思ったら大間違い。山の陰、木の陰、石の下、土の中。光が届かない所は多いわ。でも、太陽はそれに気付かない。照らした部分だけを見て、あたかもいいことをしたように鼻を高くして」
「リアラン」
 キャンディの声が、きつく篭る。
「何が……言いたい」
「あなたは偽善者よ」
 震える声でリアランは叫んだ。
「陰の部分を見ようともしないで、陰に生きる者の心を知ろうともしないで。彼は……彼は私ではなく、あなたを好いていたというのに!」
 噂で――。
 それは聞いた。リアラン達が別れた原因は、お前にあったのだと、非難がましく言う者もいた。そんなことはないと、思っている。あの若者が、自分に恋していたなどと、そんなことは。でも、確信は持てない。なぜなら彼も、心のままを表には出さない。リアランのように、いつも誰かのことを先に思いやる、そういう……。
「だから、憐れに思ったの?」
 リアランの声が冷たく響く。
「自ら輝くことができない、可哀想な私達に光を当てようと?」
 可愛らしい口元が、強く歪められる。
「それで私達を助けたつもり? 光には必ず影が伴うことも気付かずに。その影がより濃く、より深く、心の底を澱ませていくことも分からずに。無情に去った光の後に、ただ暗闇だけが残されのも知らないで」
「リアラン……」
「偽善者」
 軋むような声で、リアランが言った。
「今度は誰を助けるの? あの少年? あの子の全てを、あなたは照らすことができるの? 最後まで、照らし続けることができるの?」
 リアランの言葉が、鋭く突き刺さる。キャンディは、それを払うことができなかった。微動だにせず、受け続ける。刺さるに任せて、立ち尽くす。
 リアランの顔に、不敵な笑みが浮かぶ。ゆっくりと、最後の杭を打ちつけるように、唇が音を放つ。
「できるわけ……ないわよね」
 打ち据えられた杭が、心に深く刺さるのをキャンディは感じた。その杭が、どこまでも沈む。意識を引きずり、深い、深い闇の奥へと……。

 

 
 
  表紙に戻る         前へ 次へ  
  第四章・5